雪割草 (2)
「ただいま……」
結局その日も基礎体力作りに専念しただけで終わってしまった放課後の練習を終え、僕がアパートに帰ると、ちょうど父さんが奥のアトリエから出てきた。
「お帰り、太郎。ちょうど良かった。今日は少し奮発して外食をしようかと思うんだが、何が食べたい?」
「……えっ?」
一瞬、僕の胸がズキンと痛んだ。
いつも父さんは絵が完成した日、お祝いを兼ねて僕を外食へ連れ出そうとする。
「か……完成したの?」
「ああ」
嬉しそうに笑って、父さんは手に持ったパレットをかかげて見せた。
「お……おめでとう」
少し不自然な僕の笑顔に気付くふうもなく、父さんはそのまま流し台の方へと姿を消す。完成……してしまった。
とうとう。僕はそっと父さんのアトリエに入った。
イーゼルにかけられた大きなキャンバス。
真っ白な雪景色。
僕が、この3ヶ月過ごした暖かな富良野の風景がこの中にある。
降り積もっていく柔らかそうな雪。
小さな明かりの灯る家の窓。
北海道の冬はとても寒いが、一歩家の中に入るととても暖かい。
それは、冷たい冬の空気が入ってこないように窓が二重になっているからだと初めて知った。
毎日交代で運ばなくちゃならない灯油は重くて大変だったけど、教室の中央にある巨大なストーブの上で焼いたパンがあんなに美味しいものだということも初めて知った。
冷たいはずの雪の中。みんなでおしくらまんじゅうをしたり雪合戦をしたりすると、全然寒くなくなるのだと初めて知った。どうして、絵が完成してしまったんだろう。
僕は無意識に、床に転がっていた赤い絵の具がついたままの絵筆を拾い上げた。
手の中の絵筆とキャンパスの雪景色を見比べる。
完成した雪景色。「ああ、早く春が来ないかなあ」
みんなの声が、僕の頭の中に響く。絵が完成する。
雪が止む。
雪割草が咲いて春が来る。僕は春なんて嫌いだ。
僕は雪割草になんかなりたくない。
みんなに春を告げる役目なんかごめんだ。
僕は……「太郎、何してるんだ。出かけるぞ」
アトリエからなかなか出てこない僕にしびれをきらせて父さんがドアを開けた。
とたんに振り向いた僕の手から絵筆がこぼれ落ち、完成したばかりの絵の上にトンっと当たって床に転がる。
「……あっ!!」
真っ白な雪景色の中央に赤い点が散らばった。
父さんが大きく息を呑むのが解る。
カラカラと床を転がって赤い線を描いた筆がようやく止まった時、初めて父さんが少し動いた。
雪の上の赤い染みは、まるで血のように見えた。
「……太郎……おまえ……」
「…………」
僕は、その時どんな表情をしていたのだろう。
「太郎……」
「……僕……謝らないからね」
「……!?」
「こんな絵、ちっとも良くない。何がイメージ通りに描けた、だよ。全然良くないじゃないか」
「…………」
「こんな最低の絵、駄目になって良かったんだよ!」
「太郎!!」
父さんが思わず拳を振り上げたのが見え、僕は恐怖に目をつぶった。
殴られる!!
間違いなくそう思ったのに、その後来るはずの衝撃も痛みもなくて、僕は戸惑いながらそっと目を開けた。
父さんは怒ってなかった。
父さんはとてもとても哀しそうだった。
「…………」
僕はギュッと唇を噛みしめて父さんの横をすり抜け、アパートを飛びだした。
外は身を切るような冷たい風と共に、また細雪が降り出している。
ふと振り返ると、僕のつけた足跡だけが白い雪の上に点々と続いていた。僕は悪い子だ。
父さんを哀しませて謝りもしない。
僕は本当は少しも良い子じゃない。
必死で良い子になろうとしても、こうやってボロをだす。
僕は、内心喜んでいたのだ。
絵が台無しになって。
きっと、心の底で笑っていたのだ。
最低だ。
最低だよ。かじかむ手を握りしめ、僕はアパートを背に駆けだした。
頬にあたる雪が冷たくて、僕の瞳から涙がこぼれ落ちる。
街の大通りを抜け、学校の横を曲がり、僕は走り続けた。
右手にちらりと松山の家が見えたけど、僕は見ないふりをして走り続けた。
やがて、建物がまばらになり、僕はようやくすっかり町外れまで来てしまった事に気付き、走るのをやめた。
立ち止まると、手と顔が凍える程、冷え切っているのが解る。
いつの間にか雪は止んでおり、僕はふと頭上に重くのしかかっている雲を見上げた。ポツンと独り。
誰もいない。
何故だろう。笑いがこみあげてきた。
僕は、何を惜しがっていたのだろう。
いつだって僕はこんなふうにずっと独りだったのに。
少しだけ、此処の人たちがいつもより優しかったからといって、それが何だっていうんだ。
此処を離れて数ヶ月もすれば、彼らだって僕のことなんか忘れてしまう。
いつだってそうだ。
当たり前だ。連絡先だって解らないんだから。手紙も書けない。電話も出来ない。逢うこともない。
僕は通りすがりの誰かさんと同じで。
同じで。「岬! どうしたんだ、おまえ」
「…………!」
顔をあげると、目の前に金田が立っていた。
「か……金田!? なんで……こんな所で……」
「その台詞、そっくりそのままお前に返すよ」
呆れた顔でそう言うと、金田は腕に抱えていたマフラーを僕の首にかけた。
「いくら春が近いったって、まだまだ夜は寒いんだ。マフラーも無しでこんな所に来て、お前、凍死したって知らないぞ」
「…………」
金田がかけてくれたマフラーがやけに暖かくて、僕はその時初めて金田が自分の首にもきちんとマフラーを巻いているのに気付いた。
「……あれ? このマフラー……」
「服の中入れてずっと抱えてたから暖かいだろ。お前、マフラーも手袋もなしで走っていったって松山が言ってたからさ」
「……えっ?」
「お前、さっき松山ん家の前、すごいスピードで駆け抜けてったんだってな。様子が変だったから、そっちに行ったら気を付けておいてくれって電話もらったんだ。ほら、ちょうどこの近くだから、オレん家。そろそろ来る頃かなあと思って様子見てたんだ」
「…………」
小学校の大通りの側にある松山の家から、少し先の町外れにある金田の家。
連絡をもらってすぐ、金田はマフラーを抱えて外へ飛びだしたのだ、きっと。
「何? どうしたんだ? 岬」
「……父さんと」
「…………」
「ちょっと……父さんとやりあっちゃって…………」
小さく僕が言うと、金田は意外そうに目を丸くして僕を見つめた。
「珍しいな。なんかお前が喧嘩するとか、想像できない。いつも優等生の良い子なのに……」
「僕は良い子なんかじゃない!!」
自分でも驚くほどのきつい口調で、僕は金田の言葉を遮った。
「僕は良い子じゃない。良い子を演じようとしてきただけで、本当はちっとも良い子じゃない」
「……岬?」
「僕が本当はどれだけ悪い奴か、みんな知らないだけだよ」
「…………」本当は、いつだって言いたかった。
旅も嫌いだし、貧乏な生活も大嫌いだった。
お母さんにも甘えられず、友達も作れず。転校を繰り返すのも、もうウンザリだった。
寒い地方も暑い地方も、炊事も洗濯もゴミ出しも何もかも。
大嫌いだった。
明日の保証のない生活も、物珍しそうに僕を見る不動産屋の主人もアパートの管理人も。みんないなくなればいいと思った。
荷物になるからいけないと、必要最低限の物しか持てず、遊び道具はサッカーボールひとつだけで。
他の楽しみなんか何一つ与えられなくて。
僕は……「やっぱり、お前、雪割草みたいだ」
ぽつりと金田が言った。
「知ってるか? 雪割草の花言葉」
「……?」
「雪割草の花言葉はね……」
「忍耐だろ」
突然の後ろからの声に、僕達は驚いて振り返った。
「松山!?」
「お前、結構足早いのな。急いで追いかけたのに、こんなに引き離されちまった」
そう言って笑いながら、松山は僕に手袋を投げてよこした。
「ほら、これで完全防備。寒くなくなったろ」
「…………」
僕は松山の言葉に従い、おとなしく手袋をはめた。
凍えた手にじんわりと奥から暖かさが戻ってくる。
「……雪の下でさ、ずっと寒さに堪え忍んで、ようやく春先に花を咲かせるんだ。雪割草は」
金田が言った。
「辛いこといっぱい抱えて、でも、それをじっと我慢して、オレ達に春をプレゼントしてくれるんだ」
「…………」
「岬、実はさ、オレ達が全国大会にいける自信を持てるようになったのって、ここ2ヶ月くらいなんだよ」
「…………?」
「お前が此処に来て、いろいろ教えてくれたろ。ゲームの組立から、センタリングのあげ方のコツ。ドリブル、パス。オレ、同じMFとして、お前のサッカーセンスってすごいなって思ってた。お前にもらった沢山の技術がオレ達に全国大会の夢をくれたんだ」
「…………」
「オレ、雪割草、好きだよ」
「…………」
「すごく、好きだよ」
金田の言葉を聞いていると、なんだか涙が溢れてきた。
マフラーも手袋も暖かくって、涙がとまらなかった。
――――――「おーい! 岬!!」
しばらく後、アパートへ戻ろうと、僕達が歩き出した時、通りの向こうから小田が何か大きな包みを大事そうに抱えて走ってきた。
真っ白な布で包まれた四角い板のようなもの。
「……!!」
僕は、はっとなって駆けだした。
あれ、小田が持っているのはキャンバスだ。
間違いない。僕がさっき汚してしまった富良野の風景だ。
「……小田!」
「良かった……岬、こんな所にいたのか。親父さん、探してるぜ」
「……父さんが?」
「ああ、これ持って大通りをうろうろしてたから、どうしたんですかって声かけたら、お前がいなくなったって言うもんだから、オレびっくりしてさ」
そう言って、小田は持っていたキャンバスを再び抱え上げた。
「それ……」
「そうそう、オレ、事情よく知らないないんだけど、親父さん、なんかこれをお前に早く見せたいって言ってたから。とりあえず預かって代わりに探しに来たんだ。オレの方がこの街詳しいし、足早いし、すぐ見付けてみせるからって」
「…………」
「ほら、受け取れよ」
小田が包んでいた布を取りながら、僕の目の前にキャンバスを掲げた。
「…………」
とたんに目の前に広がる富良野の銀世界。
「うわー!! すげえ」
隣で松山と金田が感嘆の声をあげた。
広大な富良野の風景画。一面の雪景色。
そして、その中央に、赤いマフラーを巻いた小さな男の子の姿があった。
「……これ……」
小さくて、顔もよく解らなかったけど、赤いマフラーに赤い手袋をして立っている少し明るい茶色の髪をした少年は、なんだかとても幸せそうだった。
優しい富良野の風景の中で、少年は幸せそうに笑っていた。「岬の親父さんの絵って、初めてみたけど、こんな絵を描くんだ」
松山がしげしげと父さんの絵を覗き込んで言った。
「風景専門って聞いたけど、人物も描き込むんだ」
「……初めてだよ。父さんが絵の中に人物を描いたの」
「そうなのか?」
「……うん。そう」
初めての人物。
父さんは僕を富良野の風景の中に住まわせてくれたんだ。きっと。
絵の中で、僕はずっと、この暖かな富良野の地に居られるんだ。
永遠に。「僕ね、また転校するんだ」
「…………」
松山と金田と小田が同時に僕を見た。
「たぶん、2、3日中には、此処から離れる」
「そ……そっか。じゃあ、一緒に雪割草探しに行けないんだ」
小田が残念そうに言った。
「うん。ごめんね」
「何処へ行くんだ?」
金田が聞いてきた。
「わかんない。南の方だってだけ、父さんが言ってた」
「…………」
「僕ね、みんなと一緒に全国大会行きたかった。そんな先まで居られないの解ってたから無理なのは承知だったんだけど、本当に、みんなと一緒に読売ランドのグランドに立ちたかったな」
「立てるじゃねえか」
突然、松山が言った。
「……?」
「行こうぜ。全国大会」
「松山? お前、何言ってんだよ。今の岬の話聞いてなかったのか?」
「聞いたよ」
「だったら……」
「別に味方同士じゃなきゃ、一緒に行ったことにならねえのか?」
「…………え?」
その場にいる全員があんぐりと口を開けた。
「岬、お前、これから何処へ行くのか知らねえが、夏には絶対サッカーの強い学校に転入しろよ」
「…………」
「そんで、その学校が全国大会に出場してきたら、オレ達、また一緒にサッカーできる」
「…………」
「敵と味方に別れちまうけど、ひとつのボールを追って同じグランドに立って、一緒にサッカー出来ることには変わんねえだろ」
「…………」
「ずっと一緒にサッカーをしようぜ」
「松山」ずっと一緒に。
今まで、どんな場所も通り過ぎるとそのまま忘れ去られていた僕に、松山は未来の約束をくれた。
ずっと。
ずっと一緒にサッカーをしよう。
時には味方同士で。時には敵同士で。
それでも、たったひとつのボールを追って、ずっと一緒にサッカーをしよう。
僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、力強く松山に向かって頷いた。
「うん。ずっと一緒にサッカーをしよう」その後、僕らはそろってアパートまで戻った。
父さんに絵を返し、謝ると、父さんは小さな声で、お前のおかげで一段と良い絵になったろう、と笑ってくれた。それから3日後、僕達は四国に向けて旅立った。
向こうに着いたら絶対に住所を教えろとしつこく金田が言うので、僕は四国に着いた最初の晩、借りたアパートのそばの公衆電話から金田に電話した。
今度の学校にはサッカー部がないそうなので、隣町のサッカークラブを覗きに行こうと思ってると言ったら、金田は頑張れよって、でも、あんまりオレ達のライバル増やすなよって、笑いながら小さな声で言った。そして、それから2週間後。
金田から僕の所に一通の手紙が届いた。
中身は小さな押し花と、みんなの寄せ書き。
花はもちろん、白い雪割草だった。FIN.
2001.3 脱稿 ・ 2001.6.16 改訂