雪割草 (1)

久しぶりに入った父さんのアトリエ代わりの小さな部屋の中は、独特の絵の具の匂いが立ちこめていた。
床に散らばった何枚ものスケッチ。イーゼルにかけられたキャンバスには、あと少しで完成を迎える富良野の自然が描かれている。
ここ数日、一向に雪の止む気配がない為、さすがに外で描くことができなくなったのか、父さんはこの小部屋に籠もってふらのの風景画の最後の仕上げをしていたのだ。
一面の銀世界の絵。
それは、冬の絵なのに、何故かとても暖かな富良野の風景だった。

父さんが冬の雪景色を描きたいと言って、この富良野の地にやって来たのは、かれこれ3ヶ月も前のことだ。
いつものように不動産屋に立ち寄って、安いアパートを借りる。
わざわざ真冬にこんな所に越してくるなんて、しかも子供連れじゃ大変だろうと、不動産屋の主人は父さんが肩に背負ってる絵の具やらキャンバスを物珍しそうに眺めてそう言った。
「いや、この子のおかげで随分助かってるんですよ」
笑いながらそう言った父さんを見上げて、僕はとびっきりの笑顔をつくる。
素直な良い子。親思いの優しい子。
仲の良い親子の姿を見せつけると、不動産屋の主人が感心したように、ひとつ息を吐いた。
「いや、失礼しました。とても良いお子さんをお持ちですな、岬さん」
僕達は照れたように笑いながら、案内されたアパートへと向かう。
これが、いつものパターン。
そう、僕はいつだって素直な良い子を演じている。
僕の所為で父さんが後ろ指を指されることがないように。
ただでさえ、離婚して、こんな子供をいいように引っ張り回して、全国を旅して回っているなどと、とんでもない父親だと親戚の人達が白い目で見ているのだ。
片親しかいないからとか、父さんがあんな人だからとか、そんな陰口を少しでもなくす為の、これは手段。
僕達親子が生きていくための手段だった。

「もうすぐ完成なんだね」
父さんの背中に向かって僕がそう言うと、父さんは振り向いて少し笑った。
「ああ、もう少しで完成だ。今回の作品はかなりイメージ通りに描けそうだよ」
「うん」
「あと、1週間くらいだろう。そうしたら、今度はもっと暖かい所へ行こう」
「暖かい所?」
「ああ。南の春の風景を描こうと思っているんだ。九州か四国あたりで」
「ふーん」
「雪が止んで春が来たら、この寒い地方ともさよならだぞ、太郎」
「……うん……」
雪が止んで、春が来たら。
僕はわざと何でもないふうを装って、小部屋を出た。
別にいつもの事だった。
旅をしながら日本中の風景画を描く父さんとの生活に不満などない。
いつだって、ひとつの所に半年も居たことなんかなくて、此処にはまだ長く居たほうで。
「…………」
いつもと同じなのに。
何で、こんな妙な気持ちになるんだろう。
雪が止んで春が来たら。
そう聞いた時、僕は泣きそうだったんだ。
どうしてか解らないけど、今にも泣きそうに哀しかったんだ。
めちゃくちゃにキャンバスを切り裂いてやりたいほど。

 

――――――「あーあ。さっさと雪止まねえかな」
ストレッチをしながら、僕の隣で小田がそうぼやいた。
「今日いっぱいは降り続くって、さっき天気予報で言ってたよ」
「ホントかよ、金田」
「ああ、ホント、ホント。それにこの感じじゃ、明日は止んでも雪かきだけで1日終わりそうだね」
「それじゃあ練習出来ねえじゃねえかー」
金田の言葉に、悔しそうに舌打ちをして、小田が更に声を荒げる。
雪は、見ている分には綺麗だけど、実際その中で生活するのは大変なんだと僕は此処に来て初めて知った。

冬の最中、彼らのようなサッカー部や野球部は、グランドを使えない日、よく体育館の片隅をかりて基礎訓練やボール磨きを行っていた。
それに、ようやく雪が止んで外にでられるようになっても、まずしなければならないのは雪かき。
でも、時々雪かきが、いつの間にか雪合戦に代わり、おしくらまんじゅうに代わり、みんなで汗だくになって笑い転げることもあった。

今、僕の隣でぶつぶつ文句を言いながらストレッチをしているのは、このサッカー部の副キャプテン、小田和正。
なんだかんだ言いながら、暖房の入った体育館の一番暖かい場所を陣取っている。
「おら、ちゃんとストレッチやれよ、お前ら。こういう地道な努力が、後で良いプレイに繋がっていくんだからな」
必死で腹筋をしながら檄を飛ばしているのは、松山光。
このサッカー部のキャプテンである。
思いこんだら一直線の単純明快な性格と、何事にも物怖じしない度胸の良さ。
少し喧嘩っ早いけど、みんなが認める立派なキャプテンだ。
その松山の補佐(フォローとも言う)を一手に引き受けているのが、先程ラジオで天気予報を聞いていた金田春男。
優しげな顔立ちと、柔らかな言葉遣いでみんなの気持ちを和らげてくれる。
でも、奥にとても強いものを秘めているのが、その言動の節々からうかがえる。
そうそう、小田はこの金田と同じ病院の同じベッドで生まれたんだそうだ。もちろん生まれ月は2ヶ月ほどずれてるけどね。
あと、ゴールキーパーの加藤。
それに、山室、若松、中川……。
もともと、物覚えは悪い方ではなかったのは確かだが、僕はたった一日、彼らと一緒にサッカーをしただけで、このチーム全員の名前と顔を覚えてしまっていた。

3ヶ月前、転校初日の放課後の事だ。
僕は何の気無しにグランドで練習をしている彼らの楽しげな姿を見ていた。
転校を繰り返す生活事情の為、僕は今まで正式に何処かのクラブやチームに所属した事はなかった。
たまに助っ人として参加することはあっても、僕はいつもお客様だった。
今回もきっとそうなるだろうと思いながら、それでもこうやってグランドに足を向けてしまうのは何故なんだろう。
30分くらいもそうしていただろうか。
金網に手をかけ、じっとグランドを見つめていた僕の姿に最初に気付いたのは松山だった。
小雪のちらつく中、僕はきっと物欲しそうな目をしていたんだろう。
いきなり、フェンスを乗り越え僕の所に走ってきた松山は、強引に僕をグランドの中に引っ張り込んだ。
「紅白戦兼ねたミニゲームやってるんだけどさ、メンバーが一人足んねえんだ。ちょっと手伝ってくれねえか? 岬」
「……えっ?」
その時、素直に頷いたのは、松山が真っ直ぐに僕を見て岬と呼んでくれた所為だった。
いつも、転校して最初の一週間ほど、僕のあだ名は“転校生”だった。
ようやく覚えてもらって、名前を呼ばれるようになって、友達づきあいが始まった頃、僕は次の地方へ旅立った。
いつも、いつも。
それが当たり前で、その事に疑問なんか持ったことなかったのに。
彼らは、みんな最初の日から、僕を岬と呼び、友達として扱ってくれた。
もともとサッカーは好きだったけど、何だか、その時、僕は初めて本当のサッカーをしたような気がしたんだ。
パスを受ける。パスを出す。
ただ、それだけの事がこんなに嬉しかったのは初めてだった。
そして、その日のうちに彼らは僕を、助っ人ではなく、正式な部員として迎え入れてくれた。
僕が転校を繰り返している事情を説明しても無駄で、
「一ヶ月だろうが半年だろうが関係ないよ。岬はもうサッカー部の一員なんだ。お客様でも助っ人でもない」
松山は笑ってそう言った。

北海道のほぼ中央に位置するここ富良野は、ラベンダー畑などで有名な観光地である。
富良野市内には小学校が11校。僕のはいった「ふらの小」は総生徒数が200人足らずの小さな学校だった。
1学年が1クラスしかなく、体育などの合同授業では2学年一緒に授業を受けることもあるという。
そのせいか、此処では学校中みんなが知り合いで、ほんの些細な出来事さえ、全校生徒が知るのにさほど時間はかからなかった。
街中が知り合いだらけで、まるで巨大な家族のようなこの街は、ずっと他人の中で過ごしてきた僕にとってとても不思議な街に思えた。
「オレ達、みんな兄弟みたいなもんだから」
松山がそう言った時、やけに羨ましかった。
僕は永遠に言うことはないだろうその言葉を、何のてらいもなく発する松山が羨ましかった。
でも、その次の言葉は、そんな僕の気持ちをひっくり返すのに充分値する言葉だった。
「岬、お前ももう、オレ達の兄弟だからな」
雪の中で笑った松山の顔を、僕は一生忘れないと思った。
それ以来、雪が好きになった。
雪の中で肩を並べて歩くのが好きになった。
初めて、雪を冷たいと思わなくなった。

 

――――――「あー、思いっきりボール蹴りたいよう。何とかしろよキャプテン」
ひたすらボール磨きをしていた山室が、ついに根を上げて松山を見た。
「そうだ、そうだ、何とかしろよ、キャプテン。もう、ボール全部磨き終わったぜ」
「お前ら、そういう時だけ人をキャプテン扱いすんなよな」
腹筋の途中で首だけ振り返りながら、松山が言い返す。
「だって、ここ1週間まともにグランドで練習できてないんだよ。腐りもするよ」
ここ数日間、雪はずっと降ったり止んだりの繰り返しだ。
ようやく晴れ間が見えて、雪かきをして、グランド整備が終わった頃、再び雪がパラつきだす。
まるでイタチの追いかけっこだ。
「何が可笑しい。岬」
むすっとした顔で、加藤が僕の顔を覗き込んできた。
「岬、お前は初めてだから珍しいってだけで終わってるかもしんないけどさ、ホント毎年毎年これじゃ、さすがに嫌んなるんだぜ」
「そうそう、今年こそは大いなる野望を成就させる絶好のチャンス到来だってのに」
「野望?」
僕が磨き終わったボールを放り投げた山室に聞くと、待ってましたとばかりに、横から小田が身を乗り出してきた。
「ほら、オレ達、今度6年生になるだろ。ずっと言ってたんだ。6年生になったら本州へ殴り込みかけるぞって」
「……は?」
「バカかお前は。そんな言いかたしたって岬に解るわけないだろ」
ゴンっと派手な音をたてて小田の頭を小突き、金田が申し訳なさそうに笑った。
「今年の夏の全国大会、絶対行こうって決めてたんだ。オレ達」
「全国大会?」
「そう。7月の終わりから8月にかけて読売サッカーグランドで行われる全国少年サッカー大会。北海道代表の切符はオレ達で勝ち取ろうって」
「…………」
「オレ達、一度も北海道から出たことない奴、多いし。きっと全国には凄い奴がたくさんいるんだろうなあって、楽しみにしてんだ」
「へえ……」
「今年は狙えそうなんだよ」
「なんたって、去年めちゃくちゃ強かった室蘭大谷のゴールキーパー、卒業したしな」
「今年はオレ達の年になるぞって」
「なー」
楽しそうに頷きあうみんなを見て、ふと僕の心が重くなった。
今年の夏。
“雪が止んで春が来たら、この寒い地方ともさよならだぞ、太郎”
彼らが全国大会に行く頃、僕は此処にはいないんだ。

冬が終わって春がきたら、僕は此処からいなくなる。
春が終わって夏がきた頃、僕は何処にいるんだろう。

「だから、少しでも多く練習したいんだよ」
「あーあ。早く春が来ねえかなあ」
「せめて雪が止んでくれたらなあ」
悔しそうにつぶやきながら、みんなが窓の外を見上げた。
「なあなあ、松山。そろそろじゃねえか? 雪割草」
突然、小田がそう言った。
「そっか。もうそんな時期か」
「今週末なんかどうかな?」
「それはいくら何でも早いだろ。せめて来週か再来週になんねえと」
いきなり始まった2人の相談に、僕は戸惑ったように、金田を肘で小突いた。
「雪割草?」
「ああ、そっか。岬は知らないんだっけ。オレ達、毎年この時期になると雪割草探しに行くんだ」
笑いながら金田がそう言った。
「何の為に?」
「何って……別にたいした理由じゃないんだけどさ」
「…………」
「オレ達にとって雪割草は春の訪れを知らせてくれる花なんだ」
「……春の……?」
「そう。雪割草って、その名のとおり、春先、溶けかけた雪を割って花を咲かせるんだ。高山植物だから山の方へ行かなきゃならないんだけど。雪解けの谷川のほとりとかにさ、白い花がポッて咲いてるのを見ると、やっと春がきたんだなって気がする」
「…………」
「富良野の長い長い冬の終わりを知らせてくれて、オレ達に春をプレゼントしてくれる花なんだ。雪割草は」
「…………」
「5年くらい前にさ、オレと小田が偶然見つけて、それ以来、なんか毎年恒例行事になってるかな。みんなでワイワイ言いながら山登って探しに行くんだ。楽しいぜ」
金田は本当に楽しそうな顔でそう言った。
「白くて、小さくて、結構地味だけど・・・可愛い花だよ」
「……そう……」
必死で笑顔を作ろうとした僕の顔が微妙に歪んでいた。
「た……楽しそうだね」
「そういえば、岬ってなんか雪割草みたいだ」
突然僕の顔を覗き込んで、金田が言った。
とっさに表情を読まれないかと、僕はあわてて金田から顔をそむける。
「何……それ?」
「ほら、小さくって白くって、可愛いって……あれ? これじゃあ女の子の形容詞だ」
「何言ってんだよ、金田」
周りからすかさず、お前の方が女顔だろとの突っ込みがはいる。

春を呼ぶ雪割草。
僕は、ばれないように小さくため息をついた。

窓の外は静かに降り続く細雪。
雪を見上げるみんなの側で、僕は別の事を考えていた。
永遠に雪が止まなきゃいい。雪割草なんか咲かなきゃいい。
そしたら、春はこない。

春はこないのに……

 

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