約束 (2)
「どうしたの? その頬」
まっ赤に腫れ上がった三杉の右頬を見て弥生が怪訝そうな顔をした。
「ああ……」
「誰?」
「一ノ瀬」
「…………」
なんとなく予想はしていたのか、たいして驚きもしない表情で弥生は空を見上げた。
「驚かないんだね」
「そりゃあね。解るもの。一ノ瀬君の気持ち」
「…………」
「彼がやらなかったら私が代わりに貴方をひっぱたいてるわ」
「や……弥生君…………?」
ふいに歩みを止め、弥生が真っ正面から三杉を見上げた。
「ねえ……そんなに待てない?」
「…………」
弥生の言いたいことが痛いほど心に染みて、三杉は僅かに視線を落とした。
あと1年。あと1ヶ月。
自分はあとどれくらい我慢すればいいのだろう。
ほんの少し走っただけで根を上げるこの忌々しい心臓と、自分はいつまでつき合っていればいいのだろう。
入院している間中、グランドに戻ることしか考えなかった。
それ以外の望みなど何一つないくらい。
「きっと……僕は焦ってるんだ」
「…………?」
「僕がこうやって病院通いを続けていて走ることもままならないっていうのに、翼君や日向君はその間、どんどん先へ行って……力をつけて……」
「…………」
「今頃、翼君は新しいシュートを身につけているんじゃないかとか、日向君のタイガーショットはますます威力を増しているんだろうなとか、そんな事ばかり考えてる。解ってるんだよ。焦ってもどうにもならないって事」
「…………」
「だけど、中学最後の全国大会が始まるまで、あと1年を切ってしまった。このまま一度も僕は公式戦に出場することもなく中学を卒業する羽目になるんじゃないかって、不安になる」
「そんな事、あるはずないわ……!」
おもわず弥生は叫んでいた。
「私、そこまで神様が不公平だとは思いたくない」
「…………」
身体さえ丈夫だったら、誰よりも早く頂点を極められたろう天才少年。
健康である事。
普通の人にとって、あまりにも当たり前の事なのに。
どうしてよりによって、この少年に、神様はその当たり前の事を与えてくださらなかったのだろう。
「解ってるのよ、私達も。一番辛いのは貴方だって。でもね、何もしてあげられなくて見てるだけしかできない者も、辛いの」
「…………」
「一ノ瀬君は本当に貴方にはやく元気になってもらいたいのよ」
「うん」
「……以前ね、一ノ瀬君と一緒に貴方のお見舞いに行った時、私、偶然見ちゃったんだけど……貴方の病室の扉を閉める前はとても楽しそうに笑ってたのに、いざ病室をでたとたん、ふっと表情がくもって、今にも泣きそうな顔をするのよ。彼」
「…………」
「血がにじむほど唇を噛みしめて、そのまま無言で帰っていった一ノ瀬君の後ろ姿。今でも忘れない」
「…………」
三杉が入院している間。そういえば一ノ瀬は何かと見舞いに来てくれた。
そんなにしょちゅう来なくてもいいのにと言った時、一ノ瀬は笑いながら、妹も此処に入院してるんで、気にしないでくださいと笑っていた。
「……あれ?」
ふと、歩みを止めて、三杉は隣を歩く弥生を見下ろした。
「マネージャー。今日、一ノ瀬部活休むって監督に言ってたそうだけど、理由は聞いてる?」
「え? ああ、そういえば、確か病院に行くとか……」
「…………!!」
やはり。
三杉は考え込むように視線を巡らし、門の所で待っている迎えの車を仰ぎ見た。
「……悪いけど、少しだけ時間もらえるかな」
「……?」
「迎えの車、10分でいいから待たせておいてくれないか。すぐ戻るから」
「えっ? ちょっと……淳!?」
「頼んだよ」
言うが早いか突然走り出した三杉は、そのまま弥生を置いて校舎内へ駆け込んで行った。
――――――学校の屋上のフェンスにもたれ、一ノ瀬はじっと眼下に広がる街の景色を見下ろしていた。
小さな家々の屋根がひしめき合っている中、ひときわ目立つ真っ白な建物。
街の中央病院。
昨日から明日香が入院している病院。三杉も今頃、迎えの車に乗ってあの建物に向かっている頃だろうか。
「ふう……」
一ノ瀬は、ひどく疲れたように、ずるずると地面へ座りこんだ
ふと耳をすますと、グランドからは野球部のノックの音や、陸上部の笛の音が聞こえてくる。
「あーあ。何やってんだろう、オレ」
まだじんじんと痛む手を見つめて、一ノ瀬は大きくため息をついた。
とっさに手をあげてしまった事を後悔はしていない。
青い顔をして大丈夫だという三杉に本気で腹をたててしまったのは事実だ。
三杉に罪はないといっても、どうすることも出来なかった。
「痛かったろうな。三杉さん。怒ってるかな……?」
一瞬何が起こったのか解らないという顔をした三杉。
「…………」
一ノ瀬はもう一度少し赤くなっている自分の掌をを見つめため息をついた。『一ノ瀬は、足速くていいね』
陸上部の笛の音を聞いていると、ふいに昔三杉が言ったそんな言葉を思いだした。
『それに、とても気持ちよさそうに走るんだね。羨ましい』
あれは、確か校内でおこなった体力測定の日。
三杉は100m走の記録係としてそこに居た。
『何言ってるんですか、三杉さん。三杉さんだって本気で走ったらかなり速いでしょ。オレ、小学校の時、ドリブルしてる三杉さんに追いつけなくてすごい悔しい思いしたことありますよ』
『今はもう駄目だよ。ここ数ヶ月本気で走った事なんてないし。筋力も随分落ちてる』
そういって寂しそうに笑った三杉に、一ノ瀬は次の言葉を続けられなかった。あれから、約1年。
三杉は未だに本気で走ることすら出来ないでいる。
「…………」
その時、カシャンっと屋上の扉が音を立てて開いた。
こんな所に来る物好きが他にもいたのかと驚いて顔をあげた一ノ瀬は次の瞬間、あんぐりと口を開けた。
「なっ……何やってんですか!?三杉さん!!」
三杉は大きく肩で息をしながら、一ノ瀬の姿を見つけて嬉しそうに笑みをもらした。
「やっと……見つけた」
「…………」
「こんな所に居るなんて、どうりで校舎内走り回っても見つからないわけだ。」
「何で!?」
慌てて三杉の元に駆け寄った一ノ瀬の腕の中に、三杉が力つきたように倒れ込んできた。
「三杉さん!?」
「大丈夫。ちょっと走り疲れ」
「あ……」
「どうしても君に言いたいことがあって、探してたんだ」
「探してって……病院は?迎えの車、来たんでしょう」
「ああ、今、門の所で待ってもらってる」
「あ……貴方は馬鹿か!? オレに何か言いたいことがあるんなら、本間達にでも伝言するなりなんなりできるでしょうに。オレだって後で病院行こうと思ってたんだし、そんな身体で何やってんですか!!」
「あとで病院に来るって、それ、妹さんの入院準備?」
「…………!!」
ぐっと一ノ瀬が言葉を詰まらせた。
「忘れてたよ。また明日香ちゃんが入院することになったって先生が昨日言ってらした。夕べ発作おこしたんだって?」
「……え……ええ」
「大変だね」
「いえ。本当に大変なのはオレじゃない。オレなんかより、貴方や明日香のほうが何倍も大変なんだ。オレはただ見てることしかできない。大丈夫かって声かけて、むちゃしないよう気遣って……」
「僕は死なないよ」
一ノ瀬の言葉を遮って、三杉がはっきりとそう言った。
「…………」
「僕は絶対に死なない。それを言いに来たんだ」
「三杉さん……?」
「むちゃしたことは謝る。心配をかけた事も、自分の身体の事を過信してた事も。だけどね、あんまり僕等を見損なってもらっては困る。僕は決して死なない。もう一度みんなと一緒にグランドに立って走り回れるようになるまで、決して死なない。それだけは信じて欲しい」
「…………」
「強くなるよ。もっともっと。ちゃんと君の隣を同じスピードで走れるように」
「…………」
「約束するから」
三杉はそう言って、じっと一ノ瀬の顔を覗き込んだ。
「三杉さん……」
柔和な顔立ちのわりに、意外と鋭い光を放つ目がじっと一ノ瀬を見つめている。
真っ直ぐな瞳は澄んだ光をたたえて静かに瞬いていた。
「み……すぎさん……」
「死なないよ」
「…………」
「僕は死なない」
ゆっくりと一言一言を噛みしめるように、三杉はそう言い続けた。
「三杉さん……」
「大丈夫。君を哀しませるような事は決してしない。僕は死なないから」
「…………」
抑えきれない衝動に駆られて、一ノ瀬はふわりと三杉の身体を腕に抱きしめた。
すっぽりと腕の中に収まってしまう程の細い身体。
「……!!」
柔らかな三杉の身体にドキリとなって、おもわず一ノ瀬が腕をゆるめると、三杉は不思議そうな顔で少し頬を赤らめている一ノ瀬の顔を覗き込んだ。
「おかしな奴だな。殴るのは平気なくせに、抱きしめるのは気が引けるのか?」
「なっ……!!!」
ぼっと一ノ瀬の顔が火のついたように赤くなった。
「な……何言ってんですか!?」
「冗談だよ」
くすりといたずらっ子のような目をして三杉が笑った。
「……もう……」
「あ、こんな時間だ。10分だけって言ったのに30分も待たせてる」
そう言って慌てて立ち上がった三杉は、もういつもの表情に戻っていた。
やはりかなわない。
苦笑しながら一ノ瀬も立ち上がる。
たとえどんな事があっても、自分は永遠にこの人を追って行くんだろうな。
影のようにそばに居て。この人を支え続ける。
それが自分の存在意義かもしれない。
「三杉さん」
屋上の扉を開けようとする三杉に手を貸しながら一ノ瀬が言った。
「オレ、さっきの約束、一生忘れませんからね」
「約束?」
「絶対死なないって」
「…………」
「約束破ったら、オレ貴方を許しませんから」
「それは怖いな」
くすりと三杉が笑う。
「…………」
「一ノ瀬」
「……はい」
「来年の夏。同じグランドに立とう」
一ノ瀬の顔を見上げ、三杉がはっきりと言った。
一ノ瀬は、その時の三杉の顔を永遠に忘れないでいようと思った。FIN.
2001.10 脱稿 ・ 2002.03.09 改訂