約束 (1)
夏の暑さがようやく影を潜め、秋口の澄んだ空気が空一面を覆い尽くす季節。
一ノ瀬は晴れ渡った空を見上げ、小さくため息をついた。
今日は金曜日。明日の土曜日は第2土曜なので学校は休みである。本当だったら妹を何処かへ遊びに連れて行く予定だったのにと、一ノ瀬は窓の向こうに小さく見える白い建物を睨みつけた。
「何怖い顔してんだよ、一ノ瀬。早く部室へ行こうぜ」
隣のクラスの本間が、とうの昔に授業は終わったというのに1人ぽつんと教室に残っている一ノ瀬を見つけて駆け寄って来た。
「今日は練習メニューに紅白ミニゲームを加えるから急いで集合しろって先輩が言ってたぞ」
「紅白ミニゲーム? 急に珍しいな。今日は基礎練ばっかの予定だったはずだろ」
「ああ、実はな……」
「でも残念。オレ、今日は部活休み」
本間の言葉を遮るようにそう言って一ノ瀬はカバンの中に教科書をしまいだした。
「休み!?」
「そう。監督には言ってあるよ。今日は用事があるんだ」
「なんだよそれ。明日にまわせないのか?」
「まわせるわけないだろ。第一そういう類の用事じゃない」
むすっとした顔で言い切った一ノ瀬を見て、本間が不満そうに口をへの字に曲げた。
「ちぇっ。せっかく今日は三杉さんが来るっていうのに」
「……えっ?」
教科書を入れる手を止めて、ようやく一ノ瀬が顔をあげた。
「三杉さん……来るの?」
「ああ」
一ノ瀬の反応に、これは脈ありとにらんだ本間はここぞとばかりにまくし立てた。
「そうなんだ。やっと検査入院が終わって今日から登校してるんだけどさ、三杉さん。練習に参加して良いって許可がおりたらしいんだ。だから練習メニューも変更されたんだよ。せっかく三杉さんが来るのに基礎練ばっかじゃ勿体ないじゃないか。おかげで朝から真田なんかはしゃぎっぱなしなんだぞ」
「嘘だ」
思わず口をついて出た一ノ瀬の言葉に、本間が怪訝そうに顔をしかめた。
「何で嘘なんだよ。ホントだってば。三杉さん言ってたもん。今日は気分も良いからたくさん走れるって。ほら、見て見ろよ」
そう言って本間は一ノ瀬の腕を引っ張って廊下へと連れ出すと、下のグランドを指さした。
「ずっと入院してて身体がなまってるから、ちょっと運動したほうがいいんだってさ。」
見下ろすと、グランドの隅で三杉が準備運動をしている姿が目に入る。
淡い栗色の髪。白い肌。ユニフォーム姿の三杉を見るのは随分久しぶりのような気がする。
「また少し痩せた? 三杉さん」
「そっか?」
一ノ瀬のつぶやきに、本間がそうだっけという表情をして、もう一度グランドを見下ろした。
「仕方ないよ、ずっと病院だったんだし」
「うん。一ヶ月ぶりくらいだっけ。三杉さんが部活に顔出すの」
「そうだな」
「…………」
小学生の時、全日本少年サッカー大会のグランドで倒れてからずっと、三杉はまだ一度も公式戦はおろか練習試合にさえ参加できずにいた。
そのままエスカレーター式に一ノ瀬達と同じ武蔵中学へ進学したものの、数ヶ月に一度は検査のためと学校を休み、もちろん毎日のクラブ活動など一切許可してもらえなかった。
それでも、三杉のたっての願いで籍だけはサッカー部に所属させてもらい、時々見学がてら部活へ顔を出し、調子の良い時は練習に参加させてもらう。
そんな生活を送っている三杉の久しぶりの部活参加。みんなが喜ぶのも解る気はするが。
グランドの隅で、気持ちよさそうにのびをする三杉を見て、一ノ瀬が小さくため息をついた。
「なんだよ、ため息なんかついて。そんなに三杉さんが部活に顔出すの嫌なのか」
ちらりと一ノ瀬を見て、本間が訊いた。
「そうじゃないけど……本当に大丈夫なのか? あの人。昨日の今日だろ、退院したの」
「ほんっと心配性なのな、お前って。大丈夫だよ。三杉さんだってもう倒れるまで無茶することなんてしないって。自分の身体の事なんだから自分が一番良く解ってるはずだろ。本人がちゃーんと大丈夫って言ってたんだから、大丈夫だって」
「……だと良いけど」
「んな心配なら、練習出てこいよ。そばで目光らせてればいいじゃないか」
「…………」
「何かあった時、そばに居てやりたいなら、ちゃんと見てなきゃな」
「そりゃ、そうできれば……」
言葉を濁す一ノ瀬を見て、本間がにやりと笑みを浮かべた。
「じゃ、決定。今日の用事は後回しにして、部活へ行こうぜ!」
「お……おい!本間!オレは別に……!」
浮かない顔の一ノ瀬の腕を引っ張って、本間は部室に向かって廊下を走り出した。
――――――今日の練習メニューはランニング5kmと基礎訓練。パス練を少しと仕上げに紅白ミニゲーム。
三杉は1kmだけランニングに参加し、その後休憩を挟んでミニゲームに参加することになった。
あんまり無理しないでくださいねと、いつもよりゆっくりめに走る皆に混じって、三杉は大丈夫だからと、わざとスピードをあげてダッシュをかけた。
「ちょ……三杉さん!?」
慌てて追いすがる本間や真田をふり返り、三杉は楽しそうに笑う。
「急にスピードあげて、ビックリするじゃないですか」
「久しぶりだから、ペース配分忘れちゃったよ。でも大丈夫。全然苦しくないし」
「なら、いいですけど」
「やっぱり気持ちいいね。おもいっきり走るって」
久しぶりにグランドを走る三杉は本当に嬉しそうで、そんな三杉の笑顔を目で追いながら、一ノ瀬はなんともいえない表情で小さくため息をついた。
解っている。
解っているのだ。
三杉だって自分達と同じ中学生なのだ。
毎日病院の白いベッドに寝ていて楽しいわけはない。
いつだってこうやって自由に走り回りたいと思っているのだ。
かくいう一ノ瀬自身だって、三杉が部活に顔を出してくれて嬉しくないわけはない。
小学校の頃から、ずっと、三杉と共にサッカーをすることだけを望んできたのだから。
グランドを走る三杉が好きだった。
額に光る汗も、はずんだ息も、皆に指示を出す澄んだ声も。
本当に、どれだけ好きだったか。
だが、そう思う反面、どうしても一ノ瀬の頭から消えない1つの場面があった。
真っ青な顔色をして泥にまみれた三杉の姿。
雨の中の準決勝戦。
走ることすら出来なくなって、ゴールポストに背をもたせかけ、苦しげな声で指示をとばしていた三杉。
そして、試合終了の笛と共に崩れるようにグランドに倒れ込んだ細い身体。
「三杉さん……」
ギリっと唇を噛み、一ノ瀬はほんの少し、三杉との距離を縮めた。10分だけという約束で、ミニゲームの後半にグランドに足を踏み入れた三杉は、交代した最初の3分で見事にシュートを決めた。
わあっと歓声があがり、本間が嬉しそうに三杉に飛びつく。
顔色も悪くない。呼吸も苦しそうじゃない。
楽しそうな三杉を見ながら、それでも拭いきれない不安と共に一ノ瀬はみんなより少し離れてじっと三杉の様子を窺っていた。
そんな一ノ瀬の悪い予感が的中したのは、ミニゲームが残り時間あと1分をきった頃。
ふいにトップスピードでドリブルをしていた三杉が足をもつれさせ転倒した。
「三杉さん!?」
グランド中のみんなの動きが止まる。
「三杉さん、大丈夫ですか!?」
「大丈夫……ちょっと転んだだけ……」
笑顔で立ち上がろうとした三杉が次の瞬間胸を押さえてその場にうずくまった。
「三杉さん!!!」
誰よりも素早く三杉の元に走り寄った一ノ瀬が、三杉の身体を抱きおこした時、三杉は左胸を押さえ、苦しげな息をもらしていた。
「三杉さん!!」
「先生!大変です!!」
真田がダッシュで保険医の先生を呼びに走り去って行った。
――――――ゆっくりと目を開けた三杉の目に見慣れた天井が映った。
「………………」
学校の保健室の白い天井。
いつも入院している病院の天井とよく似たその色を三杉はあまり好きではなかった。
静かに首を巡らすと、ベッド脇の椅子に腰掛けた一ノ瀬と目が合う。
とたんにバツの悪そうな顔をして三杉がすっと視線をそらせた。
「い……一ノ瀬」
「…………」
一ノ瀬はじっときつい眼差しで三杉を睨みつけている。
「僕……」
「いい加減にしてください」
一ノ瀬が言った。
「いったいどれだけ無茶したら気が済むんですか。貴方は」
一ノ瀬の口調は眼差しと同様にかなりきつい。
「一ノ瀬……もしかして……かなり怒ってる?」
「もしかしなくても怒ってます」
ぴしゃりと言い返し、一ノ瀬は椅子から立ち上がった。
「今、青葉マネージャーが病院に連絡してくれてますけど、やっぱり病院の許可がおりたなんて大嘘だったんでしょう。だいたい昨日退院したばかりで、そんな許可がおりるなんて信じたオレ達が馬鹿でした」
「…………」
「みんな貴方の言葉を信じて参加を許可したってのに。嘘ついてまでグランド走り回るなんて自殺でもする気ですか」
「…………」
「こんな事なら、貴方の言葉なんか一切信用しないで無理矢理止めればよかった」
「一ノ瀬!」
シーツをはねのけ、三杉がベッドの上へ身体を起こした。
「車が来たら、すぐ病院へ戻ってもらいます。それまでおとなしくしてること」
「いいよ、病院なんて。もう大丈夫だから」
「大丈夫かどうかは医者が決めることです。貴方じゃない」
「何言ってるんだ。自分の身体のことは自分が一番解ってる。僕が大丈夫だと言ったら大丈夫なんだよ」
珍しく必死で三杉は一ノ瀬に食ってかかった。
やっと退院できたばかりの病院にまた連れ戻されるなんて冗談じゃない。
今回の検査入院はいつもより念入りだったのか二週間もベッドに縛り付けられて、身動きできなくて。
ようやく普通に学校に登校出来て、普通に授業を受けることが出来て、放課後にはサッカー部に顔を出せて。
それがたった一日でまた病院に舞い戻る羽目になるなんて。
「気分も良くなったし、心臓も痛くない。動悸だって元通りだよ。大丈夫。」
「言ったでしょう。貴方の大丈夫は金輪際信用しないって!」
叩きつけるような一ノ瀬の物言いに、ついに三杉がカッとなった。
「いい加減にしろ! 僕の身体は僕のものだ。お前にとやかく言われる筋合いはない!」
「……!!」
パシン!
一ノ瀬の平手打ちが三杉の頬に飛んだ。
「い……一ノ瀬!? 何やってんだお前!!」
ちょうど保健室をのぞきに来た真田と本間が慌てて一ノ瀬を後ろから羽交い締めにする。
「おまっ……三杉さんに手あげるなんて気でも違ったのか!?」
「一ノ瀬!」
「うるさい!!!!」
力任せに二人の腕を振りほどき、一ノ瀬はきつく唇を噛みしめたままドカドカと保健室を出ていった。
「おい!一ノ瀬!!」
本間が大声を張り上げ、廊下へ飛び出したが、一ノ瀬は振り返りもせずそのまま角を曲がって行ってしまった。
「ったく、あの馬鹿……」
呆れた口調でつぶやきながら本間が保健室へ戻ると、三杉が呆然とした表情でベッドに座りこんでいた。
「三杉さん、大丈夫ですか?」
真田が心配そうに三杉に声をかける。
「………………」
三杉は小さくうなずきながら、右頬を手で押さえている。
「すいません、三杉さん。あいつ、なんか今日ずっと機嫌悪くて」
「今日も本当は練習参加しないはずだったの、オレが無理矢理引っ張ってきたから、それで……」
「参加しないはずだったって……体調でも悪かったのか? 一ノ瀬」
三杉がおもわず顔を上げて本間を見た。
「いや、体調じゃなくって、用事があるって言ってましたけど」
「………………」
「まったく何の用事か知らないけど、それでイラついて三杉さんに手あげるなんてとんでもない野郎だ」
「一ノ瀬が悪いんじゃないよ、本間」
ぶつぶつと文句を言う本間をたしなめながら三杉は小さくため息をついて、すっと頬に当てていた手をはなした。
「うわ……」
まっ赤に腫れ上がった右頬を見て、真田が小さく声をあげる。
「あいつ手加減って事知らないのか……?」
「すいません。本当」
「君が謝る事はないだろう」
本間が差し出した水に濡らしたハンカチを腫れた右頬に当て、三杉は再びうつむいた。
「すまない。心配かけて」
ぽつりと三杉が言う。
本間と真田はどう声をかけて良いか解らず戸惑ったようにお互い顔を見合わせた。
「…………」
その時、遠慮がちに保健室の扉を開けて、弥生が顔を出した。
「三杉君、裏門の所に車が到着したみたいだけど、歩ける?」
「ああ、ごめんね、迷惑かけて。」
ベッド脇にかけてあった学生服を羽織り、三杉がベッドから降りる。
「先生、何か言ってた?」
「随分怒ってらしたわよ。まったく人の忠告を聞かない子だって」
多少おどけた言い方でそう言った弥生に向かって軽く肩をすくめ、三杉はまだ心配そうに立ちつくしている本間と真田に向かって微かに微笑みかけた。
「じゃあ、僕は病院に戻るから、一ノ瀬を見かけたら謝っておいてくれないか?」
「三杉さん……」
「どうせ、またしばらく学校に顔出せないと思うし。頼んだよ」
「あ……はい」
二人が頷くのを確認して、三杉は弥生と共に保健室を出ていった。
三杉のいなくなった保健室は、やけに寒々とした空気が漂っていて、残された二人はどちらともなく、深いため息をついた。