海の時間 (5)

「私はこの写真が好きだな」
暁色の海の写真を指差して征士が言った。
「ああ、夜明けの時の写真だ。これは今朝撮ったやつだよ」
「そうか」
波の上にすーっと伸びた朝の光。ほんの少しだけ顔を覗かせた太陽。
それは普段見ている昼間の海とは全然違う、何とも言えない光のコントラストがとても美しい写真だった。
「そうだな。オレもこれは良いと思ったしな。じゃあ、これと、それからこっちとそれと、3枚送ろうかな」
居間のテーブルにたくさんの写真を並べ、遼は思案顔で腕を組む。
征士は遼が作業している正面のソファに座り、もう一度テーブルの上の写真達を眺めた。
朝の海。昼の海。夜の海。
海の底の石まで見えている透明な海。真っ白な水飛沫をあげている海。
光の粒子を寄せ集めたようにキラキラと輝いている水平線。高い空。
綺麗な萩の海の沢山の表情が遼の手によって切り取られていた。
「どれも本当に良い写真だな」
感心したように征士が言うと、遼は照れくさそうに笑って頷いた。
「場所が良かったんだよ。お世辞抜きにあそこの海は綺麗だった」
「それは、水滸が育んできた海だからな。綺麗で当然だろう」
「ああ、そうだよな。まったく。本当にそうだ」
海。伸の海。伸が愛した海。
それだけで、あの萩の海は特別な海となる。
「遼」
「ん?」
写真を仕分けする手を止めて、遼が征士を見あげた。
「何?」
「楽しかったか?伸との旅行は」
「………うん」
コクリと素直に遼は頷いた。
「楽しかったよ。すごく」
「……………………」
「すごく楽しくて、楽しくて………」
言葉が途切れる。
「……………………」
「………楽しすぎて………ほんの少し哀しかった」
「遼」
ふっと顔を上げて、遼は征士に笑顔を向けた。
「征士、オレってやっぱり我が儘なのかな」
「……………………」
「我が儘なのかな………?」
「遼………そ……」
「征士」
征士が何か言いかけたのを遮って遼が再び口を開く。
「征士は海に降る星って見たことあるか?」
「海に降る星?」
「ああ」
「それは………?」
くしゃりと顔を歪め、遼が征士から視線をそらせた。
「伸がさ、一番好きな海なんだって」
「伸が? 海に降る星が好きだと?」
「ああ」
「そう……言ったのか?」
「ああ」
小さく遼が頷いた。
海に降る星。
海に降る星。
一度だけ見たことがある。あれは、確か正月前。
当麻のパソコン画面の中に。
では、伸もあの画面を見たのだろうか。
ありったけの光を海に届けている当麻の想いを。
「……………」
征士は何も言葉をかけられないまま、じっとうつむく遼の顔を見つめていた。

 

――――――「よう、こんな所にいたのか。探したじゃないか」
ベランダでぼんやりと星を眺めていた伸のもとへ当麻がいそいそとやって来た。
「あれ? 書斎に行ったんじゃなかったの?当麻」
「いんや」
当麻がゆっくりと首を横に振った。
「せっかく伸が帰ってきたのに、独り寂しく書斎にいる理由はない。今日くらいはずーっとお前のそばに居たいんだよ」
「………………」
呆れた顔で伸は当麻を見上げた。
「よくもまあ、そういう台詞恥ずかしげもなく言えるね。感心するよその神経」
「そうか?」
にやりと笑い、当麻は手に持っていた珈琲を伸に手渡した。
「ほら、たまにはどうかと思って珈琲まで入れてきてやったんだぞ」
「それはどうも。ただ、君の入れる珈琲っていつも濃すぎるんだよね」
「お前、ほんっと、一言多いな」
「そう?」
すねた顔をしている当麻をチラリと見て伸はコクリと珈琲を飲んだ。
「ほら、やっぱり濃すぎる。胃を悪くするよ。こんなのばっかり飲んでたら」
「普段はお前が美味しいのを入れてくれるんだからいいじゃないか」
「普段はって、別に僕は君の専属珈琲メーカーじゃない」
「またそういう憎まれ口を……」
言いながらくしゃりと伸の髪を掻き回そうとして、当麻はふと口を閉じた。
「……………」
「…………………?」
急に黙ってしまった当麻に伸が不審気な目を向ける。
「何? どうかした?」
「いや」
「……………」
「秀の言ってたこと、あながち嘘じゃないのかもなって思って」
「秀が? 何?」
じっと伸を見つめて、当麻が少々バツの悪そうな顔をした。
「言っておくがこれは秀が言ってたんだからな」
「だから、何?」
「最近のお前は、やけに色っぽいって」
「………はぁ!?」
思わず伸が絶句した。
「だから、秀がそう言ってたんだってば」
慌ててそう言いながら当麻が後ろへ後ずさりした。
「まったく何バカなこと言ってるんだよ、君達は」
「別にバカな事じゃないぞ。本当の事だよ。だから……」
「…………………」
「あんま綺麗になるなよ。それ以上」
「…………………」
どう答えていいかわからず、伸は絶句したまま当麻を睨みつけた。
当麻も所在なさげに頭を掻いて、誤魔化すように珈琲を口に運ぶ。
「うん。確かに苦い。おかしいな。ちゃんと計ったつもりだったんだけどな。何が違うんだろう……」
ブツブツと独り言を言いながら当麻は再びチラリと伸の方を盗み見た。
伸は少しうつむき加減で手の中の珈琲をじっと見つめている。
僅かに伏せられた睫毛。物思いに沈んだ顔。
「………なあ、伸」
再びぽつりと当麻が口を開いた。
「………何?」
「遼と何があった?」
「…………………」
ギクリと一瞬伸の顔が強ばった。
「何って……何?」
「だから…………」
「…………………」
「………その…………」
「…………………」
なんとなく気まずい沈黙が続く。
「別に何もないよ。だいたい、僕達は写真撮りに行っただけだし」
「そうか?」
「そうだよ」
「じゃあ、なんであいつはお前をあんな目で見てるんだ?」
「……………あんな目?」
「…………………」
「どういうこと?当麻」
「遼……ちょっと変わった」
当麻がぽつりと言った。
「瞳の色が更に深くなった」
「…………………」
「まるで烈火の瞳を映したように」
「………………!?」
伸が小さく息を呑む。
遼。
黒曜石のような遼の瞳。
懐かしい彼の人と同じ。
『……大好きだよ。伸』
『本当に…………好きなんだ……』
『ちょっとだけ、当麻には内緒な』
遼。
本当に。
いつの間に、遼はあんな目をするようになったんだろう。
もし、一年前なら。いや、半年前なら。自分は遼にあんな表情をさせずにすんだのだろうか。
ごめんなんて言葉を言わずにすんだのだろうか。
もし。
もしも。
「当麻、ひとつ我が儘言ってもいい?」
ささやくような声で伸が言った。
「…………………?」
「時間を、止めてくれない?」
「…………………!?」
「なんてね。冗談」
少しも冗談ではないような目をして伸は微かに笑った。
当麻はしばらくの間何も言えずにじっとその愛しい伸の顔を見つめていた。

 

――――――それから二週間後。遼の元へ写真集掲載決定の知らせが出版社からもたらされた。
採用されたのは征士が一番気に入っていたという夜明けの海。
一筋の光が波の上を照らし出す幻想的な写真だった。
そして、遼がその写真につけたタイトルは『海の時間』といった。

FIN.      

2001.7 脱稿 … 2003.8.17 改訂    

 

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