海の時間 (4)

真っ暗な水平線にすーっと光が射し込める。
ゆっくりと空が暁色に染まりだし、波の上を光の粒子が踊り出す。
カシャ。
キラリと光った波の一瞬を捉え、遼の手がシャッターを切った。
遥か彼方から大きな太陽が顔を出す。
カシャ。
柔らかな光を放つ太陽に向けて、再び遼がシャッターを切る音がした。
夜明け前から太陽が完全に昇りきるまでの数十分。
伸の耳には波の音とカメラのシャッター音だけが響いていた。
やがてすっかり太陽が昇りきり、暁の空が昼間の青色に変わった頃、最後のシャッター音が鳴り終わり、フィルムを巻き取るジーという音が聞こえた。
「終了?」
「ああ」
そっと伸が訊くと、遼がコクリと頷いて三脚からカメラを外した。
「良いの撮れた?」
「ん……多分」
「よかった」
「ごめんな。朝早くからつき合わせて。昨日も遅かったのに」
「ううん。僕も楽しかったから、平気だよ」
三脚をバックにしまうのを手伝いながら伸がふふっと笑った。
「僕は、遼が写真撮るとこ見るの、好きなんだ」
「…………………」
「だから、とっても楽しかった」
「…………………」
朝日に照らされた伸はやはりとても綺麗で、遼の胸が再びズキンと痛んだ。
「伸」
「何?」
カメラをしまい終え、遼はじっと食い入るような真剣な眼差しで伸を見つめた。
「…………………」
「何?遼」
伸は相変わらず柔らかな笑顔のままで遼を見つめ返す。
届かない想い。
遙かな。遙かな想い。
望んではいけない。遙かな想い。
「ごめんな。昨日」
「…………………?」
「オレ、またお前を困らせたろ。好きだなんて言って」
「……………」
ほんの一瞬、伸の顔から笑顔が消えた。
「ごめんな」
「何で謝るの?」
「………だって……」
「人に好かれて嫌な気持ちになる人間なんていないよ」
「……………」
「嬉しかったよ。ありがとね」
「……………」
ありがとう。そう言いながらも伸の目は少しだけ哀しそうだった。
「伸………」
想いが止まらなくなる。
本当に。
どうして、こんなにまで好きなのだろう。
どうして、この人でなければならないのだろう。
自分はどうして、他の誰でもないこの人と出逢ってしまったのだろう。
倖せで、残酷な夢。
叶わないことがわかっていながら、それでも手を伸ばさずにはいられないほど。
どうして。
「伸………ごめん……ちょっとだけ」
どうしようもない衝動に駆られて、遼は再び伸の身体を抱きしめた。
「ちょっとだけ、当麻には内緒な」
きつくきつく伸の身体を抱きしめる。
「……………」
力の限り抱きしめる。
肩を抱き寄せ、柔らかな髪に顔を埋める。
涙がこぼれた。
好きで好きで、どうしようもなくて。
本当に、どうしようもなくて。
涙がこぼれた。
「………遼……」
艶やかな遼の黒髪をそっと撫でながら伸がささやくように言った。
「遼…………」
「……………」
「僕はね、遼。君のことを一番大切だと思ってる。君を護ることが僕が生きている理由なのだと、本気でそう思ってる。それだけは信じて欲しい」
「………………」
「本当だよ」
「………………」
すっと遼から身体を離し、伸は涙に濡れた遼の瞳を覗き込んだ。
懐かしい彼の人と同じ黒曜石の瞳。
一生をかけて護りたいと思った真っ白な命。
「………遼………」
そっと額にかかった黒髪を掻き揚げながら、伸は遼の頬に唇を寄せた。
「……………」
頬に、額に、瞼の上に、そっと唇で触れる。
「………伸………」
「ごめんね」
「…………………」
「……ごめんね……遼」
「……………」
「さ、帰ろう。みんなの所へ」
「……………」
「………遼」
「……………」
遼がコクリと頷いた。

 

――――――「よう、お帰り! お土産は?」
玄関を開けると真っ先に秀が飛び出してきてお土産の入った紙袋を伸の手から取り上げた。
「お、食い物か?」
「まあね。冷やした方が美味しいから冷蔵庫へいれてきなよ。夕食のあとにでも出してあげるから」
「了解!」
「まったく何だよあの態度。人より土産のほうが大事みたいだな」
土産物のゼリーの詰め合わせを手にダッシュでキッチンへと走り去っていく秀を見送りながら伸が大げさにため息をつくと、入れ替わりに征士が居間から顔を出した。
「つつがなく過ごせたようだな。萩は楽しかったか?2人とも」
「ああ」
「それは良かった。風呂を沸かしてあるからゆっくり身体を休めるといい」
「ありがと征士」
重いカメラバックを代わりに持ってやりながら、征士が遼に笑いかけた。
「で、写真のほうはどうだったんだ?良いものが撮れたか?」
「うん。現像してみないと何ともいえないけど、大丈夫。ずっと伸が手伝ってくれてたから良いのが撮れたと思うよ」
「そうか」
少し浅黒くなった顔をして遼が嬉しそうに笑った。
「遼、日焼けしたな」
「逞しくなったろう」
「ああ。にしても一緒に海にいたわりに伸は相変わらず白いままだな」
「悪かったね。日焼けしない体質なんだよ。僕は」
「ほう」
「だいたい征士だって色白の部類に入るんだから、君にだけは言われたくないな。白いとか」
「何を言うか。私はただ東北育ちなので日焼けに縁がないだけだ。焼こうと思ったらいつでも焼ける」
「へえ、それは初耳」
軽口をたたき合いながら廊下を行くと、秀がパタパタとキッチンから駆け戻ってきて、伸の荷物を代わりに肩に担ぎ上げた。
「ほら、荷物はオレが部屋に放り込んでおくから、書斎に行ってやれよ、伸」
「書斎?」
言われて初めて、伸はまだ当麻が顔を出して来ていないことに気付いた。
「そういえば、当麻は?」
「だから書斎に顔出せって」
「また書斎に籠もってるの? 何で出てこないんだよ」
「いや、帰りを待ちわびすぎて、会うのが気恥ずかしいんだろ」
「何ふざけたことを言ってるんだ」
二階へ行こうとしていた伸はくるりと方向転換し、ズカズカと書斎の前まで行くと、中に聞こえるようにわざと大声をだした。
「疲れて帰ってきた仲間に出迎えの挨拶もなしっていうのは人としてどうかしてるよね、当麻」
「お……おい、伸」
「そんなだから頭は良いけど一般常識がなってないって言われるんだよ。いい加減改める気はないの?そういうところ」
「まあまあまあ」
必死で笑いをこらえながら秀が伸をなだめた。
「帰った早々痴話げんかすんなよ」
「……誰が痴話げんかだ」
「まあ、つもる話はゆっくり顔つき合わせてするんだな。ほら、扉越しじゃ伝わるもんも伝わらねえぞ」
ガチャリと書斎の扉を開け、伸の背中を中へ押し込むと、秀がニッと笑った。
「んじゃ、そういうことで」
「ちょっ……何がそういうことなんだよ、秀!」
伸が振り返るより先にバタンと目の前で扉が閉じられる。
「………もう……」
小さくため息をついて伸はくるりと当麻の方へ向き直った。
「当麻」
「……………」
「当麻ってば」
当麻は伸に背を向けたままこちらを振り返ろうともしない。
「当麻。いい加減にしないと本気で怒るよ」
「……………」
「当麻」
「頼む。それ以上近づくな」
突然当麻が言った。
「…………は?」
足を止めて伸がじろりと当麻の背中を睨みつける。
「何、それ」
「今、オレに近づいたら、何をするかわからんぞ」
「……………はぁ?」
何のことだと伸が眉間に皺を寄せた。
「昨日から酷いんだ」
「何が」
「禁断症状」
「………えっ?」
もう一度伸は呆れた声をあげる。
「何? 禁断症状?」
「そう。愛しの伸ちゃんに逢えないから禁断症状が出てるんだ」
「人をドラッグかニコチンみたいに言わないでくれる?」
「仕方ないだろ。本当にそうなんだから」
後ろを向いたまま当麻は頑なに伸の方を振り返ろうとしない。
「逢えないと苦しくなる。ほら、麻薬と同じだ」
「バカか君は」
大げさに舌打ちをして、伸は力任せに当麻の腕を引っ張り、椅子を回して自分の方に向き直らせた。
「ただいま。当麻」
「……………」
「いつまでそういう態度とる気?」
「……………」
「当麻」
ようやく当麻が顔を上げて伸を見つめた。
「ただいま。当麻」
ゆっくりと。一言一言を区切るように伸が言う。
「………おかえり、伸」
つぶやくようにそう言って、当麻が立ち上がった。
「……………」
「おかえり、伸。逢いたかった」
「……………」
「逢いたかったよ」
ようやくふっと伸が笑みをこぼした。 

 

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