海の時間 (3)

「なんか、迫ってくるみたいだ」
夜の海は想像していたよりもずっと暗くて広かった。
灯りひとつない真っ暗な海岸。星と月の明かりにのみ照らされた波が繰り返し寄せては返す。
伸はさっと靴を脱ぎ、波打ち際を裸足で歩きだした。
伸の足下で小さな波が砕ける。
『帰ってきたね。』
なんだか海が伸にそうささやいているような気がした。
「遼もおいでよ。気持ちいいよ」
膝の辺りまでの浅瀬から伸が笑顔で振り返った。遼も誘われるままに靴を脱ぎ、水の中へと足を踏み入れる。指の間を波に乗った砂がすり抜けていくのが不思議な感覚だった。
「なんか足下がくすぐったいな」
「だろう?」
転ばないようゆっくりと慎重に足を運ぶ遼に向かって伸がくすりと笑いかけた。
「そんな恐る恐る来なくても大丈夫だよ」
「そんなこと言ったって」
こんな不安定な足場なのだから、どうしても慎重にならざるを得ないのは当たり前。
伸のように平気で歩き回れる方がおかしのだ。まったく。
そんなことを考えながら、ようやく遼は伸の元へと辿り着いた。
「今は暗くてよく見えないけど、向こうにちょっとした岩場があるんだよ」
伸が海岸沿いの波の向こうを指差した。
「へえ」
「そこから更に20m程離れた海の中に大きな岩が顔を出しててね。そこだけ特に波が荒いんだ」
伸が懐かしそうに岩場の方向を振り仰ぐ。
「その岩、度胸試しの岩って呼ばれててね。子供達がよく勝負事に使ってたんだ」
「勝負事?」
「そう。どっちが早く波にさらわれずに岩まで泳ぎつけるかってね。といっても本当に危ないから中学生にならなきゃやっちゃ駄目って大人達にきつく言われてたんだ」
「伸も泳いだのか?」
「まあね。別に誰かと勝負してってわけじゃないけど」
くすくすと可笑しそうに伸が笑った。
「初めて泳いだのは小学校3年生くらいの時かな?」
「小学生?だってお前、今、危ないから中学にならなきゃ行っちゃ駄目って……」
「うん、そうなんだけど。駄目って言われたらやりたくなるのが好奇心旺盛な子供の特権っていうか……」
「…………………」
「正人がね。最初に行こうって言いだしたんだ。で、一人で度胸試しの岩まで泳ぎ着いたはいいんだけど、帰れなくなっちゃってね。まわりには誰もいないし。仕方なしに僕が飛び込んで助けに行った」
「助けに?」
「そう」
「溺れかけてる小学生を助けに小学生が飛び込んでどうするんだよ。そう言うときは大人を呼びに行くのが相場じゃないのか?」
「んー。だって僕、別に恐いと思わなかったし。助けられる自信があったから」
ケロッとした顔で言ってのける伸に遼は呆れてため息をついた。
「どっから湧いてくるんだ。その自信」
「だって、海が僕を拒否するわけない。それだけはずっと信じてたから」
「…………………」
海の守護者。
確かに伸は生まれたときから海と共にある水滸なのだ。
今更ながらに遼はそう思った。
海。
夜の海。
普通の子供なら恐くて泣き出すだろう暗い夜の海さえ、伸にとっては心安らぐ場所となる。
「海に降る星か」
「…………えっ?」
ポツリと呟いた遼に伸が僅かに小首をかしげた。
「なあ、伸。まさかと思うけど、お前、こんな夜中とかにも海で泳いだりしてたのか?」
思わず出てしまったつぶやきを誤魔化すように、ことさら明るい口調で遼は伸にそう訊いた。
「え?あ…まさか。さすがに夜は止められてたから、海では泳がなかったよ」
「海では……?」
「うん」
いたずらっぽく笑って、伸は他の人には内緒だよと言うように指を一本唇の前に立てた。
「実はね。中学の頃、夜中に学校のプールに忍び込んで泳いだことなら何度もある」
「………!?」
「受験勉強始めたばかりでくさくさしててさ。気晴らしによく泳ぎに行った。さすがに水が冷たくて10月の初め頃までしか通ってなかったけど」
「…………」
「おかげで一回見つかっちゃってさ。それが偶然僕達が受けようと思ってた高校の先輩で。ビックリしたよ」
「おいおい」
「まあ、見逃してくれたからよかったものの、あそこで警備員さん呼ばれてたら、内申にひびくところだった」
「…………」
あんぐりと口を開け、遼はついに吹き出して笑い転げた。
「伸って案外いろんな事やってるんだ。もっと優等生かと思ってた」
「何言ってんだ。優等生だよ。先生方の前ではね」
「先生方の前ではって、その言い方だけですでに問題児だぞ」
「そうかな?」
波間でしばらくの間、2人はお互いに顔を見合わせて笑い続けた。
こんな些細なことが楽しくて仕方ない。
幼い頃の伸の話を聞くたびに新しい伸が見えてくる。
新しい伸を見つけるたび、もっともっと伸が好きになる。
どうしようもなく伸が好きになる。
遼はまだ可笑しそうに笑い続ける伸の顔をずっと見つめていた。

 

――――――太陽を反射して波が光の絨毯のように見えた。
砂浜に三脚を立てて遼はファインダー越しに昼の穏やかな海を眺める。
さやさやと頬を撫でる風。耳に届く波のリフレイン。露出を調整してカシャリと遼の手がカメラのシャッターを切った。
ザザーンっと昨夜伸が話してくれた岩場で波の砕ける白い飛沫があがる。
ふと、遼が後ろを振り返ると、伸は砂浜に腰を降ろしてぼんやりと海の彼方を眺めていた。
水平線の遥か先を見つめている伸は何を思っているのだろう。
イギリスへ行っているという幼なじみの事か。それとも。
「……………」
遼はそっとカメラを三脚から外すと、手に構えた。レンズを通して伸の表情を捉える。
あまり日焼けしない白い肌。柔らかな栗色の髪。彼方を見つめる緑の瞳。
カシャ。
遼の手がシャッターを切った。
「……………!?」
自分に向けられたカメラの音に気付き、伸がビックリして顔をあげた。
「り…遼!何撮ってんだよ」
カメラを脇に抱えて遼が笑う。
「もう、僕なんか撮ってどうするんだよ。海を撮りに来たんだろ、君は」
「いいじゃないか。残しておきたかったんだから」
「何言ってる。僕の顔なんか残しておいても意味ないじゃないか。欲しがる人間もいないだろうし」
「お前こそ何言ってるんだよ。結構高く売れるんだぜ」
「なっ………!?」
伸が思わず目を丸くした。
「高く売れる……?」
「そう。人気あるんだよな、お前の写真って。去年の体育祭の時、新聞部が撮った写真の中でお前が写ってる奴が一番高値がついて良い収入源になったもんだから、あの時もっと撮っておけばよかったって先輩方が言ってた。おかげで今年はたくさん撮ってくれって、直々に注文受けたんだぞ、オレ」
「……………」
「今年のターゲットは二年の毛利伸と一年の伊達征士。2人とも知り合いだって言ったら、先輩方諸手をあげて喜んでた」
「……………」
そんなバカな。
なんていう学校なんだ。あそこは。
というか、征士はともかく何故自分がターゲットに選ばれなくてはならないのか、そこのところが全く理解できない。
伸は頭を抱えて砂の上に突っ伏した。
「ま、先輩方の頼みだから断るわけにはいかないけど、出来ればオレは、お前の写真は誰にも渡したくないってのが本音なんだけどな」
「…………えっ?」
本気で眉をひそめて伸は遼を見あげた。
「前に当麻もお前の写真欲しいって言ったけど、あげなかったし」
「と……当麻が?」
「そう」
大切な写真。桜の中の。
「誰にも渡したくない。だから、せめて」
「…………」
「お前自身を独り占めなんか出来ないんだから。せめて写真くらい持っていたい」
「………遼……?」
遼はやけに真剣な表情でじっと伸を見下ろしていた。
「オレは当麻みたいに一度見たものをずっと忘れずにいられるほど記憶力は良くない。もちろんお前の事だけは全部覚えてたいと思ってるけど」
「……………」
当麻には写真など必要ない。
当麻の記憶は写真などよりずっと鮮明で、色あせなくて。
きっと当麻は視線のレンズで伸を捉え、瞬きのシャッターで写真を撮る。そして、心の中のアルバムに数え切れないほどの伸の写真を溢れさせているのだ。
「………遼?」
「やっぱ悔しいな」
ふっと目を細めて遼は眩しげに伸を見つめた。
「スタート地点で既に追いつけないほど差がついちまってたなんて、そんな事、信じたくないよな」
「………………?」
ゆっくりと砂を払いながら伸が立ち上がった。
「たとえ亀の歩みだって、うさぎに勝てないわけじゃない。な、伸」
「…………」
なんとも言えない顔で伸は遼を見つめた。
「遼………?」
「伸、オレさ」
「何?」
「オレ、いつか、もっといい男になってやるから」
「……………えっ?」
「背だってもっと高くなって、当麻を追い抜いてやるんだ」
「…………」
「それに、勉強…は、ちょっと追い抜くの無理だろうけど、その分体力つけて、誰にも負けないくらい強くなってやる」
「……遼」
「今は何やっても敵わないけど、いつか」
「………遼は、今のままでも充分いい男だよ」
くすりと笑って伸がそう言った。
「それに、そんな急いでいい男になられたら、僕だけ置いてきぼりくっちゃうよ」
「そんな事ない!伸は……」
言いながら思わず遼は伸の腕を掴んでいた。
あまりの力強さに伸が一瞬身を固くする。
「あ……ごめ………」
伸の驚いた表情に、自分が力を入れすぎていた事に気付き、慌てて遼は掴んでいた伸の腕を離した。
「ごめん。痛かったか?」
「ううん。そうじゃない」
少し。
ほんの少し驚いた。
ずっと子供だと思っていたのに。
護るべき少年なのだと。ずっと心の何処かで思っていたのに。
もしかしたら遼はもう自分などが護る必要もないくらい成長していたのかもしれない。
ひとりで充分、歩いていけるのかもしれない。
「あれ? 遼、もしかして、また背が伸びた?」
「…………えっ?」
少し身体を離し、伸はまじまじと遼を見あげた。
「なんか視線の位置が違う」
「そ……そうか?」
「うん。だって一時期は僕の方が高かったはずだよ。いつの間にそんなに伸びたの?」
初めて会った頃はほとんど差はなかったはずの2人の身長。
しかも遼が高校受験を控えていた時期は、少しだけ伸の方が高かったように思う。それなのに。
「ほら、腕だってなんか遼のほうが太い」
少年独特の細い腕だったはずが、確かに今見ると少し筋肉がついてきているのがわかる。
「成長期なんだよ。オレ」
「…………………」
伸が上目遣いに遼を見あげ、少しすねた目をした。
「なんか悔しい」
その表情があまりにも幼く見え、遼は吹き出した。
「あ、バカにしてるだろ。人のこと」
「そんな事ないよ。伸はそのまんまが一番良い」
「………また、そういうこと言って………」
「本当だってば」
「………………」
「そのままの伸が一番好きだよ」
「遼………?」
「ホント……好きだよ」
思わずぎゅっと伸の身体を抱きしめ、遼はささやくように言った。
「大好きだよ。伸」
「…………………!」
頬に触れる柔らかな髪。微かに伝わってくる心臓の音。
大切な、大切な人が、今自分の腕の中にいる。
「………伸…………」
誰にも渡したくない大切な人。
「本当に………」
「………………」
大切な、大切な人。
「………好き………」
「…………遼」
「…好き…なんだ………伸」
「………………」
「………好き………大好き………本当に………」
「………………」
「…………本当に…………好きなんだ……」
「………………」
何も答えず、伸はただ黙って遼の身体をそっと抱きしめ返した。 

 

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