海の時間 (2)

「気をつけて行ってこいよー! 土産楽しみにしてるからなー!!」
ブンブンと大きく手を振る秀に見送られて伸と遼は山口行きの新幹線に乗った。
伸の故郷までは新幹線と在来線を乗り継いで行くかなりの長旅である。
朝早く小田原を出発しても向こうに到着するのは夕方になってしまうだろう。
駅のプラットフォームまで2人を見送りにやってきた3人は、無事に出発した新幹線が線路の向こうへ消えていくのを確認してようやく歩きだした。
「なんかさ、結納でも交わしに行くみたいだな。2人で実家に帰るなんてさ」
「お前、殴られたいのか」
秀がゲラゲラと笑うのを見て、当麻が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「せっかくオレがこんなに穏便な態度で温かく見送ってやったっていうのに」
「その穏便な態度ってのが笑いのツボにはまるんだよ、実際」
「秀!」
思わず当麻が振り上げた拳をすかさず征士が後ろから掴み取る。
「いい加減にしろ。当麻も秀も」
呆れた顔でたしなめる征士の手を振りほどいて当麻は少し名残惜しそうに、もう見えなくなった新幹線を振り返った。
「……大丈夫。2…3日で戻って来るのだから」
「ああ」
「あ、でも天気が悪くなれば延びるかもな。なんたって風景写真は天候との勝負だっていうし二人っきりの旅行って気になるよな。うんうん」
征士の脇から秀が追い打ちをかけようと口を挟む。
「それにさ、最近の伸ってなんか色っぽくねーか?前から女顔だとは思ってたけど、なんか最近特に磨きがかかってきたっていうか……」
秀をじろりと一瞥して当麻は見事に不機嫌そうな顔でくるりと踵を返した。
「お、おい、当麻!冗談だってば!当麻ー!!」
秀の声に耳をかそうともせず、当麻はそのままスタスタと歩き去る。
どう見てもかなり機嫌を損ねてしまったらしい。
「秀、あまり奴の神経を逆撫でするな。ただでさえ手がつけられんというのに」
征士がため息をついた。
「多少言い過ぎたかな?ま、せいぜい今日の夕食は気に入る味付けに出来るよう努力してみるよ」
まったく反省していなさそうな口調で秀が笑った。
「でもさ、それだけ惚れてんだよ。良い傾向じゃないか」
「良い傾向?」
「ああ。あいつ、子供の頃は何にも関心を示さなかったこまっしゃくれたガキだったのにさ。オレは今のあいつの方が全然良いと思うぜ」
「………………」
ふと足を止めて征士が秀を振り返った。
「子供の頃、あいつは諦めるって事しか知らなかったんだ。記憶バンクなんて重い枷を負わされて使命を思い出しちまった時も、両親が離婚した時も、嫌な顔ひとつせず、あいつ、諦めてきたんだ」
「………………」
「普通、ガキの頃って欲しいもんがいっぱいあって、それを諦めることなんかしないじゃねえか。欲しい欲しいってだだこねて。そういうのが子供の特権じゃねえか。なのにさ……」
「秀……」
「今、あいつがああやって好きな奴に必死になって執着してる姿って、オレ、なんか好きだよ。本当は行って欲しくねえくせに無理して笑顔で送り出す所も、行っちまったとたん不機嫌になるところもな」
「たったひとつの望み……か」
「えっ?」
「いや、何でもない」
他には何もいらない。
ただひとつの望み。ささやかな倖せ。
ふと征士は再び消えていった新幹線の後を追うように線路の彼方を見つめた。

 

――――――新幹線で小郡まで。そこから山陽本線下関行きに乗り、更に在来線をいくつか乗り換えて数時間。
伸と遼が萩の駅に到着したのは、もう日が少し西へと傾いた時間帯であった。
「うわ………」
駅のホームに降り立ったとたん、遼の鼻孔に潮の香りが広がった。
「本当に海の匂いのする街なんだ」
胸一杯に空気を吸い込み遼が言った。
「そっか、遼の故郷は山の中だもんね。潮の香りは珍しいんだ」
「まあな」
香りだけじゃない。耳を澄ますと微かに波飛沫の音も聞こえる。
「………………」
海の街。水滸の護る海の街なのだ。此処は。
「此処が伸の育った街なんだ」
「うん」
伸の育った街。幼い頃の伸がずっと聴いていた波の音。
遼はそっと目を閉じてもう一度波の音に耳を傾けた。
「さぁ、行こうか。家までちょっと歩くけど大丈夫?」
「ああ」
バックを肩に背負い直して伸が嬉しそうに笑って歩きだした。
慣れた態度で改札口を出て、駅前の商店街を通り抜け、住宅街へと足を向ける。
やはり久し振りの帰省は伸にとっても嬉しいものだったようだ。
いつもよりほんの少しはしゃいだ感じで伸は昔よく遊んだという公園の中を歩きながら懐かしそうに思い出を語ってくれた。
「いつだったかな。幼稚園の頃か、小学一年生くらいの時、正人がこの公園の鉄棒から真っ逆様に落ちちゃって前歯を二本とも折ったことがあったんだ。周り中血の海で、落ちた本人より僕の方がパニクっちゃって大変だった」
「へえ……」
「昔は背伸びしても届かなかったのに、この鉄棒」
懐かしそうに鉄棒をさする伸の横顔は何だかいつもより少しあどけなく見えた。
幼い頃の伸が必死になって腕を伸ばし、鉄棒を掴もうとしている姿が目に浮かぶようだ。
「………………」
風が吹き、柔らかな伸の栗色の髪がふわりとなびく。額にかかった少し長めの髪を伸の細い指が掻き上げる。
「……………!」
何気ない伸の仕草のひとつひとつから目が離せない。
夕陽の中にいる伸は、何だかいつもの伸と少し違うような気がした。
「何?人の顔じろじろ見て」
何も言わずじっと自分を見つめる遼の視線に気付いて、伸が照れたような目を向けた。
「ごめん。なんか思い出話ばっかりべらべらしゃべっちゃって、退屈?」
「いいや。そんなことないよ」
「そう?ホントに?」
気恥ずかしそうに肩をすくめて伸は再び歩きだした。
半歩遅れて後を追いながら、遼はちらりと伸を盗み見る。
夕陽に照らされた伸の横顔は、やはりドキリとするくらい綺麗に見えた。

 

――――――伸の家は、赤い瓦葺きの屋根が空に映える古い家だった。
庭の奥には窯焼きをする為の建物があり、今も白い煙がすうっと空へのびている。
立派な家だなと遼が感心すると、古いだけだよと伸は恐縮するように肩をすくめた。
伸の家は、代々受け継がれている萩焼の窯元であり、伸も一般教養として幼い頃から茶道、華道を習っていたということは訊いていたから、それなりの家なのだろうとは予想していたが、いざ目の前に立つ建物を見あげるとやはり一瞬足がすくむ。
山梨の自分の家が掘っ建て小屋に見えるほどだ。
「僕の家程度で驚いてたら征士の家なんか行けないよ、遼。あそこは道場をやってるから敷地だけみたら、うちの倍以上あるんだから」
「そ……そうか……そうだよな」
「秀ん家の店も結構大きい店じゃなかったっけ?」
「あ…ああ」
つくづく自分は一般人なんだなあと思いながら遼は感心したように広い庭を見渡した。
「外観は昔のまま古びてるけど、いちおう家の中はこの間リフォームしたからそんな不便はないと思うよ」
「リフォーム?建て直したんだ」
「うん。内側だけね。義兄さんが此処に住むことになって、色々不便がないようにって配慮したらしいよ。それに、子供が生まれたらちゃんと子供部屋も用意しなきゃいけないしね」
そうだ。そういえば伸の姉は今年の頭に結婚したのだった。
「なんか今のままだと僕の部屋がそのまま甥っ子の部屋になっちゃいそうな勢いなんだけど」
「えっ? そんなことしたらお前の帰る場所が……」
「仕方ないよ。先に出ていったのは僕の方なんだから。使ってない部屋をいつまでも独占するわけにはいかないしね」
何でもないことのように笑う伸に遼の胸が痛む。
「伸……」
「大丈夫。そんな顔しないの。此処じゃなくったって、僕の居場所はちゃんとあるんだから」
「居場所?」
「そう。今の僕の帰るべき場所は、みんなと住んでる小田原の柳生邸だよ」
「…………………」
伸が好きだ。
ふと、思う。
本当に、自分は伸が好きなのだと、こんな瞬間でさえ、遼は改めて実感した。
玄関口につくと、伸の姉の小夜子が嬉しそうに奥のキッチンから飛び出してきた。
夕食作りの最中だったのか、白いエプロンで濡れた手を拭きながらの出迎えである。
「お帰り、伸。そして、いらっしゃい、真田君……だよね?」
「はい。真田遼です。初めまして」
「初めまして。伸の姉の小夜子です」
にっこりと笑った小夜子は伸とよく似た顔立ちをしたなかなかの美人だった。
伸と同じ栗色の髪を無造作に後ろで結い上げ大きなバレッタでまとめている。
細身で色白なのは、毛利家の家系なのだろうか。
コットン生地のシャツとGパンという簡素な服装にもかかわらず、小夜子は充分美しく遼の目に映った。
「今、御馳走作ってるんだけど、真田君、食べられない物とかあるかしら?」
「大抵のものは大丈夫です。好き嫌いも特にありません」
「そう、なら良かった。今日は真田君の為に腕によりをかけて美味しいもの作らなきゃって朝から張り切ってたのよ」
「ちょっと姉さん。久し振りに帰ってきた弟の為には、張りきる気ないわけ?」
「そんなものあるわけないでしょ。ほら、さっさと荷物置いて、手洗ってきなさい。ああ、そうだ。真田君の客室って別に用意したほうが良かったんだっけ? あんたと一緒でいいの?」
「僕の部屋でいいよ」
「よかった。そうだと思って、あんたの部屋に布団一式入れておいたから適当にやってね」
「はいはい」
優しげな顔立ちに似合わぬ有無を言わさぬ口調。てきぱきとした態度からは、頭の回転の速さと器用さが窺える。
「何笑ってるの? 遼」
「いや、よく似た姉弟だなあと思って」
「何を言ってる。心外な」
くすくすと笑いながら、遼は伸に案内されるまま二階へと上がって行った。

 

――――――その日の夕食は、伸の姉と母が腕によりをかけたと豪語するだけあって、頬が落ちるかと思われるほど美味しいものだった。
家族の中にいる伸は、やはり少しだけいつもより幼く見え、それがまた遼の胸をドキリとさせる。
なんだか倖せな伸の笑顔を見る特権を独り占めしているみたいで、ほんのちょっと後ろめたい気持ちまでもが遼の心に湧いてきた。
「ごめんね、うちの姉貴騒がしくて。気疲れしたろう」
部屋の中央に遼のための布団を敷きながら伸がすまなさそうに頭を下げた。
「そんなことないよ。楽しかった。お姉さんの話面白かったし」
「そう? ならいいんだけど。なんか人の恥ずかしい暴露話ばかりしてさ。あの人もいい加減にしてほしいよ」
「確かに滅多に聞けないもんな。小学校時代の伸の話なんて」
「あんまり他の奴にばらさないでよ」
「言わない言わない」
唇の前に指を立て、遼が可笑しそうに笑った。
久し振りに家族のもとに帰った際にでてくる話題は、やはり昔話というのが定番らしい。
伸の姉は、遼に面白可笑しく伸の小学校時代の失敗談などを聞かせてくれた。
思い出話の中の伸は、遼の想像通り、可愛らしくて、真っ直ぐで、優しい感じがした。
「さてと、一応こっちがお客様用の布団だけど、ベッドの方がよければ代わるよ」
「どっちでもいいぜ、オレは。それに今日はあんま眠れそうな気がしない」
「そうなの?」
「新幹線の中でもちょっと寝たし、それに……」
「…………?」
倖せすぎて。
伸がずっとそばにいる。
そんな些細なことが倖せすぎて、きっと今晩は眠れない。
遼はふっと笑って伸を見つめた。
「明日はいよいよ萩の海だな、伸」
「そうだね。本当は今日のうちに一回行っときたかったのに、姉さんに止められたしね」
「そうそう」
荷物を置いたその足で外へ行こうとした伸と遼を小夜子がすかさず引き留めたのだ。
伸はともかく遼は長旅で疲れているのだから、着いた早々連れ回すなど言語道断。今日はおとなしく身体を休めて明日の朝から思う存分行ってきなさいと、2人は襟首を掴まれて応接室に放り込まれた。
その場で出されたケーキと紅茶がこれまた美味しかったので、遼は大人しく小夜子の言うとおり、その後も伸の育った家を見て回る程度におさめ、海岸へは行かなかったのだ。
「ところでさ、遼はどんな感じの海の写真が撮りたいの?」
枕を腕に抱えて伸が遼の顔を覗き込んだ。
「ひとことで海の写真って言っても、凪いだ海とか荒れた海とか、朝の海とか昼の海とか色々あるじゃない」
「うん。実際に見に行ってから考えようと思ってるんだけどさ。だから、明日は朝からつき合わせる事になっちまう。ごめんな」
「そんなの僕は全然構わないよ」
にこりと笑う伸の笑顔に胸が熱くなる。
「伸は? 伸が一番好きな海はどんな海なんだ?」
「僕?」
小首をかしげて伸が思考を巡らせる。
「そうだな。海って朝には朝の、昼には昼のそれぞれの良さがあるから一概に決められないなあ」
「そっか」
「朝さ、ジョギングがてら海岸へ行くと、ちょうど朝日が昇ってきてて綺麗だなって思ったり……」
「うん」
朝日の中で光る海と幼い日の伸の姿。
遼は眩しそうに目を細めて伸を見つめた。
「あ、でも……」
「………………?」
ふと思いついたように伸がポツリと言った。
「一番好きなのは、夜の海かな?」
「………夜の?」
「うん。海に降る星が好きだな」
「…………えっ?」
ズキン。
突然心臓が痛んだ。
「………………」
どうして急に。
突然の胸の痛みの意味が解らず、遼はじっとそう言った伸の顔を見つめ続けた。
「どうしたの?遼」
「………………」
「遼?」
「……何……でもない……」
「………………?」
海に降る星。
海に降る星。
それは伸にとってどんな意味を持つ景色なのだろう。
どうしてそう言った伸を見て胸が痛くなったのだろう。
どうして。
どうしてそう言った伸はこんなに綺麗なんだろう。
そうだ。
ほんの一瞬。伸の表情がドキリとする程綺麗だったのだ。
だから。
「遼……?」
何故だかどうしようもなく哀しくなった。
「遼……?」
「……伸……今から行けないかな?」
「………えっ?」
「伸の好きな夜の海」
伸が驚いて目を見張った。
「駄目……かな?」
「駄目じゃないけど」
「…………………」
「解った。行こう、遼」
ふわりと笑って伸は立ち上がった。

 

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