海の時間 (1)

いつものように食料品の入ったビニール袋を抱えて玄関口のポストを覗き込んだ伸は、見慣れない茶色の大きな封筒を見つけ、何だろうと小首をかしげた。
「……真田…遼様? 遼宛の郵便物じゃないか」
くるりと封筒をひっくり返し、差出人の名前を見て更に伸は首をかしげる。
「……………」
「どうした? 伸。何か面白いものでも届いてたのか?」
ポストの前で伸が思案顔で封筒を眺めていると、うしろから秀が伸の手元を覗き込んできた。
「ああ、秀、なんか出版社から遼に……」
「出版社ぁ? あれ、これこの間遼が写真投稿した所じゃんか」
「投稿? あ! そうか。如月さんに誘われて応募したっていう例のあれ?」
「そうそう」
「ってことは……」
目を見合わせ、2人は次の瞬間先を争うように家の中へと駆け込んだ。
「おーい! 遼! 遼いるか!? 早く来い!!」
秀の大声に、まず征士が居間から顔を覗かせた。
「何を騒いでいるのだ。秀」
「あ、征士、遼は何処だ?もう帰って来てるんだろう」
「ああ、先程二階へ行ったが」
「よっしゃ!」
ダッシュで階段を駆け上がり、秀が遼の部屋へと飛び込んで行った。
「どうしたのだ。いったい」
あきれ顔で伸を振り返った征士はそこで初めて伸が手にしている分厚い大型の封筒に気付いた。
「何だ。それは」
「うん。出版社から来たんだけど」
ふふっと嬉しそうに笑って伸は答えた。
「出版社?」
「そう。たぶんこの間遼が投稿したフォトコンテストの審査結果が載ってるんだと思うんだ」
「審査結果? 奥の部屋暗室代わりに使って現像してたやつか?」
騒ぎを聞き付け当麻までもが書斎から顔をだして伸と征士の元に駆け寄ってきた。
「何枚か出したって訊いてたけど、何かの賞に引っかかったのかな?」
「どうだろう。でも、わざわざ何か送ってきたってことは期待できるんじゃないのかな?」
「そうだな」
伸の手から封筒を取り上げ当麻が中身を見ようと照明に掲げた時、二階から秀に引っ張られるようにして遼が階段を駆け下りてきた。
「結果が届いたって?」
息を切らせて走り寄り、遼は当麻から封筒を奪い取る。
「ほら、早く開けて見ろよ」
秀がすかさず後ろから遼を急かす。
「わかったよ。今開けるから」
慎重に封を破り、遼が中に入っていた一冊の雑誌と添えられた白い紙を取り出した。
「何だって? 何が書いてあるんだよ」
いっせいに皆が遼の手元を覗き込むと、遼は大きく息を吸い込んで手にした紙をはらりと開いた。
「フォトコンテスト7月度準優秀作品『残紅』、撮影真田遼」
一句一句確かめるように遼が文字を読み上げると、一瞬の沈黙の後皆がいっせいに歓声をあげた。
「準優秀作品!?」
「すげえ! 遼!」
「やったな」
遼の手の中にある雑誌は、明後日発売されるはずの写真雑誌である。
雑誌の表紙には今月の特集である渓谷の写真が大きく載っていて、その隣に小さくフォトコンテスト優秀作品発表の文字が並んでいた。
「早く開けろよ。写真載ってるんだろ」
「わかってるって。急かすなよ」
震える手でページをめくり、遼はコンテストの結果発表の記事を探した。
「あ、あった」
伸が小さく叫んだので、ページをめくる遼の手が止まる。
見ると、ちょうどそこからが作品発表と評価コメントの載った一覧のページとなっていた。
1ページ目には最優秀作品の写真掲載と評価。そして優秀作品、準優秀作品、佳作と続いている。
このコンテストは、雑誌社が企画している季節毎にテーマを決めて募集される恒例の写真コンテストである。
最優秀作品に選出されると見開きで写真が掲載される他、著名な写真家や審査員の細かな評価やアドバイスを貰うことが出来、もちろん賞金もでる。
遼が取った準優秀賞も微少ながら賞金がでるはずだ。
遼は、高校の新聞部へ入部したことをきっかけに、更に写真にのめり込んでおり、友人となった如月聖香の勧めで何度か小さなコンテストに応募したことがあったのだが、賞を取ったのは今回が初めてである。
家主であるナスティの許可をとって部屋のひとつを暗室に利用させてもらい、自分で現像をするようになって数ヶ月。遼は雑誌の上に書かれてある自分の名前をなぞるように指でたどってほうっと息を吐いた。
「良かったね、遼」
伸が心底嬉しそうにそう言ってポンッと遼の肩を叩いた。
遼はそれに答えるように雑誌のページをめくり、準優秀作品の評価コメントのページを開けた。
「準優秀作品。タイトル『残紅』。撮影、真田遼。澄んだ空気の匂いさえ感じさせる透明感のある作風が好感をもてる。散りゆく花の憐憫を見事に捉えたセンスの良さ。撮影者の年齢を考えると、今後にかなり期待をもてる逸材といえよう」
「すげえ、べた褒めじゃんか」
秀が大げさに感嘆の声を洩らした。
「有り難う。でも、上には上がいるよ。ほら優秀作品とか最優秀作品とか、もっとすごいぜ」
「そりゃ仕方ないだろう。上を目指したらキリがないからな。だがよ、将来に期待がもてるって事は、次はそのもっと上を目指せるはずだって言われてるようなもんなんだから、胸張って自慢していいと思うぜ」
「そうそう」
秀の言葉に賛成を示し、みんなが同時に頷いた。
遼は気恥ずかしそうに笑顔を浮かべ照れ隠しのように優秀作品の写真掲載ページをめくっていった。
「今回のテーマって何だったんだっけ?」
でかでかと掲載されている写真を眺めながら当麻が訊く。
「何か、山の写真もあるし、空の写真もあるし、そうかと思ったら街並みの写真まである。いつもだったら山なら山とか、人物なら人物とか決まってるんじゃないのか?」
「ああ。今回のテーマは……」
言いながら遼は次々とページをめくり、自分の写真の掲載されている準優秀作品達のページを開いた。
「今回のテーマは『忘れられない景色』。懐かしい田舎の思い出とか、初めて登った山だとか、大切に育てた花だとか、そんな過去の忘れられない景色や物事を捉えた作品ってことだったんだ」
「忘れられない景色………?」
指し示された遼の写真を見て、当麻が僅かに息を呑んだ。
「これ……桜……?」
伸が小さくつぶやく。
遼の作品は、夕陽の中散りゆく桜吹雪の写真だった。
夕暮れの朱の光の中を舞う桜の花びら。満開を少し過ぎたその桜はまだ新芽も芽吹いておらず、剥き出しになった枝を天へ向けて伸び上がらせている。それは、まるで誰かに向かって届かない想いを捧げようと必死に手を伸ばしているように見え、何故か見る者の心を震えさせた。
枝を伸ばして、花びらを天高く舞い上がらせて、誰かに、愛しい誰かに想いを届けようと。
「………やっぱ、お前はすごいよ」
くしゃりと遼の髪を掻き回し、当麻がふっと笑った。

 

――――――「珍しいね。夕食後、書斎に籠もらずこんな所にいるなんて」
珈琲を手にベランダに現れた伸はすとんと当麻の隣に腰を降ろすとマグカップを手渡した。
「はい。ミルク入り砂糖抜きって気分?」
「大当たり」
まろやかな珈琲の香りを楽しみながら、当麻は満足そうにコクリと珈琲を飲んだ。
いつもながら伸のいれる珈琲の味は絶品である。その日の体調や気分を考慮して濃さを変えて煎れられる珈琲の味は、何故かいつも見事なほど自分の欲しい味にはまっている。
「やっぱ好きだなあ……」
「………えっ?」
何を、と言うように伸が小首をかしげた。
「何?当麻」
「なんでもないよ。やっぱ好きだなあと思って。お前のいれてくれた珈琲の味が」
本当は珈琲じゃなくてお前自身が。
伸は何を言っているのだといった顔をして、きょとんと目を丸めた。
「にしても遼はすごいな。どんどん写真の腕があがってきてるんじゃないか?」
話題を変えて当麻は再び珈琲を口に運んだ。
伸も自分用に作ってきた珈琲を飲み、頷く。
「うん。そうだね。さっきも見てぞくっとした。いつの間にあんな写真撮ったんだろう」
「春先に何度か出かけてった時なんだろうけどな。確かにあれにはちょっと焦った」
「焦った……?」
意味が解らず伸が首をかしげる。
「何で遼の写真で君が焦るの?」
「遼の写真っていうより、あいつが忘れられない風景として、あの桜を選んだってことがな」
「…………?」
舞い散る桜。
柳の想い。
届かない恋心。
いつもいつも、遼には驚かされる。
あの純粋で真っ直ぐな想い。
「………君にとって桜はどんな意味をもつの?」
伺うように伸がそっと訊いた。
当麻はふっと笑みを浮かべてそんな伸を振り返る。
「桜は、柳の想いだよ」
「柳?」
伸が僅かに首をかしげる。
「それって………」
「ああ、無理に思い出すなよ。ってか、頼むからあんまり思い出さないでくれ」
慌てて伸の思考を遮ろうと当麻は両手を振った。
「これ以上、柳のことまで思い出されたら、オレの立場がますます危うくなるだろうが」
「何わけのわからないこと言ってるんだよ」
「だから……」
当麻が焦って言葉を詰まらせた時、ベランダの扉を僅かに開けて遼が顔を出した。
「あの……伸……ちょっといいか?」
「何?」
「あの…さ……実は、これ」
遼がおずおずと遠慮がちに伸に白い封筒を差しだした。
「何?」
立ち上がって封筒を受け取りながら伸が問いかけるように遼を見る。
「さっきの雑誌に挟んであったんだけど……」
「雑誌に?」
「ああ。実はさ、来月発刊される小さな写真集があるんだけど、それに参加する気はないかって……」
「えっ?」
驚いた伸は慌てて封筒の中から便せんを取りだした。
当麻も思わず立ち上がって伸の手元を覗き込む。
「雑誌の付録としてつける予定の小さなものなんだけど、今回の応募者や、過去の受賞者から厳選して十名程、期待の新人衆ってことで一冊にまとめてみたいって。対象は十代の者のみってことでひっかかったようなものなんだけど」
「ひっかっかったなんて………そんな、すごいじゃないか」
手紙の文章に目を走らせながら伸が感心してため息をついた。
「本当に、そういう人達の目に止まるほど遼の写真が良かったって事だよ」
「そ…そうかな」
「そうだよ。あ、なんかすごく嬉しい。どうしよう」
言いながら思わず伸は遼を抱きしめていた。
「どうしよう。すごく、すごく嬉しい」
「……し……伸……?」
抱きしめられた腕の温もりに遼の心臓がドキリと高鳴った。
「良かったね。遼」
「……………」
「遼」
「……………」
優しい、優しい伸。
まるで自分のことのように遼の成功を喜んでくれる伸。
倖せすぎて、遼の胸がキュンっと痛んだ。
「……で、何を撮るんだ?」
すっかり蚊帳の外に追い出された形になっていた当麻が、わざと大きめの声で遼に話しかけた。
「あ、ああ、その事なんだけど」
慌てて遼は伸から身体を離す。
「実はさ、撮りたいものはもう決まってるんだ」
「………決まってる……?」
「ああ」
遼はそっと伺うように伸の顔を覗き込んだ。
「伸、オレ、海が撮りたい」
「海?」
当麻がじっと遼を見つめた。
「海って……何処の?」
「萩」
「……………!?」
「伸が育った萩の海が撮りたい」
「は……萩の……?」
コクリと遼が頷いた。
「前さ、伸が言ってたろ。海ってやつは同じ海でも場所によって波の高さも水飛沫の色もみんな違うんだって。オレ、他の何処でもない、お前がずっと見てきた海をこの目で見て、撮ってみたい」
「………………」
懐かしい萩の海。
伸の育った街。
「ちょうどいいじゃないか、伸。来週のテスト休みに遼連れて実家に帰ってやれば?」
呆然としている伸の手から空になっていたマグカップを取り上げ、当麻がニッと笑った。
「じゃ、洗い物はオレがしておくから2人で帰省計画でも練りな」
「当麻………?」
軽く手を振り、当麻はスタスタと家の中へと入っていく。
遼は意外そうな顔で去っていく当麻の背中を見送りながらほっと息を洩らした。
「は……反対されるかと思った」
ぽつりと遼が言う。
「何で?」
「いや、それは……だって……オレだったらちょっと嫌かなって…」
「何が?」
「いや……その……」
言葉を濁して遼は頭を掻いた。
伸はそんな遼の顔を不思議そうに見て、くすりと微笑んだ。
「当麻はね、君の写真とても気に入ってるんだよ」
「………えっ?」
「遼の写真は良いっていつも言ってる。ホントだよ」
「当麻が………?」
「うん」
そう言って頷いた伸は何故かドキリとするほど綺麗に見えた。
「あ…あの……じゃあ、本当に萩の案内頼んで良いのかな?オレ」
「もちろん」
ふわりと笑う伸は、やはりとても綺麗だと遼は思った。

 

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