すすきの原 (2)
「じゃあ、そろそろ行くか」
「うん」
大きなリュックサックを背負い、僕は父さんと一緒に数ヶ月間住み慣れた部屋を出た。
六畳一間の小さな空間。
もともと家具らしい家具も置いてなかったから、入居したときも、出るときも、相変わらず生活の匂いが薄い部屋。
でも、やはり思い出だけはきっちり詰まっていたようで、僕がドアを閉めたとたん、胸の中に大きな塊が現れた。
重くて暗い大きな塊。
「……太郎。昨日はちゃんとみんなに会ってきたんだろうな」
「……え?」
ギクリとなって僕は父さんを見あげた。
結局昨日は翼君にしか会っていない。しかもその翼君に僕は嘘の出発日を告げてしまった。
「…………」
父さんは何も答えない僕を見下ろして小さくため息をついた。
「まったく……おまえは……」
こういう所、やはり父親なのだろう。
父さんは何も言わない僕の心情をすぐにわかったようで、くしゃりと僕の髪を掻き回してからトントンと階段を降りていった。
仕方ない。
言えなかったんだから。
僕だって、嘘をつくことはいけないことだって解ってる。
でも仕方ない。
僕は、そう言うしか方法を知らなかったんだから。
だって、翼君はこれからもずーっとこの街で暮らしていける。
素晴らしいメンバーに囲まれて、自由なサッカーをして、楽しく暮らしていける。
そして、僕はまた独りになる。
これは永遠に逃れられない宿命。
僕の嘘は、僕の妬みと同化する。
叶えられない願いと同化する。
そして、神様はやはり僕に対して意地悪だった。
――――――「お前……岬…その荷物なんだよ。出発は明日だったんじゃあ……」
これから学校に向かうのであろう修哲小の一団と、僕はばったり道ばたで会ってしまったのだ。
僕だけじゃなく、父さんまで一瞬困った顔をする。
「あ……うん。その…急に予定が早まっちゃって」
嘘に嘘を重ねる。こんなことをしても無駄だろうに。
「嘘つけ。昨日はっきり明後日だって翼に言ったんだろう。そんな急に予定が変わるわけないじゃん」
思った通り、来生君が口を尖らせてそう僕に詰め寄ってきた。
「……ったく、しゃあねえな。石乃湯にでも行ってくるか。奴に連絡すれば翼の居場所もすぐわかるだろう」
石乃湯。石崎君の家だ。
「それより南葛小じゃねえか?」
「グランドっていうのもありだぞ」
そうこう言ってるうちに滝君がダッシュで駆け出していった。
向かう先は石乃湯のある方角。
そして、少し遅れて来生君と高杉君も駆け出す。方向は南葛小。
「……いい加減にしろよ。岬」
走り去る滝君達の後ろ姿を見送りながら井沢君がぽつりとつぶやいた。
「お前が聞きたくないなら、さよならも、また逢おうも言わないけどさ。でも、残された方の気持ちも解ってやれよ」
「残された方の……?」
「連絡ってのは岬にとって一方通行のものなのか? お前の居場所がわからなければ、こっちだって会いたくても会いにいけないんだ。手紙を出したくても宛名が書けないんだ。そういうの解れよ」
「……!」
「本当はお別れ会の時、花束でも渡そうかってみんなで話してたんだけど、もう間に合わないから、これをやる」
「……ってこれ?」
井沢君が差しだしたのは、昨日河原に茂っていたすすきの穂だった。
「花でも何でもないんで、ずいぶん失礼な贈り物だと思うんだけど、今のお前に渡したくなった」
「……どういうことか解らない」
「わかんなきゃ、わかんないでいいから」
「…………?」
「じゃあ、元気で」
井沢君がすっと僕に手を差しだした。
「オレも若林さんにお前の出発を教えてくるよ。間に合ったら戻ってくるけど、どっちがいい?」
「…………」
本当に、井沢君は僕のことをよく知ってる。いや、僕だけじゃなくて人間観察が出来てるってことなのかな。
「……此処で、いい」
「うん」
「じゃあ」
「うん」
僕は差し出された井沢君の手をそっと握り返し、うつむいた。
井沢君は何も言わなかった。さよならも、また逢おうなも、連絡するよも何も。
ただ黙って僕の手を握りしめていた。
なんだか神聖な別れの儀式をしているような気になった。
そして、やっぱり泣きそうになった。
これ以上、別れの時間が長引けば、僕は大声を上げて泣き出しそうだった。
「なあ、岬」
最後に井沢君がそっと僕の耳に口を寄せてささやいた。
「いつか、ここに帰ってこいよ」
「……え?」
帰る。それはいったい。
僕が再び顔を上げた時、井沢君はもう背を向けて走り出した後だった。
――――――結局、南葛のみんなを探しに行った滝君達とはすれ違う形になったようだったけど、僕はしっかり石崎君達にも見付かってしまった。
しかも彼等は今日本当は行うはずだったお別れ会で僕に渡すための寄せ書きを集めている最中だったらしく、石崎君は慌ててまだ寄せ書きを書いていない残りの2人を探しに行ってしまった。
「岬、次のバスに遅らせられないのかよ」
もうすぐバスが来る時刻が差し迫り、岩見君はなんとか僕を留めようとそう言ってきた。
でも、僕は曖昧に断りを入れる。
会いたくないわけじゃない。きっと。
顔を見たくないわけでもない。きっと。
でも、僕は臆病なんだ。
確約でない約束。
それをするには僕は此処が好きになりすぎていた。
好きで好きでたまらなくなりすぎていた。
微かに地面が震動を伝えてきた。バスが近づいてきたんだ。
僕ははっとなって振り返った。
予定通りの時刻にバスは停留所の前に止まる。
「太郎、行くぞ」
父さんの声を合図に僕はバスに乗り込んだ。
半分残念な気持ちで、半分ほっとした気持ち。
会いたいのに、会いたくない気持ち。
「ごめんね」
そっとつぶやいた言葉は、永遠に翼君のもとには届かないだろう。
たくさんの後悔を乗せて、バスはゆっくりと走り出した。
そして、その時、神様は僕に最後の意地悪をした。
いいや、そうじゃない。神様は僕の最後の願いを聞き届けてくれたのかもしれない。
「岬君ー!!」
翼君の声に僕はバスの窓を開けた。
「翼君!?」
翼君は必死な顔をしてバスを追いかけて走っていた。
「翼君!!」
「岬君!うけとれ!!」
バスに追いつけないと判断してか、翼君が手に持っていたサッカーボールを僕に向かって蹴り上げた。
まるで吸い付くようにボールは僕の手の中に飛び込んでくる。
「岬君!!」
必死な顔の翼君に、先程の井沢君の声が重なった。
『残された方の気持ちも解ってやれよ』
「…………!?」
その瞬間、僕は思い出した。
とても大事なことを。
とてもとても大事なことを。
「つ……翼君!!」
僕はもう一度バスから身を乗りだすようにして翼君の名前を呼んだ。
そうだ。
僕はなんてことをしたんだ。
どうしてすっかり忘れていたんだ。
ロベルト本郷のことを。
彼が翼君に黙って日本を去ってしまったのは、ほんの数日前のことだったじゃないか。
翼君は誰よりも残された者の哀しみを知っている人間じゃないか。
翼君は、信じて、信じて、信じ抜いていた人に手酷く裏切られたばかりだったのに。
なのに。
僕は。
これは単純な嘘なんかで終わらせていいものじゃない。
僕は。
「太郎、あまり乗り出すと落ちるぞ」
見かねて父さんは僕の身体をバスの中に引き戻した。
「静岡にはまた来ような」
慰めのつもりなのか、父さんはそっと僕に言った。
僕は翼君がくれたボールを抱え込んだまま、小さく頷いた。
ポロリと涙がこぼれ落ちる。
もう、どうしようもない。
つけてしまった傷は、もう取り返しがつかないだろう。
「……ねえ、父さん。すすきの花言葉ってなに?」
「さあ、なんだったかなあ……」
考え込むように父さんは腕を組んだ。
僕も自分の記憶を辿る。でも思い出せない。
なんだったっけ。
「向こうに付いて時間があったら本屋にでも寄って調べてみるか?」
「……うん」
頷いて僕はボールを胸に抱え込む。
その時、僕はようやくサッカーボールに書かれたみんなの寄せ書きに気付いた。
お別れ会で渡す寄せ書きを用意しているとはさっき聞いたけど、まさか、ものがサッカーボールだったなんて。
僕は戸惑いながら、一番目立つ所に書かれた翼君のメッセージを指で辿った。
さっき書いたばかりのはずのその言葉は、僕の裏切りに対しての恨みも不満も何もなく、ただ、未来への言葉が綴られていた。
翼君が望む未来への言葉が。
「父さん、僕……僕、もう翼君に嘘はつかない。絶対」
ポツリと僕がつぶやくと、父さんは何も言わずにただ黙って頷いてくれた。
そう、僕はもう嘘はつかない。
保身の為の嘘も、妬みの為の嘘も。何もかも。
これ以上、翼君を裏切ることがないように。
そして、この犯してしまった罪を償うためにも。
僕は、もう一度此処へ戻ってくる。
また来るのでもなく。立ち寄るのでもなく。
戻ってくる。
僕は。此処に。この街に。
きっときっと、戻ってくる。
戻ってきてみせる。
夕方、九州で立ち寄った本屋で花言葉の本を手に取り、僕は再度自分自身にそう誓った。
すすきの花言葉は、『心が通じる』だった。FIN.
2003.11 脱稿 ・ 2004.8.7 改訂