すすきの原 (1)
僕にとっての小学校生活最大の行事である全国少年サッカー大会が終わった。
僕は今まで、自分はあまり運の良い方の人間ではないのだと思っていた。
両親の離婚や放浪の旅の生活。普通一般の子供達とはあまりにもかけ離れた生活を送っているという現実。
決して父さんのことを嫌いではなかったし、母さんを恨んでもいない。
でも、だからといって自分の今の生活環境に満足しているとは間違っても言い難く。
きっと自分はとてつもなく運の悪い人間なのだと思うことで、なんとか自分を納得させようとしていたのだ。
でも、今はちょっと違う。
色々な所を旅しているおかげで僕は色々な人に出会うことができた。
そして、結果的に考えてみれば、僕にとって一番大切だと思っていたサッカーに関して、僕は一番いい時期に、一番良いところに越してきて、一番いい人に出逢ったんだ。
これは運以外の何物でもない。そう思った。
そう思いながら、僕はこの夏を過ごしていた。つい昨日までは。
「太郎。明日立つぞ」
いつものように突然の父さんの言葉で、僕は現実に引き戻された。
「……あ…明日?」
「ああ」
そう。すっかり忘れていたのだ。僕は自分の生活がどういうものだったのかということを。
分かっていたことだった。父さんの絵は大会予選時にはもう完成していたのだし、今まで居られたこと自体不思議なことだったのだ。
いつものこと。
分かってたはず。
覚悟はできてると思っていたのに。
僕がこの街を去らなきゃいけない時期が近づいてきてたことなんて充分すぎるくらい分かってたはずなのに。
どうして僕は現実から目を背けてなどいたのだろう。
「そっか……わかった」
僕は父さんの言葉におとなしく頷く。いつもと同じ。
「太郎。今日は少しくらい遅くなってもいいから、みんなに出発の挨拶でもしてきなさい」
そう言って父さんは僕を家の外へと押し出した。
急な出発などいつものことだし、まとめる荷物もそんなにあるわけではない。
父さんの言い方から察するに、部屋を明け渡すための掃除も今回は手伝わなくてもいいということなのだろう。
それは、父さんが僕に対して僅かに感じているであろう罪悪感の所為かどうか知らないけど、有り難いことだと、これくらいは納得しておこう。
そんな事を思いながら、僕は何処へ向かうあてもなく、街の中を歩き回った。
南葛小。よく行ったスーパー。お世話になった散髪屋。コンビニ。商店街。
数ヶ月間の間にたまった思い出が蘇ってくる。
歩きながら、僕は知らずにため息をついていた。
出発の前の日にはいつも、以前にいた街での別れの日を思い出す。
『ずっと一緒にサッカーをしような』
そう言って送り出してくれたふらののメンバー。
結局全国大会で対戦することはなかったけど、でも逢えた。
とてもとても嬉しくて。嬉しすぎて涙がでそうになった。
『き、今日!? ずいぶん急じゃないか』
直前まで黙っていた僕にそう言って目を丸くしながら問い返してきた小次郎。
大きく見開いた目がやけに子供っぽくて、僕はあの時思わず笑ってしまったんだ。
『何笑ってんだよ』
拗ねた口調でそう言った小次郎。
健康そうな浅黒い肌。鋭い眼差し。一緒に猫を埋めた優しい思い出。
僕は小次郎の顔を見ながら笑い続けた。
だって。
そうしないと泣き出しそうだったから。
涙が止まらなくなりそうだったから。
どんなに繰り返しても慣れない。
心がズキズキと痛んで、胸の中に大きな塊ができる。
その塊をぐっと飲み込んで、僕は歩調を早めた。
商店街を通り抜け、修哲小の前を通り過ぎ、ランニングで良く通った河原へと出る。
よかった。
誰にも会わずにすんだ。
「変なの」
僕はつぶやく。
父さんは別れの挨拶をしてきなさいと言って僕を送り出したというのに、当の僕は、誰にも会わずにすんだことに、こんなにほっとしている。
相変わらずの天の邪鬼。
表面だけで良い子ぶってる小鬼だよ。これじゃあまるで。
「…………!」
やはり神様はいるのだろうか。
河原の隅に腰を降ろしている見慣れた少年の背中を見つけ、僕は息を呑んだ。
誰にも会わずにすんだと思った矢先にこれだ。
つくづく神様という奴は僕を苛めるのが趣味のようだ。
それとも、僕が素直じゃないから、その戒めだとでもいう気なのだろうか。
「……あれ? 岬君」
僕の気配に気付いて、振り向いた少年が笑った。
「……やあ、翼君」
つられて笑顔をみせながら、僕は翼君のそばに駆け寄った。
「何してたの? こんな所で」
「うん……ちょっと」
曖昧に誤魔化しながら翼君はいつもの笑顔を僕に向けた。
「岬君こそ、どうしたの? あ、そうか、夕飯の買出し?」
「まあ、そんなところ」
そういえば、時間帯はすっかり夕食時だ。
今日は魚の特売日だったはずだから、この街最後の夕食は魚になるんだろうか。
すっかり頭の中は主婦だなあと多少苦笑しながら僕は翼君の隣に腰を降ろした。
「今日の夕食は何?」
そんな僕の心を読んだかのごとく、翼君がそう訊いてきた。
まったく。
僕ってそんなに主婦みたいな顔してるのかな。
「うん。そうだね。今日は魚かな?」
「すごいなあ、岬君は。夕飯作ったりもできるんだもんね」
「たいしたことはしてないよ。魚焼いたり、ハンバーグ煮込んだり。出来合のものも多いし」
「それでもすごいよ。オレなんか全然駄目。いまだに火を使わせて貰えないから」
「翼君にはお母さんがいるんだから、それでいいんだよ」
言いながら僕の胸がチクリと痛む。
まったく自分で自分を痛めつける発言をして、僕は何がしたいんだ。
お母さん。
どんな時でも、どんな所でも、その単語を口にするだけで自分の心が痛くなることを、僕はよく解ってるはずなのに。
「オレも岬君みたいに色々出来ればよかったなあ……オレ、サッカー以外何もできないから、だから……」
「…………?」
僕の気持ちになどまったく気がついていない様子で、翼君はそう言って膝を抱えなおした。
「だから……駄目なのかな……?」
「駄目って……何が?」
「…………」
僕にはその時、翼君が何を言っているのか解らなかったんだ。
本当に。
自分のことで精一杯で、翼君が何を言いたかったのか、解らなかったんだ。
「ねえ、岬君」
気を取り直したかのように翼君がパッと顔をあげた。
「何?」
「出発はいつ?」
「…………!」
油断していたところに、綺麗な右ストレートが入った気分だった。
まったく突然そんなこと訊かないで欲しい。
「えっ……あの……」
おもわずどもってしまう自分が情けない。
「もうすぐなんでしょう? 昨日井沢君がそろそろじゃないかって言ってた。絵も完成してるみたいだしって」
さすがというか何というか。
いつもこういった事に一番最初に気付くのは彼だったような気がする。
やはり私立校に通っていると言うことは、それなりに頭の回転もはやいんだろうか。
くだらないことを考えつつ、僕はじぃっと僕の目を覗き込んでくる翼君の視線に奇妙な後ろめたさを感じていた。
「えっと……出発は……確か…あ……」
「………あ?」
「あ……明後日」
言ってしまった。
翼君は予想通り大きく目を見開いて、びっくりした顔をしている。
明後日でこうなんだから、本当の事を言ったら、彼はどんな顔をするのだろうか。
「明後日? そんなに急に?」
「あ……うん。そう」
罪悪感が押し寄せる。
でも、今更本当のことなんか絶対言えない。
言えるわけない。
だって、翼君はきっとこう言う。
『なんで嘘ついたの?』
僕はその質問に答える術を知らない。知りたくもない。
ごめんね。翼君。卑怯者で。
だって、僕は。
「じゃあさ、明日、岬君のお別れパーティしようよ」
「……えっ?」
翼君がそう言って精一杯の明るい笑顔を僕に向けてきた。
「お……お別れパーティ?」
「うん。オレん家でもいいし。あ、そうだ。若林君の家なら部屋も広いからみんな呼べるし、そのほうがいいかな?」
翼君の頭の中でどんどん計画が立てられていく。
「これから若林君に連絡取って、大丈夫ならみんなに声かけなきゃ。昼過ぎでいいよね。岬君の家まで呼びに行くよ」
「あ……う…うん」
僕は曖昧な笑顔で翼君に向かって頷いた。
きっと翼君達が僕を呼びに僕の家に来た頃、僕はもう此処にはいないだろう。
次の場所に向かう列車の中だ。
これは裏切りなんだろうか。
翼君に対する裏切りなんだろうか。
別れの言葉も、見送りも、そういったもの何もかもを拒否する僕の行為は、今まで過ごしてきた仲間に対しての最後の裏切り行為なんだろうか。
ごめんね。翼君。ごめんなさい。神様。
僕は最後の最後で、こんなに僕のことを思ってくれている友達を騙そうとしています。
でも、本当に嫌なんだもの。お別れ会も。見送りも。
先の約束なんか出来るわけないのに、社交辞令で、また逢おうねなんて、そんな事、笑顔で言い続けるのはもう限界なんだ。
だったら、まだ責められた方がまし。
何も言わないで消えた方がまだましなんだ。
期待せずにすむから。
だって。
大切だから。
誰よりも、何よりも大切だと思ったから。
少しでも期待をしてしまったら、きっと耐えられない。
僕は。
「じゃあ、岬君。明日ね」
そう言って立ち上がり、走り去っていく翼君の後ろ姿を僕はしばらくの間じっと見送っていた。
まだ色づき始めてもいないすすきの穂が目の端に映って、それがなんだかとても哀しかった。