囚われの蜘蛛 (3)
「お前も治療してやるよ。手を出しな」
部屋に入ったとたん、レオリオがおもむろに持っていた鞄を開けた。
「レオリオ。私は何処も怪我などしていない」
「してるだろ。奴を殴りすぎて拳を痛めてる」
「…………!!」
表情を強ばらせて、クラピカが立ちすくんだ。
リングのように指にはまっている鎖の隙間から、赤い血が滴り落ちて床を濡らす。
「ったく、そんな状態になってることにすら気が付いていないなんて、お前、どんだけ呆けてんだよ」
「う……うるさい。これくらい自分で……」
慌てて手を隠そうとしたクラピカの腕を掴み取り、レオリオは強引に自分のほうへと引き寄せた。バランスを崩して、そのままクラピカの身体がレオリオの方へと倒れ込みかける。
が、とっさに足を踏ん張り、クラピカは無理矢理レオリオに捕まれていた腕を振り払った。
「…………」
レオリオが責めるような目でクラピカを見る。
クラピカは小さく息を吐き、観念したようにすっと両手をレオリオの前にかざした。とたんにクラピカの両手から、今までそこに確かにあったはず鎖が音もなく消えていく。
「分かってても目の前で見るとやっぱ驚くな」
感心したようにレオリオが呟いた。
「具現化系ってのはすげえ能力だな。何もないところから鎖まで出しちまうんだから」
「そうだな。お前は恐らく具現化系ではないだろうからな」
くすりとクラピカが笑った。クロロを捕らえてから初めて見せた笑みだ。
レオリオはようやく安心したように息を吐き、クラピカを座らせると、傷ついた両拳の治療を始めた。
「……痛っ……」
消毒薬が染みたのか、クラピカが一瞬眉を寄せる。
ふと手を止めてレオリオがじっとクラピカを見つめた。
「……なんだ?」
真っ直ぐに自分を見つめるレオリオの視線に戸惑って、クラピカは思わず目を瞬いた。
「ど……どうかしたのか? レオリオ」
「……いや、傷口に薬が染みたんだな。痛かったろうと思って……」
「…………」
痛みは日常。
慣れだな。
そういったクロロの言葉が頭を過ぎる。
流星街の人間は存在しない人間だ。
では、存在しない人間へ向けられる憎しみは、本当に存在しているものなのだろうか。
自分達は、あるはずのないものを追っているだけではないのだろうか。
「……なあ、無駄と承知で言ってみるけどさ」
クラピカの拳の傷に視線を向けたまま、レオリオが言った。
「やっぱ、止めねえか。復讐なんか」
「…………!?」
一瞬で、部屋の空気が凍り付いた。
「どういうことだ。それは」
「どういうことも何もそのままだよ。なあ、復讐なんて止めないか?」
「…………」
しばらくじっとレオリオを見つめていたクラピカはやがて大きくため息をついた。
「お前も、同じ事を言うんだな」
「同じ? 誰と?」
「師匠とだ」
「…………」
苦しげに目を伏せ、クラピカはレオリオの手を逃れるように振り払って立ち上がった。そして、レオリオに背を向ける。そのまま部屋を出ていきそうなクラピカの雰囲気に、レオリオは慌てて立ち上がるとクラピカの前に回り込んだ。
「師匠って……そうか、その人も、お前がこのヨークシンに来る理由を知ってたんだよな」
「ああ」
「そうだよ。お前が何のために念を覚えて、何のために鎖を具現化したのかも、全部知ってたんだ。知っててお前に念を教えた」
「そうだ。あいつはすべて知っていた。知った上で私に念を教えたくせに……それなのに」
「…………」
「それなのに……まるで口癖のように……」
止めておけ。復讐なんて。
いつもいつも。最後の最後まで。
止めておけ。復讐なんて。
そう言い続けた。
「…………そりゃ言うだろ。誰だって言うさ。お前のそんな顔見りゃな」
「そんな……顔?」
驚いてクラピカはレオリオを見あげた。
「私が……どんな顔をしてるというのだ」
「してるじゃねえか。だってお前、ちっとも楽そうじゃないじゃねえか。そんな苦しそうな顔して、今にも泣きそうな面して、必死で耐えてて。んなの見りゃ誰だって思う。止めちまえって」
「レオリオ……」
「なあ、お前にとって復讐って何だよ。義務か? だったら捨てちまえそんなもの」
脅えたように息を吸い、クラピカはレオリオから視線を逸らせた。
「義務……ではない」
「じゃあ……」
「復讐は……私そのものだ」
「……?」
「それがなくなったら、私にはもう何もない」
今にも倒れるのではないかと思えるような苦しげな口調でクラピカは言葉を吐き出す。
「私には何も残らないんだ」
「……何バカなこと言ってんだよ。お前……」
「本当の事だ。私にはもう、復讐以外何も残っていない。あの時から……」
決してレオリオを見ないようにと俯いたまま、クラピカは言葉を続けた。
「以前は、私にもすがるものが残っていた。師匠が言った通りだ。未練も執着も残っていた。でも、もう無い。あの時、あいつの……あの男の心臓を鎖で握りつぶした瞬間、私の未練も一緒に潰された」
「…………」
「私の手は血に染まった。だから……もう……」
「クラピカ……」
「もう……何も……残ってない……」
クラピカの身体が小刻みに震える。もう、あらゆることが限界に達しているのではないだろうか。思わずレオリオがクラピカの身体を支えようと腕を伸ばしたとたん、クラピカはその腕を完全に拒否して叩き落とした。
「触るな!」
「……え」
クラピカの悲痛な叫びにレオリオの動きが止まる。
「私に触るな。お前は、こっちへ来ちゃいけない」
「何……を……言ってる?」
「お前だけは、こちら側へ来てはいけない。その手は人を生かす為の手なのだろう……だから」
「…………」
「だから、お前は私に触ってはいけない」
「…………」
「汚れる」
「……!?」
信じられないといった表情でレオリオはクラピカを見下ろした。
クラピカはやはり視線を逸らせたまま、レオリオの方を見ようとしない。
「バカ……か……てめえは……」
レオリオは力強く腕を伸ばし、その長い手でクラピカの頭を抱え込んだ。
「レオリオ……!? 離…せ……」
「いいや、絶対離さねえ」
その言葉通り、レオリオは腕をそのままクラピカの背中にまわし、きつく抱きしめる。クラピカが驚いて身をよじっても、レオリオは決してクラピカを離そうとはしなかった。
「よせ……レオリオ……」
「…………」
「レオリオ……」
レオリオの腕の中でクラピカの金糸の髪が揺れる。
レオリオは決してクラピカを抱きしめる腕を離さなかった。
――――――なるほどね。そういうことか。
それはつまり。
壁の向こう側でクロロは小さく笑いを洩らした。
あの時、聞こえた悲鳴。
ウボォーの断末魔と重なって聞こえた少女のような悲鳴。
あれは、やはりこのクルタの戦士のものだったのだ。
戦士。
戦士というには、あまりにも脆い。あまりにも甘くて、脆い。
自分で殺した相手の死を受け入れられない程。甘くて、脆くて、儚い。
「止めておけ、復讐なんか……か」
確かに。
自分もそう思う。
何故なら。
あんな少女に自分は殺されない。
殺してもらえない。
あの少女は自分を死地に誘ってくれる死の天使にはなり得ない。今のままでは。
「今の……ままでは?」
再びクロロの顔に笑いが広がる。
自分は何を望んでいるのだろう。自分は、あの戦士が成長することを望んでいるのか?
今度こそ、立派な復讐者となって自分の前に立ちはだかってくれることを?
もし、そうなのだとしたら。
やはり、自分は己と対等に戦える相手を捜しているのだろう。
死と向かい合わせの生。生と向かい合わせの死。
――――――「パクノダ達が来た。出発する。人質交換は向こうへ着いてからだ」
クラピカが扉から半分だけ顔を覗かせて淡々と告げてきた。
先程より少しだけ顔色がよく見えるのは、あの医者の卵のおかげで少し落ち着いたからだろうか。
クロロが無言で了解した旨を告げるよう小さく頷くと、クラピカはそのまま再び扉を閉めた。
一人になり、クロロは壁の向こうに広がっているであろう空を見あげる。
「東……か」
向かう先は、死に場所なのか。それとも生きる場所なのか。
自分はどちらを望んでいるのか考え、クロロはそっと瞳を閉じた。
FIN.
2009.12.06 脱稿