囚われの蜘蛛 (2)
ブーンという低い振動音が直に伝わってくる冷たい床に身体を横たえて、クロロは静かに目を開けた。
時刻は9時。
蜘蛛の団員であるパクノダが、先程クラピカとの交渉を終えて旅団のアジトへと戻っていった。彼女が向こう側の人質である少年2人を連れて戻って来るまで、あと約3時間。
クロロはじっと己の身体の外と内に絡みつく鎖を見下ろした。
先程、パクノダが来ていた間は、それこそ声を発することも不可能な程、がんじがらめに締め付けられていた鎖も、今は必要最低限と思える量にまで減っている。
ただし、先程打ち込まれたジャッジメントチェーンは、クラピカが言ったとおり、確かにクロロの心臓を絡め取っていた。
他人に心臓を握られる。
冗談ではなく、現実としてこんな状況を経験する日が来るなんて。
念能力の使用の禁止。旅団員との接触の禁止。
この2つの禁止事項を破れば、その場で、この鎖はクロロの心臓を潰すだろう。まさに生と死の狭間に自分は立っているのだろうか。
それにしては、あまり緊迫感を感じていない。
これは死を覚悟しているからというのとは違う。
何故なら、自分は恐らくこの鎖では死なないだろうと確信しているのだ。
いや、正確に言うと、死なないではなく、死ねないだろう。
クロロは小さく息を吐いて、ゆっくりと身体を起こした。
骨がギシギシと軋む。僅かに顔を歪ませペッと吐きだした唾には赤い血が混ざっていた。
「…………」
そのまま顔をあげ、クロロは自分の方へ歩いてくる背の高い人影を見あげる。
「何だ? パクが戻ってくるにはまだ時間があるだろう?」
「いや……あんたの傷を治療してやろうと思ってさ」
見るとレオリオの手には鞄らしき物がある。医者が往診用に持っているものとはタイプが異なるが、恐らく応急処置用の医療器具でもはいっているのだろう。
「そう言えば、医者の卵だとか言っていたな」
「ああ」
「良心的……いや偽善的だというべきか」
「何とでも言え」
脇に鞄を置くと、レオリオは慣れた手つきでクロロの腕をとり、そのまま軽くトントンと身体の各部を叩いた。
「一応触診しただけなんで確実じゃないが、骨が折れている箇所はないようだ」
「そうか」
「だが、打撲は酷い。骨だって、折れてないにしてもヒビくらいはいってるかも知れないぞ」
「そうだろうな」
ホテルで捕獲されてから、車の中、そしてこの飛行船。クロロはまるでわざとのようにクラピカを挑発するような言動を続け、結果傍目に見てもかなりボロボロの状態になるほど殴られていた。
「…………痛くないのか?」
「……何故?」
「いや、傷を見る限り、かなり酷い状態なのに、案外痛がってないなと思って。それも蜘蛛の団長である意地か?」
「別にそんなつもりはない。意地を張る必要がある状態でもないしな」
「じゃあ……」
切れた口の中からはいまだに新たな血が滲みだしている。完全に折れてしまった歯の欠片も床に転がっている。
丈の長い服を着ているので実際に見たわけではないが、恐らく袖をめくっただけで、そこに広がる青痣が目に付くことは間違いない。
痛くないわけがないだろうに。
不思議そうに自分を見るレオリオを見あげて、クロロがふっと笑った。
「確かに……痛くないわけではない。だが、何だろう。言葉にするとすれば、慣れかな」
少し小首を傾げてクロロはそうつぶやいた。
「慣れ?」
「この程度の痛みであれば、日常の状態だということだ」
「…………」
ゴクリとレオリオが唾を飲み込んだ。
「物心ついた頃、この程度の痛みは日常茶飯事だった。つまり痛くない状態の時というもの自体なかったんだ。そうすれば、段々感覚は麻痺していく。痛みを感じなくなるのではなく、この痛みが日常になるんだ」
「…………」
蜘蛛達の出身は流星街だと聞いた。
産まれた時から誰にも認められない者達の集まる、存在しない都市。
存在しない都市の中、存在しない命は、何処へ向かって行くのだろう。
「……旅団の人間に会ったら、一度聞いてみたいと思ってた。そもそも、なんでお前等はクルタ族を皆殺しにしたんだ?」
重い口調でレオリオが聞いた。クロロは無表情のままでちらりとレオリオの口元に目を向ける。
「奪われた緋の目はすぐに闇オークションにかけられたらしいが、全部じゃなかった。かといって残りを今も蜘蛛が保持してるなんて噂も聞かねえ。そいつらは何処にあるんだ? 一族全員だぜ。100や200じゃ利かない量だ。そんな大量の緋の目を、お前等どうしたんだ? なんで一族全員を惨殺する必要があったんだ?」
「そんなこと聞いてどうする」
勘に障るほど冷静な声でクロロはようやく口を開いた。
「理由を聞けば蜘蛛への恨みが軽減するとでも思ってるのか?」
「……そうじゃない。ただ……」
ただ。
理由も何も分からない状態で、ただただ憎しみだけを募らせ続ける。そんな姿を見ていたくない。
今にも切れそうな糸の上で足掻いている細い身体を支える術を見つけてやりたい。
「……別に理由などない。ただ、欲しかっただけだ」
クロロがポツリと言った。
「欲しかった? 何が?」
「…………」
「何が欲しいっつーんだよ」
「何かが……だよ」
「…………」
「オレ達は何もない所にいた。何かが欲しくても、その「何か」が分からないほど、何もない処にいたんだ」
そう言ってクロロは考え込むように手の上に顎を乗せた。
「さっきお前達のお仲間にも言ったが、オレは動機の言語化というのは苦手なんだ。これで勘弁してくれ」
そうしてクロロは口を閉じ、もう開こうとしなかった。
――――――「レオリオ、いつまで治療に時間をかけているんだ」
クロロの所へ行ったきり戻ってこないレオリオにしびれを切らせたのか、クラピカがクロロを閉じこめておいた部屋に顔を覗かせた。
「何言ってんだ。お前がつけた傷だろうが。オレは医者のはしくれとして、傷を負った奴に知らんぷりは出来ないんでな」
「…………」
レオリオの言葉にクラピカは罰の悪そうな表情をして目を背ける。
相変わらず、純粋なままだ。
ちらりとクラピカを見て、クロロが微かに笑った。
「お前が笑うな」
とたんにレオリオが凄みをきかせた声でクロロに告げる。
「放っておいた所為で、何かあったら後味悪いからな。とりあえず応急手当だけはしといたが、オレだってお前等がクルタ一族にしたことを考えると、それだけで吐き気がするんだ」
「…………」
クラピカがレオリオに視線を戻した。
「だけど……」
「……レオリオ?」
「だけどさ……」
「…………」
「だけど……復讐ってのは「殺し」じゃないよな。クラピカ」
クラピカが表情を凍り付かせた。
クロロは呆れたように首を振る。
「それはどう違うんだ?」
「違うさ。全然違う」
「…………」
「違うよ」
パタンと傷薬の入った鞄を閉じ、レオリオが立ち上がった。
そのまま2人は去り、静かに入り口の扉が閉じられる。
足音を聞くと、どうやら2人はそのままこの小部屋の隣の部屋に入って行ったようだった。
軽く息を吐き、クロロは壁際に身体をもたせかけた。微かな振動と共に、声が聞こえた。恐らくレオリオとクラピカの声だろう。
クロロはそのまま壁に身体を寄せて、隣室から届いてくる声を聞くともなしに聞いていた。
こんなふうに、誰かの言動を気にしたのはいつ以来だろう。
緋の目。
もう、朧気にしか覚えていないが、あの頃、ひどくあれが欲しかったのだ。
何故だろう。
一つ残らず手にしたいと、それ程に欲していた。
今、隣室にあるのは、その最後の一つ。
「……今更……か……」
血に汚れた自分の掌を見つめ、クロロは苦笑を洩らした。