囚われの蜘蛛 (1)

「…………!?」
異様な空気が辺りを包み、クロロははっとして周囲の様子を伺った。
「……なんだ?」
何かが起こった。何かが聞こえた。
ウボォーの断末魔か。いやそれにしては妙だ。
奴ではない。もっとこう。か細くて切なくて。まるで。
そう、まるで少女の悲鳴ような。
そんな声が聞こえたような気がした。

 

――――――「何を見ている?」
小刻みな車の振動と、自分を睨み付ける緋色の目に、ようやくクロロはここが何処で自分はどうしたのか思い出した。
ベーチタクルホテルでの一件。
突然襲ってきた暗闇に、ほんの一瞬。0.1秒、対応が遅れた。
自分の身に起こった状況に気付いた時には、体中を鎖で締め付けられ強制的に絶の状態にさせられていた。
みくびっていたわけでも、侮っていたわけでもない。
それどころか、これが鎖野郎の力なのかと、僅かな感動すら覚えた。
そう。いつも。
強い奴に巡り会った時、少しだけ嬉しいと感じている自分がいた。
最近では、あのゾルディック家の親子。
あの2人と対峙した時、久々に戦うことを楽しんでいる自分がいたのだ。
生と死をかけた戦い。
死と向かい合わせの生。生と向かい合わせの死。
もしかして、自分はこんなふうに己と対等に戦える相手を捜していたのかもしれないと。
ふと、そう思う。
それはつまり、言い換えると。
「…………」
そこで思考を止め、クロロは苦笑しながら、隣に座るホテルの女性従業員の変装をした少女のような顔を見下ろした。
「いや、鎖野郎が女性だったとは思わなかった」
「私がそう言ったか? 見た目には惑わされぬことだな」
クロロから視線を外さないままで、むしり取るようにカツラを外した手は、やはり少女のそれで、クロロは分からないほど微かに唇の端を上げた。
嘘のつけない性格なのだろう。このクルタの戦士は。
女性だと言ったことを完全否定しなかったという事実が、そのまま自分が女性であるということを肯定する言葉だということに気付かないほど。
真っ直ぐで。純粋で。高潔な。
はっきり言うと、少し苦手なタイプかも知れない。
「あの娘の占いにも、このことは出なかった。つまり、この状態は予言するほどのこともない。とるに足らない出来事というわけだ」
「……貴様!!」
「オレにとってこの状態は、昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない平穏なものだ」
「…………!!」
すさまじい勢いで拳が風を切る。口の中に広がった血の味にクロロは小さくむせて咳をした。すると、欠けた歯の欠片が飛び出して車の床に転がった。
やはり。
少し挑発すれば、素直に思った通りの反応を返す。
理想的なほどストレートに。これ以上ないくらい真っ直ぐに。
まさか、ウボォーを倒した鎖野郎が、こんな少女だったなんて。
思わず笑いがこみあげた。それがまた、奴の勘に障ったようで、殴りつけてくる拳に力が籠もる。
「冷静になれ! クラピカ! らしくねーぞ!!」
運転席の男の叫びに、殴りつける動きが止まった。
固く握りしめた拳が震える。
本当に、どこまで素直で、純粋なんだ。
「オレに人質としての価値などない。これは事実。追いつめられているのはお前達のほうだ」
「…………お前は……お前達はいったい」
「蜘蛛さ」
僅かにクラピカが息を呑む。薄く開いた唇からヒュッっという音が洩れた。
そう、オレ達は蜘蛛だ。それ以上でも以下でもない。
ただ、それだけ。
それなのに、何故このクルタの戦士は、その事実に脅えたような目を向けるのだろう。
「……5年前、緋の目のクルタ族を虐殺した時、すでにお前は団長だったのか? 答えろ」
正面に顔を向けたまま、横目でクラピカを見ると、クラピカはなんだか聞いたことを後悔でもしてるかのような、苦しげな表情をしていた。
問いつめているはずの声も、まるで懺悔でもしているかのように聞こえる。
「ウボォーは最期に何と言ってた?」
クロロの言葉に、ピクリとクラピカの頬が緊張する。
クラピカの心情に呼応するように鎖が揺れた。
強い、強い念の鎖。
「オレも同じだ。お前に話すことなど何もない」
「…………」
顔を向けると、クラピカは酷く傷ついた表情をしていた。
緋の色の瞳が紺碧の碧に変化する。
不思議な現象だった。
世界7大美色のひとつ。緋色の瞳。こうやって変化を間近に見ると、この碧の色も緋色に負けず劣らず綺麗なのだと思い出す。
あの頃、5年前。このクルタ一族はすべて殺し尽くしたと思っていた。
こんな所に生き残りがいたなんて、つい先日まで思ってもいなかった。
これは喜ぶべきことなのだろうか。
もう一度、この不思議な瞳の現象をこの目で見ることが出来るなんて。
もう一度、この綺麗なものと対峙することが出来るなんて。

 

――――――「クラピカ、着いたぜ」
車の中からかけていた電話で、団員達と交渉していたクラピカは、そのままリンゴーン空港へと向かい、用意していた飛行艇に乗り込んだ。
クロロを目の前にしているからなのか、クラピカ達の会話や行動には無駄な箇所が見あたらない。
これは前もってこうなることを予想して皆で計画を立てていたということなのか、話し合う必要もないほど、クラピカの頭の中でのみ、この先の予定が組み立てられているということなのだろうか。
「30分後にパクノダがこちらへ来る。その時までここで大人しくしていろ」
飛行船の中の小部屋のひとつに押し込められるように連れてこられたクロロは、興味深そうに明かり一つない暗闇に目を向けた。
「オレを一人にしてくれるのか? 意外だな。逃げてくださいと言ってるようなものじゃないのか?」
「お前の身体に巻き付いている鎖は、念の鎖だ。私が近くにいようがいまいが決して切れない。すなわちお前の身体は自由の利かない状態だと言うことだ。無駄なことは考えるな」
クロロはすっと自分の身体を締め付けている鎖を見下ろした。
「なるほどね。具現化系か……」
「そうだ」
「つまり、今まで自分が具現化系であることを隠すために、お前は常に見える位置で鎖を纏っていたというわけか。ウボォーの事もそれで騙したんだな。あいつは単純だから最初はお前のことを操作系か何かだと勘違いしてたんだろう?」
「…………」
ピクリとクラピカの頬が強ばった。
なんだ?
クロロがふと目を細める。
さっきもそうだったが、今度はもっと顕著に見えた。
ウボォーの名前がでるたび、クラピカは一瞬脅えたような表情をする。
これはどういう意味と捕らえればいい。
一瞬湧いた疑問を脇に押しやり、クロロは不敵な笑みを浮かべて大袈裟に肩をすくませる仕草をした。
「分かった。言われたとおり大人しく人質になってみるよ。お嬢さん。こういう経験は初めての事なので、少し興味があるしね」
「……!!」
明らかに、動揺と不快感を伴った表情でクラピカはクロロを睨み付けた。
「貴様は、今の自分の立場がわかっていないのか」
「立場? さあ」
「…………」
とぼけているのではなく、本気で何とも思っていないといった表情でクロロはクラピカを見つめている。
クラピカはギリッと血の滲むほど唇を噛みしめて、押し殺した声で言った。
「今度私のことをそんな呼び方をしたら侮辱と受け取る」
「侮辱……とは?」
「…………」
ジャリっとクラピカの手元の鎖が鈍い音を立てると、隣にいたレオリオが慌ててその手を止めさせた。
「クラピカ! これ以上手出しするなよ。これでもこいつは一応人質なんだからな」
「………………」
「あんたもあんただ。蜘蛛の大将。わざと挑発してこいつを怒らせることに何のメリットがあるんだ?」
「メリット……か。ただの純粋な興味なんだがな」
「……はぁ?」
そう。興味が湧いた。
このクルタの戦士が持つ怒りの中に見え隠れする別の何か。
その何かが何なのか、ほんの少しだけ興味が湧いた。
「ホント、わけ分かんねえな。幻影旅団ってのは、全員こんな奴らばっかりなのか?」
「さあな」
自分が人質だなどという自覚が一切ないような余裕の笑みでクロロは答える。
クラピカは無言で背を向けると足早に部屋を出ていった。まるで、もう一瞬たりともこの場の空気を吸うのが嫌だとでもいうように。
「……おい、クラピカ!」
「機嫌を損ねたようだな。あのお嬢さんは」
「…………」
レオリオが苦虫を噛みつぶしたような顔でクロロに向き直った。
「……んだよ。その呼び方。お嬢さんって何なんだ」
「違うのか?」
素直に聞き返されて、レオリオは返す言葉に詰まった。
「……違わ…ないだろうけど……あいつは」
「ほう」
言葉を濁すレオリオに、クロロが初めて驚いた表情を見せた。
「…… なんだよ」
「いや、どちらだろうと思っていたんだ。知らないのか、それとも知っているのは自分だけだと思っているのか」
「……!?」
「どうやら後者のようだな。もう少しで貴方のことを見くびるところだった」
「あのな……オレはこれでも医者の卵なんだよ」
いまいましげに自分の髪を掻き回し、レオリオは深くため息をついた。
そんなレオリオをみて、再びクロロが余裕の笑みを見せる。
静かに飛行船が上昇を始めた。

 

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