宇宙と海の狭間−第2章:海−(4)

思いだせないパスワード。
当麻は再びパソコン画面を見つめて腕を組んだ。
自分の頭の中に何か霞のようなものがかかっている感じが抜けない。

戦いの記憶の辛い歴史。
思いだせない幾つもの出来事。

伸の笑顔を見る度、心の中で危険信号が鳴り響く。
これじゃいけない。絶対にいけない。

真っ黒な画面に映る自分の顔を、当麻はじっと睨み付けた。
オレは誰だ?
本当のオレは、何処にいるんだ?

その時、コンコンと軽いノックの音がして、征士がコーヒーを片手に書斎に入って来た。
「また、ここに籠もっているのか? 当麻」
「何の用だ?」
背中越しに当麻は訊いた。
「一応、お前の分のコーヒーも入れたので、運んできてやったのだが」
「ああ、悪い」
くるりと椅子を反転させて当麻が振り向いた。
「……コーヒー? ……お前が煎れたのか?」
「いや、私ではない。伸だ」
「…………」
差し出されたマグカップを手に取ると、コーヒーのいい香りが、ほわっとあたりに広がった。
「…………」
「どうした? 当麻」
「これ、ブラックじゃないんだ」
確かに、当麻の手にあるコーヒーは淡く濁っており、コーヒーの香りに混じって柔らかなミルクの匂いがする。
ほとんどの場合、当麻はコーヒーはブラックを一番好んで飲む。
伸もそれを知っている証拠に、昨日は濃いめのブラックコーヒーを煎れてくれた。
「ああ、伸が、今日お前がミルク入りが飲みたそうな顔をしていたと言っていたが」
「…………」
「違うのか?」
当麻は征士の質問には答えず、コーヒーを一口飲んだ。
まろやかなミルクの味が胃に優しい。
「…………なんで……解るんだろう……」
「…………?」
「……あいつ……何で、オレの事、解るんだろう……」
まるで独り言のように当麻がつぶやいた。
「……お前には解らないのか?」
征士の言葉に、当麻は少し戸惑ったような顔をした。
「…………解る……つもりだった……」
「…………」
「けど……事故にあってから、どんどん自信がなくなっていく……なのに、あいつが笑う度、胸が痛くなる」
「…………」
「以前は、もっと解っていたような気がしたのに……」
「…………」
「……征士、オレは、そんなに変わったんだろうか? ……オレがなくしたものは、もういらない過去の記憶だけなんだろうか……?」
当麻が無言でドアを背に立っている征士に、問いかけるような視線を投げた。
「どう思う? 征士」
「その質問に対する答えとして、適しているかどうかは解らんが、以前、お前は私のことをたまに征士ではなく、征と呼んだ」
「……?」
当麻が意味を掴もうと、すっと眉をひそめた。
「あの頃は、解らなかったが、私はお前にそう呼ばれることが嫌いではなかったらしい」
「…………」

征……
自分でも気付かずに、そう呼んでいた当麻。
本当に助けを求めている時や、気持ちが不安定な時。
全信頼を込めて、“征”と呼んだ。
天城が夜光の事をコウと呼んだように。

「あ、だからといって、そう呼べと言っているのではないぞ、私は」
「解ってる」
当麻がくしゃりと前髪を掻き上げた。
「つまりは、そういう事なんだ。きっと」
「…………」
「伸も、きっとそうなんだ」
「……伸が何か言ったのか……?」
「何も。何も言わないよ、あいつは。何も言わないまま、ただ笑うんだ」
「そうして、雨が降り続くのか……」
ぽつりと言った征士の言葉に呼応するように、外ではまた静かに雨が降りだしていた。

記憶がなくなって、頭の中が軽くなった。
少しだけ、楽になったような気がした。
なのに、今はそれが苦しい。苦しくてしかたない。
自分は後悔している。
たとえ何があっても、これは手放してはいけないものだった。
何が何でも守らなきゃいけないものだったのだ。

伸……!

オレがこんなに後悔するなんて。

……伸……
当麻は、湯気のたつミルクコーヒーを両手で持ったまま、深く頭を垂れた。

 

――――――降り続く雨。
秀はいらついた目をして、細い線を描く雨を睨み付けていた。
背中がざわっとするような感覚がなくならない。
隣の伸のベッドはもぬけの空だ。
ここのところ、伸がまともに眠っているのを見た事がない。例えベッドに入っていても、伸が眠っていない事が気配で解る。
正確にはあの夜以来、伸は無理に眠らないように務めているようだった。

吐き気がする。
伸が言った。
伸はあの夜から自分自身を責め続けている。
秀は頭を抱えて深くため息をついた。

「伸……思いだせよ……そんな辛い事ばかりじゃなかったはずだろ。ちゃんと笑えた時期だってあっただろうに……伸……」
秀は、誰もいないベッドに向かって低くつぶやいた。

 

――――――夜の空は今にも落ちてきそうな程、低く雨雲がのしかかっている。
伸は静かにベランダの手すりに腰掛け、じっと空を見上げていた。
星の見えない真っ暗闇の夜。吸い込まれそうな程、暗い暗い夜空。
小さくため息をつき、伸は手すりを掴んだ自分の両手に視線を落とした。とたんに右手の真っ白な包帯が目に飛び込んでくる。
「…………」
どす黒い赤い自分の血。
汚れた手。
当麻の問いかけるような瞳。
少しだけ淡い、宇宙の色の瞳。
哀しい瞳。
「……?」
伸が人の気配に振り向くと、ガラス扉をわずかに開けて、征士が伺うように顔を出していた。
「……征士……?」
「どうした、伸。まだ寝ないのか?」
「ん……ちょっと……寝苦しくて……」
「…………」
征士はそのまま伸の隣りに歩み寄ると、同じように手すりに寄りかかり、空を見上げた。
「真っ暗だな」
「雲が覆っているからね。雨続きだし」
ぽつりとつぶやく伸を横目で見て、そっと征士が訊いた。
「ずっと、眠れないのか?」
「……別に…………そういう訳じゃ……」
「昨日も寝てないそうじゃないか。大丈夫なのか?」
「……大丈夫だよ」
空を見上げる伸の横顔は、夜の闇の所為だけではなく、青く見える。
「そんなに、眠りたくないのか」
「……えっ?」
伸は驚いて征士の紫水晶のような瞳を見上げた。
「どういう意味? 征士」
「まるで眠るのを恐れてでもいるようだ。お前は」
「…………」
いつも、多くを語らない分、征士の言葉は真実を突いてくる。
伸は微かにため息をついた。
「ねえ、征士。世の中には、しちゃいけない願い事ってあると思う?」
「……?」
「ほら、アラジンと魔法のランプの話で、ランプの精が言うじゃない。“お前の願いを何でも3つ叶えてやろう”って。何でも……だよ。そんなこと不可能なのに」
「そうなのか?」
「例えば、ちょっとひねくれた考えを持っている奴がいて、1つめの願い事で、“じゃあ、これから自分の言う願い事をすべて叶えて下さい”って言ったとしたら? ……だって、そう言えばこの先、いくつでも願い事を叶えてもらえるじゃない」
「…………」
「……でも、決してそうは言わない。それは、願ってはいけない願い事なんだから」

してはいけない願い事。

「……お前の話は、まるで謎かけだな」
「別に、深く考えなくていいよ。ちょっと思いついただけだから」
そう言って伸は笑う。
「…………」
「……何? 征士」
「何でもない」
視線をそらして、征士は空を見上げた。
いつもと少しだけ違う、伸の笑顔。
「雨……か」
独り言のように征士が言った。

第2章:FIN.      

2000.5 脱稿 ・ 2000.6.3 改訂    

 

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