宇宙と海の狭間−第3章:雨露の後−(1)

「なんか、ここんとこずっと天気悪いよな。せっかく当麻も退院したんだし、ぱーっと晴れてくれればいいのにな」
食後のコーヒーを飲みながら、窓際に腰掛けて遼が言った。
半分だけ開けられたカーテンの向こうには、雨が窓硝子に幾筋もの線を描いている。
いつまでも降り続く雨。
雨の戦場。
雨の中の雫の哀しい瞳。自分が犯してしまった取り戻せない罪。
望んではいけなかった願い。
伸はそっと硝子越しの雨を見つめた。

せめて、当麻が辛くないように。
あの瞬間を思いだして辛くないように。
もう、血で汚れた手を洗わずにすむように。

小さくため息をつき、伸は立ち上がった。
「遼、カーテン閉めていいかな。今、雨の音、聞きたくないんだ」
「……あ、ああ」
伸が手をのばし、多少乱暴にカーテンをひく。
まだ、微かに聞こえてくる雨の音に、伸がカーテンの端を握りしめたまま、うつむいた時、伸の服の中から小さな珠が滑り落ち、ソファで雑誌を読んでいる秀の足下にコロコロと転がっていった。
「……あ……!」
はっとした伸をちらりと見て、秀はさっとその小さな珠を拾い上げた。
ピンポン玉くらいの小さな珠。
いうまでもなく、それは光を失ってしまった当麻の鎧珠だった。

 

「…………」
「……なんだよ、これ」
バツの悪そうな伸に向かって、秀が低く言った。
「…………」
「何でお前が持ってるんだよ。当麻の鎧珠だろ、これ」
「…………」
「伸!!」
思いがけない強さで、声を荒げ、秀は伸に詰め寄った。
「どうしたんだよ!? 秀!」
遼が驚いて、2人の間に割って入ろうとしたが、その手を押さえ、秀は更に伸の襟首を掴みあげた。
「伸!! 答えろよ! ……お前、もしかしてずっと持ってたのか!? これ」
「……そうだよ。それがどうかした?」
伸は開き直ったように、真正面から秀の顔を見据えて言い放った。
「……どうかって……お前、何考えてんだよ!? 何でお前が当麻の鎧珠持ってるんだよ!!」
「当麻の鎧珠は光を失った。もう用をなさない。それなら誰が持っていたって別に構わないだろ」
「…………返せよ。当麻に」
「どうして?」
「まだ用をなさないって決まった訳じゃないだろ。当麻の記憶がこの中に封印されているんだったら、持ってたら記憶だって戻るかもしれないじゃないか」
「記憶を戻してどうするの?」
「……伸……?」
「…………過去の記憶なんかいらない。戦いの記憶なんか必要じゃない! ……当麻はもう記憶バンクじゃなくてよくなった。過去からやっと解放されたのに、どうして今更思いださせる必要があるんだよ!?」
「…………」
「思いだす必要なんか何処にもない! 過去の記憶なんて戦いの繰り返しばかりで、いい事なんか何一つないじゃないか。仲間が傷つき、自分の手が血に染まって……そんなの、もう、見る必要ない!! ……当麻だって、記憶バンクの役目なんかいらないって言ってたじゃないか」
「……何バカな事言ってんだよ。そりゃ、あいつだって苦しんでた。記憶バンクの役目が嫌になる事だってあっただろうさ。オレだって愚痴を聞かされた事だってある。辛そうだって思ってた」
「…………」
「だがな。あいつは、自分の記憶をちゃんと持ち続けようとしていた。どんなに苦しくても、これが自分の使命だって理解してた。……それに……それに、あいつが、他の事ならともかく、少なくともお前の事を忘れて構わないなんて思った事が一度でもあるか!?」
一気にまくし立て、秀は肩で息をしながら、伸を睨み付けた。
「……忘れていいよ」
「…………?」
「忘れてよ。僕の事なんて」
「……伸……お前……」
「覚えてなくていいよ。僕の事も。僕の犯した罪も何もかも、当麻が1人で抱え込む必要なんてない。さっさと忘れちゃえばいいんだ」
「お前、本気でそれ言ってんのか……?」
「……本気だとも。僕は喜んでるよ。当麻の記憶がなくなって」
「嘘つけ」
「嘘なもんか。僕は、よかったって思ってる」
秀の手から、鎧珠を奪い取り、伸はきっぱりと言い切った。
「当麻の記憶がなくなったって事は、戦いが終結した事を意味する。これは喜ぶべき事だよ。素直に喜べばいいじゃないか」
「バカ言うな!!! ……んなの喜べるか!! ……お前は……お前は、当麻の記憶を何だと思っているんだ? 当麻が忘れちまって構わないなんて、そんなこと本気で言ってんのか!?」
「本気だって言っただろ!」
「ふざけたこと言うな!! 当麻の記憶がなくなって、てめえが一番辛そうな顔してたくせに!!」
「…………!!」
「笑えないんなら、無理して笑うなよ、見苦しい!!!」
「秀!! やめろ!!」
征士の声に秀がはっとして口をつぐむと、伸はひきつったように目を見開いて、じっと秀を見つめていた。

「雨が……止まない」
征士がぽつりと言った。
「このままでは、ずっと雨が降り続くぞ、伸」
「……何それ。別に僕が雨降らせてる訳じゃないよ」
「いいや。お前が降らせてる」
「…………」
無言で征士の顔を睨み、伸はそのまま部屋を飛び出した。
「伸!!!」
玄関のドアが激しい音を立てた時、遼は一瞬問いかけるように秀を見た後、伸を追って駆けだして行った。

 

「お前らしい失態だな、秀」
征士が言った。
「なんだよ、それ」
「言葉通りだが」
「あーあ。どうせオレは単純バカですよ」
「別に悪いと言っているわけではない」
「…………」
ふてくされたように床に座り込んだ秀に征士が訊いた。
「一体何があったのだ? 秀」
征士の紫水晶の瞳を見上げ、秀はひとつため息をついた。
「……あいつ……この間、吐いたんだよ」
「…………?」
「オレ、最初はてっきり事故の後遺症かなんかがでたのかと思ったんだ。けど、違った。あいつ、吐き気がするって言うんだ。自分のした事に吐き気がするって」
「自分のした事……とは、何だ?」
「解んねえよ、オレには。でも、きっと伸の奴、夢を見たんだ。いつの時代か解らないけど、思いだしたら平気ではいられなくなる夢」
「…………」
「オレにはあいつが何を見たのか解らない。何を悩んでいるのか解らない。何であそこまで自分を責めるのかも…………きっとそれを解ってやれるのは、当麻だけなんだ。記憶バンクである当麻だけが、あいつの過去を理解してやれるんだ。すべてを知って、理解してやれるんだよ……解ってんのかよ! ……当麻!!!」
居間の入り口に立って、じっと自分を見つめていた当麻に向かって、秀が振り絞るような声で言った。
「……オレの役目じゃない。あいつを支えるのは、お前の記憶バンクとしての使命だろ。当麻」
「…………」
「お前、オレにそう言ったよな。ずっと前」
「…………」
「初めて、伸に逢いに行った時、そう決めたんだろ」
「…………」
「忘れんなよ」
「…………」
「当麻……」
「…………」
秀の言葉を肯定も否定もせず、当麻はそのまま無言できつく唇を噛み、出ていった。

 

「あーあ。やっぱこの性格、治した方がいいかな、オレ」
秀が忌々しげにそう言った。
「……私は、今のままで構わんと思うが」
「…………?」
「秀は……いや、金剛はいつまでも、そのままで変わらずにいて欲しい」
「征士……」
おもわず顔をあげた秀に向かって、征士が穏やかに頷き返した。
「オレ……さ、この頃、頻繁に夢、見るんだ。昔の夢。なんでか解んなかったけど、やっと解った。……きっとあの当麻の鎧珠の所為だったんだ……何が、もう用をなさないだ。伸の奴、解ってたんだ。あの鎧珠が当麻の記憶の封印を解く鍵だって事も、手にするだけで、記憶が呼び戻されるんだって事も……あいつ、当麻に思いださせたくなくてずっと持ってたんだ。おかげで同室のオレまで影響されちまって……」
「苦しい夢だったのか? 過去の夢は」
征士の問いかけに、秀はゆっくり首を振った。
「そりゃ、戦いの歴史だ。辛い記憶だってたくさんあるさ。でも、それだけじゃない。絶対、それだけじゃない」
「…………」
「懐かしい夢だよ。ずっと忘れてた懐かしい奴に、オレはまた逢えた。それだけでも、オレは思いだせてよかったと思う」
「……秀……」
「なあ、征士、紅って覚えてるか?」
「……紅……?」
「お前の名前だよ。紅」
「…………」
「あん時のお前、本当に綺麗だったよな。もちろん、今だって充分色男なんだけど、あん時のお前、本当に綺麗だった」
「…………」
「ごめんな、紅。最期の時、先に逝っちまって。せっかく居場所を見つけたのに」
「…………それは、お互い様だ、禅」
秀ははっとして征士を見た。
懐かしい名前。禅。
懐かしい、懐かしい、響き。

そうなんだ。辛いばかりじゃない。
戦いの記憶は、きっと、当麻にとっても伸にとっても、辛い事ばかりじゃなかったはずだ。
秀の頭を、慰めるように2.3度ポンポンと叩くと、征士は床に散らばった雑誌をテーブルの上に片づけた。

 

――――――「伸……!!」
霧雨の中、ようやく遼は、肩で息をしながら木にもたれてうつむいている伸を見つけた。
「……伸……」
伸の髪からは雨の滴が滴り落ちている。
まるで伸の涙のように見えるその滴は、決して涙ではなかった。
うつむき、小刻みに震える自分の手を、もう片方の手で握りしめ、伸は独りで耐えていた。
泣くことすら忘れたように、伸は自分の手の中の当麻の鎧珠を見つめていた。
髪に、服に、まるで伸を護るように雨の粒子が伸を包み込んでいる。
「……伸……・」
何度目かの呼びかけに、ようやく伸が顔をあげた。
「……遼……?」
いつもと変わらない風を装っていた、伸の笑顔。
随分と無理をしていたのだろうか。
あの時、事故にあってから、ずっと降り続いている雨。
伸が無理をすればする程、雨は強く、激しく降っていたのだろう。

「……伸……あの……」
「遼、君も気付いていたの?秀が言ったように……」
つぶやくように伸が言った。
「……それは……」
「遼?」
「……オレ……ずっと待ってた」
遼が言った。
「……伸が話してくれるのを、待ってた」
「…………」
「伸の笑顔がいつもと違うなと思っても、オレ、伸が話してくれるまで、待ってようと思った」
「遼……」
「オレ……解らないから……お前が何を望んでるのか…………オレ、お前に何をしてやればいいのか解らないから……」
「…………」
「何でもない……って、そう言ってお前は笑うから、オレ、どうしていいか解らなくなる」
「…………」
「伸が笑ってるから、オレ、どうしていいか解らなくなるんだ」
「遼……」
「どうしたらいい? ……オレ、何をしたらいい?」
遼の手が伸の濡れた頬に触れた。
「オレ、何だってしてやるから。お前の為に、何だってしてやるから……」
「遼……」
「オレ、お前にそんな顔されたら、どうしていいか解らなくなる。教えてくれよ。どうやったらお前は笑ってくれるんだ? 苦しまないで、前のように笑ってくれるんだ?」
「遼……」
遼の腕がゆっくりと伸の身体を抱きしめた。
「教えてくれよ。どうしたらいいんだ? ……伸、オレ、どうしたらいい?」
「……」
「何か言ってくれよ……伸……オレ、お前に何をしてあげられる? ……本当、何だってしてやるから……」
そう言いながら、遼はきつく伸を抱きしめた。
抱きしめてみて、初めて気付く。伸はこんなにも華奢だったのだと。
こんなにも、儚い身体をしていたのだと。

2人を包み込んで、ずっと雨が降り続いていた。

 

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