宇宙と海の狭間−第3章:雨露の後−(2)

「遼……そんな事、僕に言っちゃだめだよ」
「…………伸?」
「僕にそんな事、言っちゃだめだよ。何だってしてやるなんて……」
伸がそっと遼の腕から逃れるように、身体を離した。
「……遼が、僕なんかにそんなこと言うことはないよ……」
そう言って伸は微かに笑った。
苦しい、苦しい笑顔。
そうやって、伸は我慢し続ける。
そして、雨が降る。永遠に降り続く。
伸のかわりに、雨が降る。
やはり、伸は水に護られているのだ。そう思ったとたん、哀しくなった。
「……どうして、君が泣くの?」
言われて初めて、遼は自分が泣いていることに気付いた。
「遼……?」
「だって……お前が、泣かないから……」
遼は、自分の涙を止める術を持たなかった。
「……遼……気にしなくていいんだよ。こんな僕の為に、君が泣くことなんかない」
遼が弾かれたように顔をあげ、伸を見た。
「……何で……何でそんな言い方するんだよ!? ……みんなが……どれだけ伸の事、心配してるか解んないのかよ!」
「……遼」
「何でいけないんだ。お前の為に、何かしてやりたいって思うのはいけない事なのか!?」

「その通りだぞ、伸」
ふいに聞こえた背後からの声に、遼は振り返り、鋭い眼差しで声の主を見つめた。
「……当麻……」
遼の視線の先で、濡れた前髪をうっとおしそうに掻き上げ、当麻がじっと伸を凝視している。
伸が当麻の姿に脅えたように、一歩後ずさった。
「オレ達が仲間の為に何でもしてやりたいと思うのは自然な事だ。遼だけじゃなく、オレだって征士だって秀だって、お前の為に、何でもするだろう。お前は違うのか?」
「…………」
無言で、伸は当麻を見つめた。
2人の間を遮るように、雨が激しくなっていく。
「お前だって、仲間の為に命を張るだろう、伸」
「それとこれとは違う」
「……何が違うんだ」
「違う……全然違う……僕なんかの為に、何もしなくていい。僕の願いなんて……聞かなくて…いい……」
消え入るように、伸の声が小さくなっていく。

当麻はしばらく無言で伸を見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「遼、伸と2人で話がしたい」
「……当麻……!」
遼が、当麻を見た。
「頼む、遼」
「…………」
遼はうつむいて唇を噛みしめた。
どうしようもない思いが、膨れ上がってくる。
今の伸を救えるのは、当麻だけなのだろうか。
当麻だけが……伸を救う事ができるのだろうか……
遼は、キッとなって当麻の宇宙色の瞳を睨み付けた。
「……お前に、任せていいのか……?」
「…………」
「本当に……伸を……伸を、これ以上哀しませないって、約束するか……?」
「…………」
「当麻……!!」
「…………」
「当麻!!」
「遼、もし、オレのやることが気に入らなければ、いくらでもオレを殴ってくれていい」
「……!」
「オレの所為で、伸が哀しむと、お前が判断したなら、オレを気の済むまで殴れ」
「…………」
遼のきつく握りしめられた拳から、ゆっくりと力が抜けていった。
「……」
当麻は、いつだって伸を護ろうとしている。
いつも、いつも、どんな時も、伸の幸せを考えている。
ちらりと伸を見て、遼はそのまま伸に背を向けた。
伸は、走り去っていく遼の背中が雨に煙って見えなくなるまで、ずっと立ちすくんだまま遼を見つめていた。

 

――――――「伸、それ返してくれないか?」
遼の姿がすっかり見えなくなってから、当麻がようやく口を開いた。
「それはオレの鎧珠だろ」
「…………」
「返してくれ」
「……どうして?」
「…………」
「どうして、鎧珠が必要なの?」
「その中に、オレの欲しいものがある」
「……欲しいもの?」
伸がそっと顔をあげて当麻を見た。
「そうだ。その中に、オレのなくした大切なものが詰まってる。それは、オレが絶対手放しちゃいけなかった大切なものだ」
「何言ってるの……大切なものなんかここにはない。……言ったろう、君がなくしたものは、もういらない記憶だって……もう、必要ないよ」
「……何故?」
「この鎧珠は光を失った。君の記憶は封印されたんだ。使命が終わったから。もう、戦いの記憶を持ち続けていなくてよくなったから……」
「だから、お前が代わりに持ってるって言うのか?」
当麻が一歩、伸に近づいた。
「……思いださなくて……いいじゃないか……」
「伸……」
「以前、当麻は言った。過去の記憶なんていらないって……自分だって戦いに疲れていたんだって……やっと、解放されたのに……どうして……」
少しだけ淡い宇宙の色の瞳。
本当の羽柴当麻の瞳。
年相応の幼い笑顔。
守るべきもの。
うつむいた伸の髪から雨の滴が滴り落ちた。

 

「伸、オレ、実はすごいやきもち妬きなんだ。知ってたか?」
「……え?」
突然何を言いだすのだろうと、伸は怪訝な顔をして当麻を見上げた。
「オレ、今、ある人物にすごい嫉妬してる。誰だか解るか?」
「……そんなの……解るわけないだろう……」
伸の言葉に口の端で笑い、当麻は更に言った。
「もし、お前が一発で当てられたら、鎧珠返さなくていいぞ。その代わり間違ったらおとなしく返してくれ」
「……当麻……?」
「誰だと思う?」
「……」
伸は当麻の真意を探ろうと、じっと当麻を伺った。
「何でもいいから言ってみろよ。例えば、お前が今、一番必要としている奴でいいから」
まるで、遊んでいるような口調で当麻は言う。

一番必要としている、誰か……?
伸は微かに首を振った。
そんなもの望めるわけない。
記憶に残っている、あの言葉も、あの眼差しも、もう永遠に戻ってはこないのだから。
これは、望んではいけない願いなのだから。
愛しい兄様と、優しい天城と、すべての天空の記憶を持ちながらも、変わらぬ想いで自分を見つめてくれる、大切な……大切な……

「タイムオーバーだな」
「…………」
伸が答えない事など当の昔に予測していたように、当麻は言った。
「約束だ。返してもらうぞ」
「ダメだよ」
のばされた当麻の手から逃れようと、伸はすっと身を引いた。
「お前、約束破る気か?!」
「何言ってんだよ。そっちが勝手に言いだした事だろ!」
「お前、反論してないだろ。その時点で約束は成立したの!」
「そんなの知らないよ!!」
「おとなしく返せってば!!」
「嫌だって……!!」
「……あっ!!」
しばらく鎧珠を奪い合っていた2人は、ずっと降り続いていた雨の所為で、かなりぬかるんでいた地面に足を取られ、とうとうもつれ合うように倒れ込んだ。
「…………!!」
伸の手の中から鎧珠が離れ、ポチャンと地面に落ちて、泥を跳ね上げる。
「さっきさ、秀に言われたんだ」
泥の中に倒れたまま、起きあがろうともせずに当麻が言った。
「お前の事、理解してやれるのは記憶バンクのオレだけなんだってさ」
「…………!!」
「悔しいよな。今のオレじゃ駄目だって言われたようなものじゃないか」
「……当麻……」
「悔しくて仕方ない。お前の事、何でも解ってやりたいのに、お前の事が解らないなんて、悔しくて仕方ない」
「…………」
「オレ、思いだしたいんだ。お前の事、全部。何もかも。お前が辛い時、すぐ解ってやれるように。すぐお前の所へ飛んでこれるように」
「……どうして……そんな……」
「言ったろう、お前の為なら何でもしてやるって。嘘じゃないぞ。……実はさっき遼に先越されてちょっと焦った」
「……何で……何で、そんな事言うんだよ。僕の願いなんて訊かなくていいのに……」
「…………」
「僕は、酷い奴だ。君が傷つく事を知っていて、平気で酷いことを言える」
「…………」
「僕は、君に酷い事をした。一生かかっても償えないほど酷い事をした」
「…………」
「君は、僕を嫌って当然なのに……」
「……んな事、ないぞ」
そっと当麻が言った。
「お前がたとえオレにどんな事を言おうと、お前はその何倍もの幸せをオレにくれる」
「…………」
「お前がオレにくれる幸せに比べたら、そんなものきっと些細な事だ」
「君は覚えてないから、そんな事が言えるんだ」
「覚えてたって、同じ事を言うさ。お前がそばにいるだけで、オレがどれだけ幸せか、お前全然気付いてないだろ」
「……当麻……」
「……オレ……さ、あの事故の時、お前の無事な姿を見たとたん、もう死んでもいいかなって一瞬思った」
「当麻!!」
「でも、死ねなかった。やっぱり死ぬのは嫌だった。オレがここで死んじまったら、オレのいなくなった後、お前が辛い思いをした時、そばにいてやれないじゃないか……お前を独りで泣かせるなんて、絶対嫌だった」
「…………」
「なんか、オレ、自分が死ぬ時、お前を道連れにしそうな気がする」
「…………!!」
「冗談だよ、冗談。もし、そんな事になったら、思いっ切り抵抗していいからな」

そう言って、当麻は何でもなさそうに笑う。
僕の願いを覚えていなくても。
斎の最期を覚えていなくても。
平気な顔をして、同じ事を言う。
いつも、いつも……

例え、何度同じ場面がこようとも、きっと同じ事をする。
罪の重さも何も関係ない程。
この笑顔が、愛しいと思えるから。
大切な人を、護る為に……
この世のすべての哀しみから、護る為に……
この手で、護り続ける為に…………

 

伸の瞳から、ようやくずっと我慢していた涙が一滴こぼれ落ちた。
当麻は、愛し気に伸を見つめ、そっとその涙を拭った。
「綺麗だよな、お前の涙って」
「……何……言ってんだよ……」
「もったいないから、おれ以外の誰にも見せるんじゃないぞ」
「……!!」
伸が小さく息を呑んだ。
「好きだな、お前の泣き顔」
「……」
「泣き顔だけじゃない。怒った顔も、拗ねた顔も、困った顔も……みんな好きだな」
「……当麻……」
「……でも、一番見たいのは、お前の笑った顔だよ」
「…………」
「笑っている、本当のお前の顔が、一番好きだよ」
「……当麻……」
「本当に、一番好きだよ」
そう言って当麻は眩しそうに伸を見つめた。

本当に当麻はいつもいつも冗談のような顔をして、魔法をかける。
当麻の言葉で心が軽くなる。
愛しい、愛しい、魔法をかける。

 

「これ、返してもらうよ、伸」
そう言って、当麻は地面に転がったままの自分の鎧珠を取り上げた。
「オレ、これから長い夢を見る。幸せな長い長い夢を見るんだ」
「……幸せな……夢……?」
「ああ、そうだよ。」
「何が幸せなんだよ。その中に詰まってる記憶は、戦いの辛い記憶ばかりじゃないか……何が幸せなんだよ……」
「幸せだよ。だって、どの瞬間にもお前がいるじゃないか」
「…………!!」
「どの時代の、どの場所にもお前がいる。こんな幸せな夢はないよ。どの瞬間も、今のお前に繋がっている。これは今のお前を創りだしたあらゆる過去の記憶なんだから。オレはそこでずっとずっとお前と共にいられる。お前の魂の元があらゆる場所にあるんだ。幸せで息がつまりそうだよ」
「当麻……」
当麻の手の中で、微かに鎧珠が光りだした。
「……なあ、伸」
そっと当麻が言った。
「オレ、この夢から覚めた時、一番はじめにお前の顔が見たい。ずっとそばにいてくれなんて我が儘なこと言わないから、オレが目を覚ました時だけ、そばにいてくれないか……?」
当麻が探るように伸を見た。
少し幼いその顔は、紛れもなく当麻の顔で。
どうしようもない程、当麻そのもので。
「わかったよ、当麻。約束する」
伸が頷くと、当麻はやっと安心したように笑った。

 

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