宇宙と海の狭間−第2章:海−(3)

「相変わらず遅い起床だな」
午前11時過ぎ、やっと居間へ顔をだした当麻に、征士が冷たい視線を投げかけた。
「仕方ないだろ。昨夜は朝方まで調べものしてたんだから……」
征士の読んでいる新聞を後ろから覗き込みながら、当麻が言う。
結局、あの後、パスワード探しに明け暮れ、やっと当麻が部屋へ戻ったのは、もう空が明るくなる頃だった。
どうやっても思い出せなかったパスワード。最後まで付き合ってくれた伸は、少し寂しそうに、動かないパソコン画面を見つめていた。
その時の伸の横顔が、頭から離れない。
ベッドに潜り込んでからも、当麻はその為、なかなか寝付けなかったのだ。

「そうそう、伸が、起きたんならキッチンへ来いと言っていたぞ。朝食を用意してくれているはずだ」
「あいつ、もう起きてるのか?」
「当たり前だ。今朝は私より早くに起きていたぞ」
征士の言葉に、居間を出ようとしていた当麻の動きが止まった。
「……何て?」
「…………?」
「あいつ、何時に起きてたって言った? 征士」
「さあ、よくは知らんが、私が起きた6時頃には既に起きて、キッチンで何かやっていたぞ」
「…………」
当麻の眉がすっと寄せられた。
「どうかしたのか? 当麻」
ソファでテレビを見ていた遼が振り返り、訊いてきた。
「遼、今朝の伸の様子、どうだった?」
「どう……って……別に、いつもと変わらなかったよ……ちょっと元気ないかなと思って訊いたら、寝不足気味だって言ってたけど」
「…………」
「当麻?」
「寝不足どころか、あいつ昨日から一睡もしてないぞ」
「えっ?」
驚いて遼が聞き返すと、秀も読んでいた雑誌から顔をあげ、無言で当麻を見た。
「あいつ、夕べからオレと一緒に書斎に籠もって調べものの手伝いをしてくれてたんだ」
「じゃあ、そのまま全然寝てないのか?」
「…………」
遼が起きだした時、伸はいつもと変わらない笑顔で朝食の用意をしていた。
全員分のパンを焼き、コーンスープを温め、サラダを盛る。
思い返してみると、心なしかその顔色は少し悪かったかもしれないが、気にしなければ気付かない程度で、伸はいつも以上に、よく動き回っていた。
「…………」
当麻は無言で居間を後にし、キッチンへと向かった。
そうなのだ。伸がいつも以上によく動き回る理由も、明るく見せようと笑う理由も、すべてはただひとつ。
当麻は、顔をしかめ、きつく唇を噛んだ。

 

――――――「あ、当麻、起きたんだ。パン焼くけど食べる?」
キッチンへ行くと、伸が笑顔で振り返った。
「伸、お前、昨日から寝てないんだろ。大丈夫なのか?」
「……えっ?」
当麻の言葉に、一瞬、伸の周りを張りつめた空気が覆った。
「無理……してないか?」
「……そんな事はないよ。寝るタイミング逃すと眠れないんだよ。別に全然平気」
そう言って、伸は笑う。
まるで、何でもないと自分に言い聞かせるように。
当麻の胸がズキンと痛んだ。

伸の焼いてくれたパンをかじりながら、当麻はじっと伸を見つめていた。
洗った食器をかたし、水回りをきれいにする。
使い終わったバターの缶を冷蔵庫にしまうと、食後のコーヒーを沸かす。
いつもと同じ動きなのに……
当麻は胸の痛みを押さえ込み、伸の手からコーヒーを受け取ると、コクリと一口飲んだ。
外は雨。ここ2・3日ずっと、降っては止みのぐずついた天気が続いている。
「これで、明日も雨だったら、部屋にロープ張って洗濯物干すしかないよね」
伸が窓の外を眺めながら、独り言のようにつぶやいた。
乾燥機を嫌う伸は、必ず洗濯物を外のベランダに干しに行く。
伸は、太陽の匂いのするシーツが好きだと言って、よく遼や秀に手伝わせて干した、真っ白なシーツが風に翻るのを、飽きもせず眺めていた。
降り続く雨。いつまでも止まない。

 

「……ところで、何作ってんの? それ」
コーヒーを飲む当麻の隣で、冷蔵庫からラップにくるんだ生地を取り出し、打ち粉をふった台の上に乗せている伸に向かって当麻が訊いた。
「君の退院祝いにパイを焼こうと思って」
言われてみると、テーブルの上には大きなガラス製のパイ皿が置いてある。
「作り損ねたアップルパイでも焼くのか?」
何の気なしに当麻がそう訊くと、麺棒を持つ伸の手がぎこちなく止まった。
「……まさか。しばらくリンゴは見たくないよ」
少し強ばった表情でそう言うと、伸は再び生地を伸ばしだした。

脳裏に蘇る、道路に転々と転がっていくリンゴの鮮やかな赤い色。
突然降り出した雨。
雨の中の伸。伸の涙。

何をやっているのだ自分は、と、心の中で舌打ちし、当麻は作業を再開した伸のそばに立って手元を覗き込んだ。
「何のパイなんだ?それじゃあ」
なるべく明るい口調で訊いてみる。
「パンプキンパイだよ。夕べ使ったかぼちゃがまだ沢山残っているから」
「かぼちゃ? 征士の好物じゃないか」
「そうだね」
「……お前、なにげに征士のリクエスト聞くこと多くないか? 朝食だって3日に1回は奴のリクエストで和風の献立になるじゃないか」
「そうだっけ?」
拗ねた顔の当麻を見て、伸が軽く笑った。
また、当麻の胸が痛んだ。
笑っているのに。
伸はいつもと変わらず笑っているのに、当麻にはそれが、伸が必死で泣くのをこらえているようにしか見えなかった。
昨夜の方がまだましだ。
少なくとも、昨夜の伸は、泣くのをこらえていても、かわりに笑ってなどいなかった。

「何か手伝おうか?」
このままキッチンを出ていきたくなくて、この場に残る理由をこじつけるために、当麻が言った。
「……えっ? でも、これ君の退院祝いなんだよ。当の本人が手伝ってどうするのさ」
「いいだろ。オレが手伝いたいって言ってるんだから。何すればいい?……おっ、かぼちゃ、美味しそうだな」
「…………」
伸の言葉を無視して、何がなんでも手伝おうとする当麻の態度に、仕方なく伸は鍋の中の多少煮くずれたかぼちゃの甘煮を取り出した。
「じゃ、これ裏ごししてもらおうかな」
「まかしとけって」
伸の手から、かぼちゃを乗せた万能こし器と木ベラを受け取ると、当麻は嬉しそうに笑った。
柔らかく煮くずれたかぼちゃはそんなに力を入れなくても大丈夫で、木ベラで網の表面をこすりながら、当麻は、周りに広がる美味しそうな匂いに満足気な微笑みを浮かべる。
綺麗に裏ごしされたかぼちゃに、生クリームやレモン汁を加えている伸は、さっきより少しだけ楽そうに見えた。
「だけどいいよな。こんだけいろんな料理作れたら、お前、絶対栄養失調とか、かかりそうにないもんな」
「そうかな?」
麺棒で薄くのばした生地をパイ皿に敷きながら伸が答える。
「以前、オレ、独り暮らしみたいなもんだったけど、食事ほとんどインスタントだったぜ」
「……君、自称グルメだとか言ってなかったっけ」
「いや、舌は肥えてたつもりなんだけど……でも、人が作った料理で初めて本気で美味いと思ったのは、お前の料理だったよ」
はみだしたパイ生地を裁ち落としていた伸が、呆れた顔で当麻を見た。
「……それ、他の料理知らなかっただけじゃないの?」
「そんなことはないぞ。オレのおふくろがたまに帰ってきた時、なんか評判の店だとか、高級レストランだとかに連れてってくれたけど、別に美味いことは美味いが、そんな感動する程じゃなかったし」
「そういうものなのかな……」
「そうそう、オレにとっては伸ちゃんの料理が一番」
「おだてても何もでないよ」
伸が横目で当麻を見ると、当麻は楽しそうに裏ごししたかぼちゃの甘煮を木ベラでまだ掻き回し続けていた。
「ほら、昔のマンガでプロポーズの言葉にこんなのあっただろ。“オレのために一生飯を作ってくれ”」
「…………」
「なあ、伸。オレのために一生飯を作ってくれる気、ないか?」
「……は?」
「は? じゃないだろ。は?じゃ。人が一大決心して、こんなに真剣にプロポーズしてるってのに」
「バカか、君は」
そう言って顔をあげた伸が、次の瞬間、声をたてて笑いだした。
「…………笑った……」
「……えっ?」
「……やっと笑った……」
「…………」
嬉しそうな当麻の顔を見て、伸はひとつ瞬きをすると、すっと視線をそらした。
笑った為、少しだけ紅潮した伸の頬を見て、当麻は眩しそうに目を細める。
「……まったく、バカなことばかり言ってないで、そこのグラニュー糖取ってよ」
「へいへい」
わざとぶっきらぼうに言う、伸の命令口調に答え、当麻はすっと立ち上がると、右手の棚の中央に置いてあったグラニュー糖のはいった容器に手を伸ばした。
「おっと……」
その時、きれいに並べられたあらゆる調味料の瓶の中、一際いい香りを放っていたブランデーの小瓶が、のばした当麻の肘にあたり、ぐらりと揺れた。
「……・あ!!」
奇妙な程ゆっくりした動きで、ブランデーの小瓶が、当麻と伸の目の前を放物線を描き、床へ落ちていく。
「…………!!」
カシャーン……と、やけに響きの良い音をさせて小瓶が割れ、あたりにパッと芳醇な香りが広がった。
「悪い……ごめん」
「いいよ、大丈夫。危ないから下がって」
当麻より早く伸はさっとしゃがみ込み、割れたブランデーの瓶の欠片を拾いだした。
細かく砕けた硝子の破片を、無言で伸は拾い続ける。
「気をつけろよ」
普段からは考えられない程、やけに無造作に硝子の破片を持つ伸の手つきを見て、当麻が心配気に声をかけた時、一瞬伸の表情が引きつった。
「…………!!」
「どうした!? 手、切ったのか?」
慌ててしゃがみ込んだ当麻の目の前で、伸の押さえた手のひらから真っ赤な血が盛り上がってきた。
「大丈夫か!?」
赤い糸のような血が腕を伝っていく。
おもわず当麻は、伸の腕を掴み、傷口を口に含んだ。
伸の血は鉄の味がした。
「ちょっと……当麻! 何やってんだよ!!」
驚いて伸が掴まれた腕をひっこめようとしたが、当麻はそのまま伸の腕の付け根をきつく掴んだまま、頭のバンダナをはずし、包帯代わりにして傷口を縛りだした。
当麻の手やズボンの上に滴り落ちた血が滲んで、どす黒い赤い花を咲かせている。
伸は真っ青になって、自分の赤い血を見つめた。
「……当麻! 大丈夫だから離して!!」
伸の声は悲鳴に近かった。
「動くな。よけい出血するぞ」
「当麻!! ……君が汚れるよ。僕なんかの血で、君が汚れることはない!!」
「……!?」
弾かれたように顔をあげ、当麻はじっと伸を見つめた。
「…………」
腕を掴まれたまま、当麻から逃げるように、伸が視線をそらし、うつむいた時、秀が入り口に顔をだした。
「何か割れる音聞こえたけど、大丈夫か?」
「秀、いいところへ来た。そこの救急箱取ってくれ」
秀の手から、救急箱を受け取り、当麻はおとなしくなった伸を椅子に座らせ、傷口の消毒を始めた。
「ちょっとしみるぞ」
「……ん…………」
脱脂綿にオキシドールを含ませ、傷口にあてる。
伸は少し顔をしかめたが、そのままじっと当麻にされるまま、おとなしくしていた。
遅れて駆け込んできた遼と一緒に、秀は割れた瓶の欠片を拾い集め、ゴミ袋にまとめると、床を綺麗に拭いた。
征士が換気扇を廻し、窓を開けると、とたんに湿った雨の匂いがブランデーの匂いに取って代わる。
当麻の耳に、雨の音が耳障りに響いてきた。
「…………伸……」
「…………」
伸にしか聞こえないように、小さな声で当麻が言った。
「……何で、僕なんかの血……なんだ……?」
「……え……」
当麻が、もの言いたげに伸を見つめる。少しだけ淡い宇宙の色の瞳で。
「……別に、深い意味はないよ。動転してとっさに口から出ただけ。変に揚げ足とらないでよ」
そう言って、伸は笑った。
再び、当麻の胸がズキンと痛んだ。

 

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