宇宙と海の狭間−第2章:海−(2)

「あ、伸、ちょっといいか?」
チン、と受話器を置いて、征士が階段を降りてきた伸に声をかけた。
「何? 征士。」
「今、病院から連絡があって、当麻の退院許可がでたんだ。お前が迎えに行くのが、奴も一番喜ぶだろう。行ってくれないか?」
「…………僕が?」
いつもなら、言われるまでもなく、そのての用事は進んでこなすはずの伸が、意外にも難色を示した。
「……? どうかしたのか?」
伸の態度に征士が不審気な目をむける。
「…………あの……」
言いよどむ伸の態度をみかねてか、突然、2人の間に横から秀が割り込んできた。
「いいよ。オレが行くよ。」
「秀……」
「どうせ暇だし、オレが行ってくるよ。伸は当麻の為に、食事でも作って待っててやれよ」
「秀……でも……あの……」
「んじゃ、行って来るわ」
多少ぶっきらぼうに、そう言うと、秀はそのまま上着をひっかけ、雨の中、傘をさしてバス停まで走って行ってしまった。
「…………」
秀が開け放したままにしたドアを代わりに閉め、征士は玄関口で伸を振り返り、言った。
「雨……が」
「……え?」
「雨が……止まないな。いつまでも」
「…………そう……だね。……めずらしいよね。こんなにも天気の悪い日が続くなんて……」
「…………」
征士のもの言いたげな目から視線をそらし、伸はそのままキッチンへと引っ込んだ。

 

秀は何も言わない。
夕べのことも、何も。
でも、秀の全身から、言葉にならない気持ちが自分に向かっているのが解る。

心配させてしまった。
あんなに、いつも元気な彼を不機嫌にさせる程。

「ごめんね……」

誰に言うでもなくつぶやくが、そんな謝罪の言葉など何の足しにもならない。
伸は流し台の縁に手をかけ、しゃがみ込んだ。
吐き気が止まらない。
自分自身に吐き気がする。
「……当……麻……」
伸のつぶやきは、もう居ない人へのつぶやきなのか。
もう、伸自身にも解らなかった。

 

――――――昼過ぎ、まだ降り続く雨の中、当麻が戻ってきた。
開口一番、病院の飯は不味いだの、ベッドが硬くて腰が痛いだの、玄関口に迎えに出た遼に言いながら、当麻は真っ直ぐ伸のいるキッチンへとやって来た。
「冷たいな、伸ちゃんは。お迎え待ってたのに」
荷物を担いだまま、当麻が伸の背中に声をかけた。
「ごめんね。手が放せなかったから……」
振り向きもせず伸が言う。
キッチンには伸の手作りの食事がきちんと並べられ、コンロに掛けられた厚手の鍋からは美味しそうな匂いが漂っている。
「おっ、愛しい当麻君の為に、愛を込めて料理してくれたんだ」
おどけて言う当麻を横目で見ながら、伸が言った。
「ちょっと違うよ、当麻。愛しい当麻君の為にじゃなく、お腹をすかせた可哀想な当麻の為に、仕方なく料理してたんだ」
「可愛い気のない……」
ぶつぶつ文句を言いながら、すっと伸のそばへ寄り、当麻は鍋の中身を覗き込んだ。
「ビーフシチューか。ありがとな、伸」
嬉しそうに横に立つ伸の方を振り向いた当麻の表情が、その時少し曇った。
「…………」
うつむき加減の伸の顔は、心なしか青ざめて見える。
「……伸……?」
すっと、伸の顎に手を掛け、上を向かせようとした当麻は、次の瞬間、意外なほどの抵抗にあった。
差し出した手を振り払い、一歩後ずさると、伸は少しだけ強ばった表情で当麻を見上げた。
「…………何? ……当麻」
「…………」
取り繕うように向けられた伸の笑顔は、ほんの少し辛そうに見えた。
「……何でもない……」
当麻がそう言うと、、伸はそのまますっと離れ、テーブルのセッティングを始めた。
「荷物置いてきなよ。じき、食事できるから」
そう言った伸は、もういつもの伸と変わらなかった。

 

――――――久しぶりの5人そろっての食事は、不自然な程にぎやかだった。
やっぱり病院食とは比べ物にならないと、当麻は嬉しそうに何度もお代わりをした。
征士も好物のカボチャの煮付けを喜んで食べていたし、秀と遼も、食事はやはり5人そろった方が何倍も美味しいとはしゃいでいた。
伸は……
伸は、パタパタとよく動き回った。
当麻のお代わりをついでやり、秀の為にドレッシングを調合してやり、皆の世話を焼きながら、忙しそうに立ち回った。
微笑みを絶やさないままで。
そんな伸の様子を、そっと伺うように当麻がじっと見つめていた。

 

――――――夕食後、本を読んだり、テレビを見たり、それぞれがくつろいだ時間を過ごしている時、当麻は1人書斎でパソコンと向き合っていた。
デスクの上には大量のメモ書きやノート、資料などが今にも崩れそうになって積まれている。
皆は退院したてなのだからと、口を酸っぱくして早めに休むことを進めたのだが、当の本人は病院で腐るほど寝たので、さすがに眠る気になれないと言い、そのまま書斎に籠もってしまったのだ。
腕を組んで、考え込みながら、ずっと当麻はパソコンのディスプレイを睨み付けている。

そのまま、どれ程の時間が過ぎたのか、遠慮がちなノックの音と共に、伸が書斎に顔をだした。
「当麻、まだ寝ないのかい?」
さすがに夜も更けてきて、早い者はすでに熟睡体勢にはいっている時間帯だ。
「……何やってるの……?」
パソコンの前でじっと動かない当麻を心配して、伸はドアを閉じると、静かに当麻の後ろに立った。
「なあ、伸。お前、解るか?」
まだじっと画面を見つめたまま、当麻が口を開いた。
「何を?」
「パスワード」
「……?」
「どうしても思いだせないんだ」
回転椅子を反転させて伸の方を振り返り、当麻が言った。
「……何のデータ?」
「解らん」
「……は?」
パスワード入力画面で止まったままのウィンドウを見て、伸は言った。
「何で思いだせないんだよ。君が作ったものなんだろ?」
「そうなんだが……思いだせないんだ。何のデータだったのかも、何のパスワードで入りこむのかも。ただ、余程大事なものなのか、二重にロックがかかっていて、2つのパスワードがそろわないとプログラムが起動しないみたいなんだ」
デスクの上に散らばった大量のメモや資料を見て、伸は当麻が何処かにパスワードを書き残していないのか探し回ったのだと理解した。
「……何でちゃんと書き留めとかなかったんだよ」
「いや、忘れるなんて思わなかったもので……」
「…………」
消えた過去と共に、多少混乱している当麻の記憶。
今まで忘れるなんて事あり得なかったいくつもの事が、当麻の頭の中から姿を消していく。
でも、それが普通なのかもしれない。
記憶バンクでなくなった当麻は、やっと普通の人間としての、普通の記憶を持ったのだ。
無言で動かないパソコンの画面を見つめる伸を見て、当麻が言った。
「……伸、のど乾かないか?」
「素直にコーヒー煎れてくれって言えばいいのに」
まだしばらくは悩んでいるであろう当麻の為に、多少苦笑しながら、伸はコーヒーを煎れてやり、そのまま当麻のパスワード探しに協力してやることにした。

 

「普通、名前とか、生年月日なんかよく使うよね。あと電話番号とか……」
「全部入れてみた」
「ご両親のは?」
「まさか使ってないとは思ったが、念の為、それも試した」
「ふ――ん」
資料をパラパラとめくる伸の手がふと止まった。
当麻の使いそうなパスワード。
思いだせないパスワード。
「……当麻……もしかして……」
「ん?」
消えてしまった過去の記憶の中に、きっとそのパスワードはあるのだ。
天城だった時の記憶か、雫だった時の記憶か。
「…………」
「どうした?伸……?」
「………………」
きっと、それはもう思いださなくてもいい事。
思いだして辛い記憶なら、なくしていいものなのだ。

もう、天城ではなくなった当麻。
それは、ほんの少しの違いだった。
気をつけなければ気付かないほどの。いや、気をつけてみても、そんなことはないと言われればそれまでの。
考え込む時、眉を寄せる癖も、箸の持ち方も、うっとおしそうに前髪を掻き上げる仕草も、何一つ変わらない。
ただ、笑う顔がほんの少しだけ幼く見える。
目の色がほんの少しだけ淡く見える。
違わないと言われればそれまでの、ほんの小さな違い。
もう、天城の記憶も、雫の記憶もない当麻。

「伸……!? どうしたんだ?」
「……えっ? ……どうしたって……」
いきなり、当麻が伸の腕を掴んで立ち上がった。
「……当麻?」
「お前……今……」
「…………?」
一瞬、伸が泣き出すのかと思った。
「……何? 当麻……?」
そう言った伸は泣いてなどいなかったのに。
「……当麻? どうかした?」
「…………」
「当麻?」
「……何でもない」
「変なの。」
そう言った伸の表情を見て、当麻の胸がズキンと痛んだ。

 

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