宇宙と海の狭間−第2章:海−(1)

家に着いてすぐ、伸は遼の猛反対を押し切って、いきなり家中の掃除をはじめた。
何かしていないと自分自身どうにかなりそうで、伸は必死になって、何も考えずに済むように、ひたすら身体を動かした。
「伸、無茶だよ。お前、一体どうしたんだよ」
遼は伸の手伝いをしながら、心配そうに何度もそう言った。

事故の事。消えてしまった記憶の事。
当麻のいつもと違う表情が、伸をわけもなく不安にさせる。
だが、こんな不安を感じるのは、自分の我が儘の所為。
当麻が、当麻として今後生きていけるのなら、これは喜ぶべき事なのだ。
でも、考えるだけで胸が苦しくなる。

以前、当麻は言った。
“俺の前でだけ泣けよ”
“辛いときはそばにいてやる。オレは、お前をおいていったりはしない”
あの言葉は、当麻の中に天城がいたから、逝ってしまった烈火の事を覚えていたからこそ言った言葉。
では、あの時の当麻はもういない。
何処にもいない。

きっと自分は恐れているのだ。当麻に忘れ去られる事を。
何があっても、当麻だけは覚えていてくれる。何もかも忘れずにいてくれる。
狂ってしまった水凪の心も。烈火の想いも。
当麻だけは解ってくれる。
すべて解っていて、それでもそばにいてくれる。

伸はおもわず溢れそうになった涙をぐっとこらえた。

もう、泣かない。
決して、誰の前でも泣かない。
あの時の当麻は、もういないのだから。

外はまだ雨が降り続いていた。

 

――――――「当麻って、ホントに伸が好きなんだな」
遼がぽつりと言った。
「……えっ?」
そろそろ戻ってくる征士と秀の為に、食事の用意をしていた伸の手が、おもわず止まる。
振り向いた目に映る遼は、少しだけバツの悪そうな顔をしていた。
「何、それ。どういうこと? 遼」
「だってさ、あいつ、自分の身体の事なんてお構いなしに、伸を護ってやってるんだよな。いつも」
「…………」
「どんな時でも、お前を護れる位置に自然といるように気をつけてる。……オレだって伸を護ってやりたいのに…………いつも間に合わなくて……」
まっすぐな遼の瞳。
「ごめんね。遼。ありがとう」
もっと、気の利いた言葉を返したいのに。今の伸には何も言うことが出来なかった。
「ごめんね」

 

降り続く雨の中、征士と秀が当麻の検査結果を持って帰ってきた。
脳波にも異常はみられす、経過も良好。
霧島医師が感心する程、当麻の回復は早かった。
この調子だと、明日明後日には、もう退院してもいいだろうとの報告を聞きながら、ひとり少ない食卓で早めの夕食を取ると、伸は早々に部屋にひきあげた。

さすがに昼間の無理がたたってか、あちこち痛む身体をベッドの上に投げ出し、伸は天井を見上げた。
手の中には、当麻の鎧珠。
もう光らない。何のパワーも感じない。
伸は疲れたようにため息をつくと、そのまま、深い眠りに落ちていった。

 

――――――雨の音に、ふと伸は顔をあげた。
此処は何処だろう。
そこは、とてもよく知っているような、でも初めて見るような景色だった。
周りは山に囲まれ、右手には小さな祠が見える。
眼下に広がるのは、かなり広い平野に流れる一本の河と、まばらに建っている木造の建築物。
しかも、火の手が上がっている。
倒れた家屋。なぎ倒された木々。

戦場……だ。
いつの時代だろう。
伸は黒く煙る眼下の村を見下ろしながら、心の中でつぶやくと、視線を自分の両手におとした。
小さな細い指。白い手甲をしたその手は、少女のものか。
ああ、斎だ。
ようやく伸は自分の名前を思い出した。

「……い……つき……」
微かに自分を呼ぶ声に振り向くと、蒼い鎧を着た青年が剣を杖代わりにして、足を引きずりながらこちらへ向かって来るのが見えた。
「雫兄様!」
伸の意志に反して、斎は愛しい兄の名を呼ぶと、雫の元に駆け寄った。

ああ……雫。
……そうだ。雫兄様だ。あの雨の中の青年は……

「大丈夫ですか? 兄様」
斎の姿を見つけたとたん、安心して崩れ落ちた雫を支え、斎は雫の身体中にある刀創に手を当てた。
「もう、無駄だ。斎」
「……兄様。」
斎の細い指が触れた部分だけ、すっと血が止まってゆく。それでも尚、追いつかない程、雫の身体中の無数の刀傷からは、真っ赤な血が溢れ続けていた。
「…………柳が……散った……」
雫が重い口を開いた。
柳。名前のままに、柔軟な優しい心と、強い意志を持った烈火の戦士。
自分の事を好きだと言ってくれた彼を、斎はいつも哀しげに見つめていた。
届かない想い。報われない恋。
それでも構わないからと、柳は笑っていった。
「…………」
斎は何も言わず、ゆっくりと頷いた。
雫に言われるまでもなく、斎は知っていたのだ。あの明るい瞳の青年が、逝ってしまった事を。
最期まで斎の事を気にしながら、それでも戦いに散った事を。

柳が散った。
紅も禅ももういない。
彼らは、最期の力を振り絞って、結界を張った。
一時だけ。
次の転生まで、なんとか保ってくれるよう、願いを込めて。

触れた指先から、雫の体温がどんどん下がっていくのが感じられた。
もう、手の施しようがないことを覚り、雫はそれでも此処まで来てくれたのだ。
大切な唯ひとりの妹の為に。
「済まない、斎。……お前を残していくオレを許して欲しい」
雫の瞳が愛し気に斎を見つめた。
いつもいつも温かい愛情で自分を包んでくれた兄。雫。
斎は何かを決意したように、ひとつ瞬きをして、雫をその澄んだ瞳で見つめ返した。
「……兄様、斎の最後の我が儘を訊いて下さい」
「……斎……?」
「私の最後の我が儘です。兄様……私を殺して下さい」
「…………!!」
雫の瞳が驚きに見開かれた。

……エッ……?

「兄様の手で、どうぞ私を殺して下さい」
「……斎…………何を言ってる……?」

…………ソウダ……ナニヲイッテルンダ…………?

「皆が逝ってしまって、私独りで残りの生を生き抜く自信がありません。自ら命を絶ってしまうと転生出来ないのなら、次の世でまた兄様に逢えるように、私をその手で殺して下さい」

チョット……チョット……マテ……イッタイ……ナニヲイッテルンダ……? ジブンハ。

「兄様に殺されることが、私の願いです」

ナンテコトヲ、イッテルンダ……ジブンハ……!!

ナンテコトヲ…………・!!!!

 

声にならない悲鳴をあげて伸は飛び起きた。
背中を冷たいものが走る。
身体が震えだし、伸はおもわず吐き気を抑えるように、両手で口を覆った。

何を……言った? 僕は。
一体、なんて事を頼んだのだ。僕は……彼に……!?

「伸!? どうした?」
隣のベッドで寝ていた秀が、異常を感じて目を覚ました。
「……伸?」

なんて事を……言ってしまったのだ。僕は……よりによって彼に。
雫に何を頼んで……!!

「……おい!? ……伸?」

雫は天空だ。自分達の記憶バンクだ。
そんな人に頼んだら、どうなるか解らなかったのか? 自分は……!?

“斎……すまない……オレを許してくれ……”
“お前の未来を奪った……オレを……”
“消えないんだ……お前の血が……どんなに洗っても……消えないんだ……”

「伸!? しっかりしろ!!……ちょっと待て! ここで吐くなよ!! ……おい!伸!!」
秀は無理矢理、伸を引きずるようにして階下へ連れ降り、洗面台にたどり着くと、頭から水をぶっかけた。
「…………!!」
勢いよく周りに飛び散る水飛沫の中、伸の口から、嗚咽がもれる。
必死で背中をさすってやりながら、秀は青ざめた伸の横顔を、覗き込んだ。
「……大丈夫か? 伸」
伸の耳に、秀の声がやけに遠く聞こえた。

 

雫は記憶バンクだ。
次の世も、その次の世も、覚えていたのだろう、あの事を。
普通の人間なら、たとえ人を殺しても、その一生が終われば、その時の記憶も意識も残らない。
だが、彼は記憶バンクだ。
妹殺しの罪を、一生どころか永遠に背負う事になる。
それがたとえ彼女が望んだ事だったとしても。
繰り返し、繰り返し、転生の度に己の罪を思い出す。
どんなに洗っても永遠に消えない、妹の血を。

「…………」
「おい、伸。大丈夫か? 少しは落ち着いたか?」
流しっぱなしの水を止め、タオルを手渡しながら、秀が言った。
「…………吐き気がする……」
伸がつぶやく。
「事故の時の後遺症が今頃でたのかな?朝になったら病院行くか?」
「……違うんだ……そうじゃない……」
「…………?」
「自分のした事に、吐き気がして止まらないんだ」
「…………」

僕は最低の事をしてしまった。
一番頼んではいけない人に、一番頼んではいけない事をした。
天城も、当麻も、きっと覚えていたんだ。
なのに……
僕は……張本人の僕は、すべて忘れて……平気な顔をして……
知らないうちに甘えていたんだ。当麻が何も言わないから。
僕は……

記憶をなくした当麻。
あれは彼が望んだことだ。
それ程、辛かったんだ。
そこまで彼を追いつめたのは、他でもない僕だ。

もう……謝ることすらできない…………

自分で自分の身体をきつく抱きしめ、震えている伸を、秀はどうすることも出来ずに、じっと見つめていた。

 

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