宇宙と海の狭間−第1章:宇宙−(5)

「やっほー! 当麻。生きてるか?」
次の日の朝早く、秀の元気な声が病室のドアの向こうに聞こえた。
「……秀……?」
当麻のベッドの隣に簡易ベッドを用意してもらい、うとうとしていた伸は、急いで飛び起きると、慌てて病室のドアを開けた。
やけにテンションの高い、秀の態度が伸の顔をみてほころぶ。
「よ、大丈夫か? 伸。ちゃんと生きてて安心したよ」
そう言って笑った秀に続いて、着替えの入った紙袋を抱えた遼、花束を持った征士がどかどかと病室に入ってきた。
「なんだ、思ったより元気そうだな」
秀と征士が、ごそごそと起き出した当麻のそばへ駆け寄った。
「何言ってんだ。頭の包帯が目に入らんのか」
寝起きの悪さも手伝って、不機嫌そうに当麻が言う。
「ありがとね、遼」
遼から着替えを受け取り、伸が笑いかけると、遼は心配気に伸の顔を覗き込んだ。
「伸、お前は大丈夫なのか?」
「うん。当麻が庇ってくれたからね。外傷もほとんどないし、今日帰っても良いって許可ももらった。……ま、具合が悪くなったらすぐ報せろって釘さされたけどね」
伸が着替えを仕分けしながら、そう言うと、遼はほっと安心したように笑った。
「よかった……」
「おいおい、遼。オレの心配はしてくれないのか? お前」
「貴様は殺したって死なないだろう。心配するだけ無駄だ」
遼の代わりに、征士が冷たく言い放つと、当麻は不満そうにふくれっ面をしてみせた。

「征士、綺麗な花束だね。わざわざ買ってきたの?」
征士が所在なげに抱えていた、青と薄紫のデルフィニウムを中心にした淡い色彩の綺麗な花束を指さし、伸が訊ねると、秀が隣で意味ありげに、にやりと笑った。
「それがさー、訊いてくれよ。オレ達、此処の場所わかんなくて、近くの花屋で道訊いたんだけどさ。そしたら花屋のねえちゃんが、いたく征士を気に入っちゃって“病院行くなら、花束もっていってあげなきゃダメよ。いいわ、あたしが選んで作ってあげる。サービスしとくから”って。もー無理矢理押しつけられてんの。これだから色男はね〜」
がはは、と大口を開けて笑う秀の頭を小突き、征士が助けを求めるように伸を見た。
「ま、花だって人を選ぶ権利はあるだろうから、秀よりは征士に持ってもらって、喜んでるだろうね」
「あぁ? 聞き捨てならないな、その言葉」
拗ねる秀を無視して、伸は征士から花束を受け取ると、花瓶を借りに病室を出ていった。
「よかったな、元気そうで」
去っていく伸の背中を見ながら、征士が当麻に言った。
「当たり前だ。誰がついていたと思ってる」
「ホント。その感じなら、お前も大丈夫そうだしな」
当麻の言葉に、笑いながら秀も相づちをうった。

「……当麻、頭を強く打ったって訊いたけど、後遺症とかないのか?」
遼がふと当麻の頭の包帯に目をやって訊いてきた。
「まだ、検査結果はでてないが、心配はないだろうと先生は言ってたぞ」
「そうか、ならいいが」
遼がほっと息をつくと、秀が当麻のベッドの端に腰掛けて言った。
「頭打って記憶なくしたりしたら、記憶バンクの名が廃るしな」
「まったくだ」
征士と秀がお互いに頷き合っているのを見て、当麻がすっと眉間に皺をよせた。
「記憶バンク? 何だそれ」
「…………!!」
当麻の言葉に、瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
秀の顔からすっと笑いが消え、3人の顔に緊張が走る。
「当麻、今、何と言った?」
征士がやけに掠れた声で訊ねた。
「……?」
「記憶バンクの意味が解らないのか?」
「……だから、何だよ、それ」
不思議そうな顔をして、当麻は征士を見上げている。
「……まさか…………そんな……」
秀が小さくつぶやいた。

 

――――――ナースセンターで白色の陶器の花瓶を借り、手際よく花を生け終えた伸が、病室に戻ると、室内の空気が異常に緊迫した雰囲気に変わっていた。
「……どうしたの?」
伸が戻ってきた事にも気付かず、秀がなにやら当麻に詰め寄っている。
「お前、本当に覚えてないのか!?」
「だから、何の事だよ」
「しらばっくれてるんなら、殴るぞ」
「だから……」

「どうしたんだい? 一体」
伸が一番入り口の近くにいた遼に、そっと耳打ちするように訊ねた。
「あ……伸。……それが……さ……」
「…………えっ?」
伸の目が驚きに見開かれ、その視線が当麻に注がれる。
「…………記憶……が……?」

 

当麻の記憶が消えた。
いや、正確にはそうではない。
羽柴当麻として生を受けてからの記憶はある。
なくしたのは、それ以前の記憶。
生まれる前の、記憶バンクとしてのあらゆる記憶が消えた。
幾たびもの転生と戦いの記憶。仲間達との出逢いの記憶。戦いの意味。自分達の使命。
すべての記憶が、当麻の頭の中から消えた。

昨日感じた違和感。
何かが違った当麻。あれは過去をなくした為か……
伸は信じられないといった表情で、当麻のそばへゆっくりと近づいていった。
「当麻……?」
秀が当麻のそばから身を引き、伸に道をあける。
当麻は不思議そうな顔をして、伸を見た。
「…………」
「……当麻……記憶……ないの……?」
「…………伸……?」
「覚えてないの……? ……みんな……? みんな覚えてないの……?」
「……」
伸の手が当麻の頬に触れた。
「全部、覚えてないの……?」
当麻の瞳が不安気に曇った。

過去の記憶をなくした当麻。
いや、なくしたというのは、きっと正しくない。
もともと記憶バンクの役目として必要だっただけの記憶だから。
戦いが終わった今、消えて当然の記憶だったのだ。
記憶バンクでなくなった当麻は、心なしか以前より少し幼く見えた。
きっと、今の表情が本来の羽柴当麻なのだろう。

いつも、苦しそうに過去のことを話していた当麻。
時々うなされていた事だって知ってる。
自分達の歴史は繰り返される戦いの歴史だった。それがどれ程、辛い記憶だったか。
きっと喜ぶべき事なのだ、これは。
それなら、何故、こんなにも寂しい気持ちになるのだろう。
伸は複雑な表情で当麻を見つめた。

 

「伸、オレは記憶喪失なのか?」
当麻が不安そうな表情のまま伸を見つめると、伸は一瞬ピクリと反応した後、すっと当麻から視線をそらした。
不安気な当麻。
当麻がそんな表情をするのは初めてみた気がする。
伸は沸き上がってくるどうしようもない感情を押さえ込み、ささやくような声で言った。
「……そうじゃない……そう…じゃ……ないよ…………当麻」
「…………」
「君の中から消えたのは、もういらない記憶だ。戦いが終結し、必要なくなったものだ」
征士がはっとして伸を見つめた。
「君は、過去の悪夢から解放されたんだ。もう、羽柴当麻としてだけ、生きればいいんだ。よかったね」
言葉とは裏腹な伸の表情に、当麻は戸惑ったように視線を泳がせた。

終わった戦い。
必要なくなった記憶。
記憶バンクの使命から解放された……?
何もかもが不安定で、現実感のない言葉。

ふと、征士の視線と目が合った。
征士はしばらく無言で当麻を見つめていたかと思うと、そのまま何も言わず、伸が生けてきた花瓶を受け取り、サイドテーブルに置くと、カーテンを開け、外の景色を眺めた。
「……また、降ってきやがった」
窓の外、静かに降りだした雨を見つめて、秀がつぶやいた。

 

――――――もうしばらく入院していなければならない当麻の為に手続きを済ませ、征士と秀に後のことを頼むと、伸は遼と共に、一足先に家への帰路についた。
さすがに午前中は、街と反対方向へ向かうバスの中には乗客も少なく、伸と遼は最後部の座席に腰を降ろし、窓の外を流れる景色を無言で見つめていた。

「なあ、伸」
窓の外を眺めている伸の横顔を、遼が伺うようにそっと見た。
「何? 遼」
「当麻の記憶、もう戻らないのかなあ」
「…………さあ、どうだろうね」
伸は遼の言葉につぶやくように答えた。
「……寂しくないか?」
「えっ?」
伸がはっとして遼を見た。
「寂しくないか? 伸。オレ……よく解んないんだけど、征士もなんか寂しそうだったし」
「…………」
そう言えば、伸達が病室を後にする寸前、征士が低くつぶやくような声で当麻に言っていた。
「当麻……もう、お前の中に天城はいないのか?」
おもわず振り向いた伸に気付き、征士は少し寂しそうに微笑んだ。

もう、当麻の中に天城の記憶はない。
もう、当麻は自分の中に水凪を見てはくれない。
烈火の想いも、夜光の想いも、遥か以前のあらゆる魂の声も……

「名前……とうとう訊けなかった」
ぽつりと伸が言った。
雨の中、自分を見下ろす青年。天空の戦士。
名前がどうしても思い出せない。
彼の名前は何というのだろう。
もう、二度と知ることは出来ないのだろうか。

霧雨の様な細い雨が、バスの窓に幾筋もの線を描き出す。
雨の中。戦場の雨。
伸は持っていた荷物を、ぎゅっと両手で抱きしめた。
「あれ? ……伸、これ」
伸が抱えた荷物をのぞき込み、遼が小さく驚きの声をあげた。
「…………えっ?」
病院から持ち帰ってきた当麻の荷物の中に、手を突っ込み、遼は一つの小さな珠を取り出した。
「……これ……鎧珠……?」
「当麻の……だよな」
本当にこれが鎧珠なのかと疑いたくなる程、その小さな珠はもう何の光も発しておらず、智の文字も浮かんでこなかった。
知らなければただの石ころだと思っただろう。
「……こんなに……なっちゃうんだ」
もう、用をなさなくなった鎧珠。
遼の手から鎧珠を受け取った伸は、両手でそっと包み込むように、小さな当麻の鎧珠をにぎった。

この中に、当麻の記憶があった。
以前の、すべてを覚えていた、記憶バンクの当麻の……

伸はそのまま当麻の鎧珠を自分の懐深くしまい込んだ。

第1章:FIN.      

2000.3 脱稿 ・ 2000.4.22 改訂    

 

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