火のない煙 (9)

「毛利、なんか顔色悪いぞ。大丈夫か?」
ほとんど机に突っ伏している状態のまま動こうとしない伸を見かねて崎谷が声をかけてきた。
「次の授業、合同体育。移動だぞ。行けるか?」
「あ、ああ、そっか……」
億劫そうに伸がノロノロと椅子から立ち上がった。
共学である伸の高校では、体育だけは男女別に分かれる為、2クラス合同での授業になっている。確か今日の体育は、翌週に控えている全校マラソン大会に備えての長距離走だったはずだ。
走るのは苦手じゃないし、校外へ出てひたすら走っているだけでいいマラソンの授業は、授業としては気が楽なはずなのに、今日はさすがに気が重い。
なんとか更衣室で着替えを終え、グラウンドへ出てきた伸は、どんよりと曇った暗い空を見上げた。
先日、雨に濡れたのが原因なのかどうか分からないが、今日の伸の体調はすこぶる悪い。
ただ、動けないほど酷くはなかったし、風邪をひいたことを告げると、「ほら見ろ。だから言わんこっちゃない」と秀に雷を落とされることが容易に想像出来たので、なんとなく言いそびれたまま学校に出て来てしまっていたのだ。
「こりゃ、ひと雨くるかな? 人魚姫としてはどう思う?」
「……!?」
突然後ろから声をかけられ、伸が驚いて振り返ると、そこには鷹取が呆れたような顔で立っていた。
そう言えば、次の授業は合同体育。鷹取のクラスと一緒だったのだ。
「何ビックリしてんだ?」
「いや、だって人魚姫、なんて呼ぶから……」
「聖センセだとでも思ったのか?」
「…………」
返す言葉に詰まる伸の様子を見て、鷹取は肩をすくめた。
「もしかして人魚姫って、お前にとってのNGワード?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ、お前のこと人魚姫って呼んでいいのはあの男だけってことか」
「そんなことは、ない…けど」
「けど、正直、あいつ以外には呼ばれたくない?」
「そういう聞き方は卑怯だよ」
鷹取の追及に、思わず伸の視線が鋭くなった。
でも、鷹取は意に介さずといったふうに、平気そうな顔で伸を見返している。恐らく伸のこういう反応は予想の範囲内だったということなのだろう。
「だいたいお前らの関係って何? ただのカメラマンと被写体ってだけじゃないよな?」
一瞬、伸の表情がギクリと強張る。そして、その反応もやっぱり鷹取の予想の範囲内であろうことが感じられ、伸は心の中で舌打ちをした。
「それだけ…だよ。僕らの関係性を的確に表現するとしたらまさにそれだ。カメラマンと被写体。それ以外の何者でもないし何者でもあっちゃいけないんだ」
あってはいけない。伸はそういう言い方をした。
「なるほどな。やっぱり、お前も困ってるんだ」
「……え?」
鷹取が探るような視線を伸に向けると、伸は、その視線を避けるように顔をそむけた。
授業開始のチャイムが鳴り、集合を促す号令の声がかかる。
伸と鷹取は急いでグラウンド中央へと走り出した。

 

――――――学校のグラウンドを一周したあと、校外へ出て、近所にある古い神社の鳥居を中間地点として折り返すマラソンのコースは約5kmの行程だ。
いつもなら間違いなくトップ集団に混じって簡単に完走しているはずのコース途中で、伸は思わず立ち止った。
朝はまだ少し熱っぽいと感じる程度で、本当に大丈夫だと思っていたのに。
まさか、こんな状態になるなんて。
額に嫌な汗がにじむ。息が上がりすぎて苦しいほどだ。身体から発している熱の所為で、周りの空気まで暑くなったように思える。
伸は、神社の入り口にある石の柵に手をついて、大きく肩で息をした。
「どうした。大丈夫か?」
伸より少し先を走っていたはずの鷹取がちょうど鳥居の所で折り返して来たのか、伸のそばに駆け寄って来た。
「具合悪いのか?」
「大丈夫。先に行っていいよ」
「いいわけないだろう。って、お前、熱があるじゃないか」
とっさに掴んだ腕を驚いて離し、鷹取は伸の額に手を当てた。
「これ、ちょっとヤバいぞ。なんで言わなかったんだ。体育なんかサボればいいのに」
「さっきまでは平気だったんだよ」
「ほんとにお前の大丈夫って、大丈夫だったためしがないな」
「…………」
「とりあえずこっち来い」
そう言って、鷹取は伸の腕を引っ張って、神社の鳥居をくぐって先へと進んだ。
「ったく、よりにもよって一番学校から遠い地点で倒れるなんて要領悪いにもほどがあるぞ」
「倒れてなんかいないだろ。訂正しろ」
「何言ってんだ。オレが気付かなきゃ倒れてただろ。同じことだ」
神社の中にあるひときわ大きな木の下まで伸を連れてきた鷹取は、そのままそこに座るよう促した。
「とりあえずちょっとここで休んで、具合がマシになったらゆっくり歩いて帰ろうぜ」
そう言って鷹取も伸の隣に腰を下ろしたので、伸は困ったように鷹取の腕を引っ張った。
「君は先に帰って大丈夫だよ。僕もすぐ追いかけるから」
「何言ってんだ。こんなとこで見捨てたことがバレたらオレがあとで何言われるか分かったもんじゃない。オレは伊達を敵に回す気はないからな」
「そんな……」
「それに、これで堂々と次の授業をサボれるってもんだ」
「また、すぐそういうことを言う」
実際、鷹取は自分で言うほど、不真面目な生徒ではない。
怪我で入院していた時期を除けば、ずっと皆勤だったし、遊びで授業をサボったこともないはずだ。
「ごめんね。迷惑かけて」
「毛利、こういう時はごめんねじゃなくって、ありがとうって言ってほしいな」
「……ありがとう」
「素直でよろしい。いつもそうだといいんだけどな」
にやりと笑みを浮かべ、鷹取は自然に伸の肩を抱きかかえるように引き寄せた。
「……やっぱ熱が高いな。どっか屋根の下に入ったほうがいいかな?」
「大丈夫。少し休んだらマシになるよ、きっと」
「なら、いいんだけどさ……にしても、お前が体調崩すなんて。なんか無茶でもやったのか?」
「……ちょっと……ね」
さすがに週末しばらく雨の中ずぶ濡れで立っていましたとは言えるはずもなく、伸は曖昧に誤魔化した。
鷹取もそれ以上あまり追求してこない。ただ、ほんの僅か、肩を抱く腕に力がこもる。
「おい、毛利。やっぱり移動するぞ。雨が降って来る」
「……え?」
鷹取の声に顔を上げたと同時に伸の頬にぽつりと雨の滴が落ちてきた。
「ほらな」
比較的大粒の雨だ。ということは突然ザーザー降りになるタイプの雨の可能性が高い。
伸は若干ふらつく足でなんとか立ちあがった。
「歩けるか? こっちだ」
伸の身体を支えながら、鷹取は境内の奥へと進み、古い建物の前で立ち止まった。
祠というには多少大きい建物で、充分に人が入って雨風をしのげる造りになっている。
昔は神主が利用していたのかもしれないが、今ではすっかり寂れた様子だった。
「まだ行けるかな? ちょっと待ってろ」
そう言って鷹取は祠の裏へ回り、しばらくして戻ってくると伸を手招きした。
「こっちから中へ入れるぞ」
「そんなとこ入って大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。少なくともオレがガキの頃はよく潜り込んでたけど、別に神様の罰は当たらなかったぞ」
「……地元っ子だったっけ?」
「ご明答。親戚の家を渡り歩いてた時期を除いたら、ずっとここが地元。この辺りは庭みたいなもんだ」
「あ……」
一瞬、あまり聞いてはいけないことを聞いたのかと伸は口をつぐんだが、鷹取は一向に気にしたふうもなく、建て付けの悪い古い扉を押しあけ、さっさと中へと入って行った。
伸もおとなしく、鷹取に誘われるまま中に入り込む。
薄暗い祠の中は、思った以上に埃っぽい。これはもう長い間、神様に限らず、誰も立ち寄ったことがないという証拠だろう。それこそ子供達がかくれんぼに使うのが、現状一番多い使用目的なのかもしれない。
「この辺りが比較的マシだな」
鷹取と並んで再び腰を下ろした伸の耳に雨の音が響いてくる。
さっき降りだしたばかりの雨なのに、もうすっかり本降りになってしまったようだ。
「結構降りだしたみたいだな。すぐに移動して正解だった」
「本当だね」
ブルッと伸が身震いした。
「寒いのか? もしかして熱あがっちまったか?」
「分からない。かもしれないけど……」
「よし、これも羽織ってろ。ちょっとはマシだろ」
鷹取が自分のジャージを脱いで、伸の肩にかけた。
「そんな…悪いよ」
「オレは平気。あ、その代わりお前を湯たんぽ代わりにしていいか?」
「……え?」
言ったとたん、鷹取は先ほどよりきつく伸の身体を腕に抱え込んだ。
「ち……ちょっと」
「結構温かいな。って、それって熱があがってきたってことじゃねえか。大丈夫か?」
「……うん」
鷹取は伸の身体を抱えたまま、そっと背中をさすってくれた。
確かにお互い身を寄せ合っていると思った以上に温かい。
「なんか…こんなとこ見られたら誤解されそうだよな」
「まさか」
否定しながらも、少しだけ戸惑う。それほどに鷹取の腕の中は心地よかった。
「あ、お前、だからって気にして離れるなよ。離れたらオレも寒いんだから」
「……うん」
逃がさないぞとでも言いたげに鷹取の腕が伸の身体に纏わりつく。
雨はいっそう激しさを増してきたようで、しばらくはここから動けそうにない。
諦めたように伸はそっと鷹取の方へ身を寄せた。

 

――――――「……ちょっと雪山で遭難でもしたみたいな気分になってきた」
自分で言った言葉に鷹取がおかしそうに笑った。
「遭難した気分って、どんな気分だよ」
「ほら、ドラマなんかでよくあるじゃないか。若い男女が二人きりで避難小屋に閉じ込められるんだ。で、寒さをしのぐ為、裸で抱き合って一晩過ごすってやつ」
「……前から思ってたんだけど、あれさ…絶対おかしいよね」
伸もつられて苦笑する。
「おかしいって何が?」
「確かに人肌は温かいだろうけど、何も全裸になる必要はないと思うんだ。少なくとも下は脱ぐ必要性を感じない」
「そこはそれ、ロマンだろう。つり橋の恋だよ。やってみる価値はあるんじゃないか? ってかやってみるか?」
「出来るか、そんなこと。男同士で」
「何言ってる。オレ、お前相手だったら、全然いけるぞ」
「征士に言いつけるよ」
伸の言葉に鷹取の表情が一瞬引き締まった。でも、次に鷹取の口から出てきたのは伸の予想とは正反対の言葉だった。
「……そうだな。言ってもいいぞ。ってかむしろ言ってくれ」
「……え?」
「それでやきもちでも妬いてくれるなら、言いつけてくれたほうが嬉しいかも」
「…………」
威嚇の為に放ったはずの言葉に意外な返答が返ってきて、伸は多少戸惑った。
「やきもち、妬いて欲しいの?」
「欲しいだろう、そりゃ。お前は妬いて欲しくないのか? ってか、お前はやきもち妬いたりしないのか?」
「……僕…は……」
思わず言葉が不明瞭になってしまう。
自分の場合、妬いてほしいと思う前に後ろめたい気持ちの方が大きくなるだろう。
「まあ、お前にしても、伊達にしても、あんまり想像出来ないよな」
「そう……かな?」
伸が首をかしげる。
ただ、自分のことを棚に上げれば、確かに、征士に関しては誰かにやきもちを妬くという状況はあまり想像出来ないかもしれない。
「ホントだ。あんまり想像出来ないね。征士がやきもち妬くところって」
「……だよな」
さっきまでの元気はどこへ行ったのか、鷹取は少し寂しそうにつぶやいた。
「あいつは受け止めるだけで、自分からは来ないからな」
「……え?」
「前からそうだったし、今でもそうだ。あいつはオレを受け入れはするが、自分から手を伸ばすことはない」
「……それ…は…」
「そう言えば、お前もそうだよな」
「………!」
「たとえば…さ。お前、こんなことされても抵抗しないだろ?」
「……え?」
言ったとたん、鷹取はいきなり伸を羽交い絞めにする形で床の上に押し倒した。
突然のことに驚いて、伸はそのままの体勢で鷹取を見上げる。確かに、抵抗どころか、少しも動けない。
固まってしまった伸を見下ろして鷹取がふっと笑った。
「さすがにオレがお前に何かするなんてことはないけどさ。でも、これがたとえば聖センセだったとしても、お前抵抗出来ないだろ?」
「…………」
伸の顔から血の気が引いた。
もしかしたら鷹取は知っているのかもしれない。先日の図書室での出来事を。
いや、知っていなくても、何かのはずみでこういった状況になる可能性があるということを感じているのは確かなのだ。
「電車や夜道であう痴漢なら話は別だろうが、お前が少しでも心を許してる相手が、本気でお前を好きで手に入れたいと望んだら、お前はきっと抵抗しない」
「…………」
「伊達もお前と同じだ。たぶんオレが伊達に何をしようとあいつはオレを受け入れるだろう。それこそ手篭めにしても抵抗なんかしないと思う。その程度には好かれてる自覚はある」
「…………」
「だけど、それだけだ」
鷹取に組み敷かれた状態のまま、伸は僅かに目を伏せた。
「……どういうこと…?」
「分かるだろ。つまりそれって、逆に言うとオレがその程度にしか好かれていないってことなんだよ」
「……え」
「オレはあいつに欲しがられてはいない」
「そんなこと……!」
「ないか? 本当に?」
伸の額を冷たい汗が伝った。
「オレは伊達を欲しいと思ってる。だから、伊達にもオレを欲しいと思ってほしい。オレはあいつの方からオレに手を伸ばしてほしいんだ」
「征士のほうから……」
「触れたいと思ってるのは自分の方だけっての、結構キツイんだよ。分かんねえだろ、お前らには」
そう言って鷹取は悔しそうに笑った。
ふと、伸の頭の中にぐっと後ろ手に拳を握りしめていた当麻の姿が浮かぶ。
ああ、そうか。そういうことか。
だから当麻は自分から触れてこようとしなかったんだ。
考えてみれば、自分はいつも受け身だった。当麻が手を伸ばしてくれることをただ待っていた。
そして、その行為が当麻を不安にさせた。
「……ごめんね」
「何が……?」
「……でも、触れたいと思ってるのは、きっと僕らも同じだよ」
「…………」
「勇気がなくて、ごめんね」
伸の言葉に鷹取がふっと笑みを浮かべる。
そして、伸に手を差し伸べて床から引き上げると、再びその身体を腕の中へと抱え込んだ。
「悪かったな。いきなり押し倒して。背中痛めてないか?」
「大丈夫。ごめんね」
「だから、なんでお前のほうが謝るんだよ。違うだろ」
「え…と、でも、なんとなく」
「ホント変な奴だな」
鷹取が笑った。つられて伸の顔にも笑みが浮かぶ。
その時、二人の後ろでガタリと扉がきしむ音がした。

 

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