火のない煙 (8)

「……雨だ」
伸は、ポツリポツリと落ちだした水滴を眺めながら小さくため息をついた。
そろそろ振りそうだと思ってベランダに出てきたのはやはり正解だったようだ。
出来れば曇りの日はあまり外に洗濯物を干したくはなかったのだが、どうしても大きなものは週末にならないと出来ないので、少しくらいの雲の場合は妥協してしまう。
なんとか取り込める程度には乾いてくれた大型のシーツやバスタオルの類を手早くまとめて屋根の下に追いやると、伸は改めて曇天の空を見上げた。
少し大きめの雨粒が額に当たる。はじけて飛ぶ水滴もあれば、そのまま頬を伝って流れおちて行く滴もある。
シャワーでも浴びているような気分だ。
いや、それよりも海の中にいるような気分といった方が正しいかもしれない。
なんといっても今身体を伝っているのは、お湯ではなく水なのだから。
前も後ろも上も下も水。
空気の中に水の匂いが混じる。
呼吸が少しだけ楽になった。
「……って、これじゃまるで本当に人魚みたいだ」
シャツが水を含んで重くなる。身体にまとわりつく。
本来であれば気持ち悪いと言ってもいい感覚のはずなのに、どうして自分はこの状況を嫌だと思わないのだろう。
自分は、本当に人魚なのだろうか。
いや、人魚でないとしても、自分の住むべき場所は、陸の上ではないのかもしれない。
自分の想像に、自分で苦笑する。笑いがこみ上げる。
そして、その笑いと同時に涙が流れた。
何をやっているのだろう。どうしたいのだろう。
これは罰なのだろうか。
罰。何に対しての?
それも分からない。
どんどん酷くなる雨を、伸はずっとその身に受け続けている。
なんだか、それが今の自分に一番ふさわしいような気がした。

 

――――――「おまっ、伸! 何やってんだ」
大きな音をたててベランダの扉が開き、秀が雨の中駆け込んで来た。
「洗濯物取りに行って、なかなか戻ってこないと思ったら……いったい何時間雨の中に立ってんだよ」
何時間というのは、さすがに言いすぎだったが、それでも伸の身体はすっかり濡れ鼠状態だった。
秀は雨の中から動こうとしない伸の手を掴み、屋根の下へと引き戻した。
「バカか! お前は。こんな冷え切って」
水と相性が良いのと、雨に濡れるのとは別問題だ。
すっかり冷たくなっていた伸の身体を抱え、引きずるように秀は大急ぎで階下へと駆け下りた。
「どうした? 秀」
征士が何事かと書斎から顔を出す。
「どうもこうもねえよ。征士、すぐ風呂沸かしてくれ」
「分かった」
何も聞かず征士は秀に言われたとおりバスルームへと直行した。
二人のやりとりを聞いて遼も慌てて伸の部屋から着替えとバスタオルを持ち出してくる。
「秀…そんなおおげさにしなくても大丈夫だよ」
「四の五の言わず、とっとと風呂へ行け」
突き飛ばされるようにバスルームへと追いやられ、伸はしかたなく脱衣所で濡れて身体にまとわりついたままのシャツを脱ぎ始めた。
「とりあえずシャワーで温まれよ。んで、その後はちゃんと湯船にもつかるんだぞ」
ドアの外から秀が声をかける。
「だから、そんなおおげさに……」
「今はおとなしく従ったほうが身のためだぞ、伸」
湯船にお湯が溜まり出したのを確認していたのか、征士が浴室から脱衣所に姿を現し、まだ水が滴り落ちている伸のシャツを拾い上げた。
「……ったく、ここまでびしょ濡れになるまで何をやっていたんだ」
「何って…別に、ぼうっとしてただけで」
「今度から、ぼうっとするなら屋根の下で頼む」
「…………」
軽くしぼったシャツを、洗濯機に放り込むと征士はそのまま脱衣所を出ていった。そして、外で待っていた秀へ何か話しかけている。
ふうっとため息をつき、伸は諦めたように浴室へと向った。
勢いよく流れおちるシャワーを全身に浴びると、少し違和感を覚える。
やはり温かいシャワーは雨とは違うからだろうか。
海の中のイメージに近いのは、温かいお湯ではなく、冷たい水のほうだ。
まあ、だからといって秀が言うとおり、雨の中ずぶ濡れで立っているというのは、あまり感心出来ないことであるのは確かだろう。
征士の気遣いなのか、いつもより少しだけ熱めの湯船に浸かり、伸はほうっと息を漏らした。
「湯加減どうだ? 伸」
浴室の扉の向こうから秀が窺うように声をかけてきた。
「うん。気持ちいいよ。ありがとう」
「ったく……ちゃんと温まるんだぞ」
「分かってるって。ごめんね……」
雨の中とは少し違うが、やはり水の中は気分が落ち着くのかもしれない。
伸はようやく少し温まりだした自分の体をそっと腕に抱え込んだ。
「……なあ、伸」
先ほどより近い所から聞こえてきた秀の声に伸が目を向けると、脱衣所のドアにもたれた格好で座り込む秀の背中が見えた。
「さっき、悪かったな」
「…………」
「居間で言ったことは忘れてくれ。言いすぎた」
「そんなことないよ。さっきのは、僕の方が図星さされて焦っただけだし」
「図星って……なんだよ、それ。そういうこと言うなよ」
困ったように秀が頭を掻いた。
「だいたい、お前、何そんなに気にしてんだよ」
「何って……」
秀の問いにつぶやくように答え、伸はうつむいた。
「なあ、お前が気にしてんのって、来年ここを出て行くってことか? それとも正人と一緒に住むってことが引っかかってんのか? それとも……」
そこで秀は少しだけ躊躇した。
「それとも……聖さんと、なんかあったのか?」
さすがに鋭い。
秀の言ったことが、今、自分が抱えてる原因のすべてだ。
「つっても、ここを出て行くのは、仕方ないことだろ? お前がちゃんと将来のことを考えて出した結論なんだから、周りがとやかくいう権利はないと思うぞ」
「うん」
「だったら気にする必要ないじゃねえか。聖さんのことだって……」
「……確かに、何かがあったかどうかっていうことなら、何もないよ。少なくとも当麻みたいに噂が立つほどにはね」
そう。あの図書室での出来事を除いては。
それに、あの時だって、結局聖はすぐに腕を解いてくれた。
そして、相変わらず何もなかったような態度で、そのままさっさと図書室を出て行ってくれたし、次の授業で会った時も、普段と変わらない態度で接してくれた。
少なくとも、誰も何も気付いていない。
でも、だからってそれで済むと思っているのか。自分は。
結局自分は聖に甘えているだけではないのか。
当麻が平気な顔で真昼の所に行っているのは、恐らく自身の感情の中に後ろめたいことが何もないからだ。
でも、自分は。
噂が立たないように気にしている時点で、たぶん当麻とは違う感情があるということなのだ。
そのことが自分で許せない。
許せないのに、どうにもならない。
どうして自分はこんなに不安定なんだろう。
どうして自分は当麻のように純粋になれないのだろう。
伸は小刻みに震える自分の身体をきつくきつく抱え込んだ。

 

――――――ようやく身体も温まり、伸がバスルームから出てキッチンへ行くと、当麻が所在無げに冷蔵庫のドアにもたれかかった体勢でこちらを見ていた。
「当麻……?」
「もう、大丈夫か?」
「あ……うん。ごめん。なんか騒がせちゃったみたいだね」
「…………」
当麻の視線がまぶしそうに僅かに細められた。
「……当麻……?」
「あ…えと。水、飲むか?」
「そう…だね」
当麻がもたれていた冷蔵庫から身体を起こし、中からミネラルウォーターを取りだした。
「ほら」
受け取ってこくりと一口飲む。火照った喉を通り過ぎる冷たい水が心地いい。
当麻は水を飲む伸をじっと見つめたまま、ほとんど無意識にその手を伸ばした。そして、伸の髪に触れる寸前で、慌てたように手を引っ込める。
「……?」
「あ、ちゃ…ちゃんと髪拭いとけよ」
「分かってる」
一定の距離を置いたまま、当麻はそれ以上伸に近づいて来ない。見ると、当麻の手は伸から逃げるように後ろに回されており、その拳はきつく握り締められていた。
「じゃあ……オレ、行くわ」
「うん」
結局、当麻はほんの僅かも伸に触れないまま、キッチンを出て行ってしまったのだ。それを見送って、伸は、さっきまで当麻がもたれていた冷蔵庫に手を添えると、小さくため息をついた。

 

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