火のない煙 (7)

ようやく週末の休みの日だというのに、その日は朝からなんだかすっきりしない天気だった。
これは、伸の気持ちが塞いでいる所為なのだろうか。
聖と真昼が教育実習に来て一週間。真実はどうあれ、相変わらず当麻が真昼の所に入り浸っているという噂はささやかれたままの状況である。
その所為か、この一週間、学校でも家でも、当麻と伸の間に会話らしい会話はなかった。
そして、今日も皆が昼食を食べようと集まっているというのに、当麻だけは一人食事も取らず書斎にこもったままである。
「ったく、なんでああいう態度かなあ……あいつ」
秀が少々不満気にため息をついたのも、当然と言えば当然だろう。
「別に先生と仲良くすんなとは言わねえし、噂を鵜呑みにする気もねえけどさ。それにしてもここ最近のあいつの態度、おかしくねえか?」
居間に残っている他の者も、秀の発言をとがめることはしなかった。
「……伸は、どう思ってるんだ?」
ぽつりと遼がつぶやいた。
食事の最中からずっと特に会話に参加しようとしていなかった伸は、ビクリと身体を震わせて、手にしていた箸をテーブルに置いた。
「……当麻の…自由だと思う」
「またそれかよ。お前、いつもそうだよな」
秀が呆れたように言い放つ。
「まさかあいつがちょっと美人だからって、気持ちグラついてるなんて思ったりしねえけどさ。それでもなんか言った方がいいとか思わねえか? 放置ってある意味無視と同じだぞ」
「別に、そんなつもりはないよ」
「でもさ……」
「とにかく、今の僕には当麻に何か言う権利も義務もないから」
ガタンと蹴倒すようにして椅子から立ちあがった伸は、そのまま食器をまとめて居間を出て行こうとした。
「ちょっと待て。義務はともかく、権利ってなんだよ」
伸の背中に向かって秀が放った一言に、一瞬伸が怯んだのが全員に伝わった。
「権利はあるだろ。お前には」
「…………」
「それとも何か? お前の方にも何か後ろめたいことでもあるってのか?」
「秀、いい加減にしろ」
見かねて征士が秀を遮る。
秀の視線に耐えきれず、伸は僅かにうつむいた。
「……別に…後ろめたいことなんか……」
ない、とはっきり言えればいいのに。
聖の顔が浮かぶ。抱きしめられた腕の温かさが蘇る。
鷹取の言った一言が思い出される。
本当に、自分達はいったい何をしているんだ。
きつく唇を噛みしめて、伸はそのまま何も答えず居間を出て行った。

 

――――――「伸……さっき、ごめんな」
キッチンで洗い物をしていた伸の背中に向って遼が遠慮がちに声をかけると、伸は何のことだといったふうに首をかしげながら振り返った。
「さっきって……?」
「いや、オレが伸はどう思うか…なんて話題振っちまったから」
「ああ、そのこと。別に遼が謝る必要はないんじゃない?」
「だって…さ」
言葉を濁して遼はうつむいた。伸は洗い物の手を止めて、遼に向き直る。
「遼が気にすることはないよ。それに当麻や僕に対して遼が何か思うところがあるなら、遠慮なく言えばいいんだし」
「そんな……別にオレは二人の事どうこうしようとか思ってるわけじゃなくって……ただ」
「……ただ、なに?」
「如月さんみたいに、早く仲直りしてくれればいいな、と思って」
「如月さん?」
聖香の名前にピクリと伸が反応した。
「どういうこと? あの二人、喧嘩でもしてたの?」
「あ……オレも詳しくは分かんないんだけどさ。なんか当麻がやらかしたみたいで」
「当麻が如月さんに……?」
「ああ。もともと村瀬先生のことで如月さん、ずっと怒ってたからそれで……」
真昼のことで聖香が怒っていた。
それは、どういう意味だと考えればいいのだろう。
何故、彼女が気にするのだ。当麻と真昼の仲を。
心の中がざわざわする。
文化祭前の夜、屋上で見かけた二人の姿が蘇る。
一瞬重なったシルエット。瞼へのキス。
あれは当麻が聖香を慰めようとしてやったことだ。そんなことは分かってる。
ただ、だからと言ってあれを見て平気だったかといえば、全然そんなことはない。
平気じゃなかった。
「でさ、放課後、如月さんがいつまで経っても部室に顔出さないんだってこと当麻に言ったら、自分が探して連れてくからって走って行っちまって」
「…………」
「その時、当麻、彼女に謝らなきゃいけないって言っててさ。それで、二人が部室へ来たのは随分時間が経ってからだった」
「……そう…なんだ」
二人の間に何があったのかは分からない。
でも、きっと、何かがあったのだろう。
「だからさ……伸も……」
「僕も……?」
「ちゃんと話をして、仲直りすれば…って」
「遼、それはまず前提が違ってる。僕と当麻は喧嘩なんかしてない。仲違いしてないのに、どうやって仲直りすればいいの?」
「それは……」
むしろ、喧嘩出来ていれば、よかったのかもしれない。
聖香はきっと自分が感じた不満を素直に当麻へぶつけたのだろう。それに対して、当麻も誠心誠意、彼女に応えたのだ。
それが出来るのは、聖香が女だからだろうか。
ふと、そんなことを考えて伸の口に皮肉な笑みが浮かぶ。
そうじゃない。そんなことが理由ではない。
あれは聖香が女だからではなく、聖香が聖香だからなし得ることなのだ。
それに比べて自分達はどうだ。
お互いまるで腫れものを触るみたいに、距離を置いて。
本当に、ここ数日、当麻と話をしていない。
当麻に触れていない。
そのことを当麻はどう思っているんだろうか。
自分は、どう思っているんだろうか。

 

――――――「当麻、何をしている?」
珍しく書斎へ入って来た征士は開口一番当麻にそう問いかけた。
当麻は作業をしていたパソコンから顔をあげてちらりと征士に目を向ける。
「ちょっとした資料整理だよ。真昼さんに頼まれた」
「村瀬先生に? どうしてお前がここでそんなことをやっているのだ。学校で必要なことなら平日に校内ですればいいのではないのか?」
「ああ、誤解すんなよ。別にこれは実習とは関係ない。親父の研究に必要な資料だよ」
「お父上? 羽柴博士の?」
「そう」
言いながら当麻は再び作業を再開している。
「……どういうことだ? 羽柴博士と村瀬先生はまだ繋がっていたのか?」
真昼は博士が日本に滞在中のしかも春休み限定での一時的な助っ人だったはずだ。確かそう聞いている。
征士は納得いかないといったふうに首をかしげた。
当麻は、ようやく切りのいいところまで進められたのか、再度作業を中断し、今度はきちんと椅子ごと身体を征士の方へと向けた。
「まだ繋がってるっていうか、オレが繋げたんだ」
「……え?」
「真昼さんが親父と連絡取りたいって言うからさ。オレが間に入ったんだよ」
「……では、ここ最近お前が先生の所に入り浸っているというのは……」
「そういうこと」
では、噂は本当に根も葉もない噂だったのだ。
いや、二人で一緒にいることは事実だが、それにはちゃんとした理由があった。
「それを、言ったか? 伸に」
「……伸に? いや、言ってないが」
「何故言わない」
「逆に聞きたい。なんで言う必要がある?」
「…………」
思わず返す言葉に詰まって、征士は当麻を見つめ返した。
「……なあ、征」
「なんだ?」
「最近思うんだ。伸は流されてるだけなんじゃないかって」
「…………え?」
「オレが現在、他の奴らより一歩リードしてるみたいに見えるのは、オレが先に手を出せたからであって、それ以外の理由はないんじゃないのかって」
「そんな…まさか。伸は、ちゃんとお前に言ったのだろう?」
「ああ……伸はオレを好きだよ」
「だったら」
「でも、きっと同じくらいお前のことも好きなんだよ」
「…………」
「みんながみんな同列一位とまでは言わねえけど、でも、きっと伸の中でのオレ達の間にはさほどの差はない」
「……それは……」
一概に否定出来なくて、征士は言葉を濁した。
「お前だけじゃない。遼のことも秀のことも、それに正人や聖さん、最近では鷹取主将もそうだ」
鷹取の名前に一瞬だけ征士がピクリと反応した。それを目ざとく見つけて当麻はふっと息を漏らす。
「やっぱ、お前もそうじゃねえか」
「私が…なんだというのだ」
「お前、この間、誰かを選ぶということが出来ないって言ってたろ。あれ、鷹取先輩のことだよな?」
「…………」
「あの男相手だと、お前、抵抗しないだろ? それと同じ」
征士は無意識のまま、そっと自分の唇に触れた。
随分以前のことにも、つい最近のことにも思える。あの時の感触を征士はまだ忘れていない。
伸が当麻を現時点で一番特別だと思っているのは、そういうことも影響しているのだろうか。
確かに考えてみれば、ないとは言えないのは事実だ。
ただ。だからと言って。
「もともと伸にとって一番特別な相手は烈火だったんだ。だから、伸が正人と一緒に住むことを決めたって聞いた時も、驚きはしたが、どこかで、いつかそうなる予感はしてたっていうか……ああ、やっぱそうなるんだなあって」
「正人と伸の間には、何もお前が勘ぐるようなことはないはずだ」
「知ってるよ。でも、少なくとも正人と伸は好き合ってる。それは親愛とか友愛とか、そういった言葉で綴った方がいい感情かもしれないけど。でも、それだって愛には変わりない。聖さんだってそうだろう。信頼も尊敬も、全部……」
そこまで言って当麻は悔しそうに唇を噛んだ。
「オレはきっと伸から選択肢を奪っただけなんだ。オレが抜け駆けしたから……」
「抜け駆け…という言い方は好きじゃない。それではまるで早い者勝ちと言ってるようではないか。伸に対しても失礼だぞ」
「悪い。言葉の選択を誤った。でも、意味は違えていないつもりだ」
言いたいことは分かりすぎるほど分かる。
恐らくここ最近の当麻の態度の変化の第一の要因はそういうことなのだろう。
正人のことを知った直後に聖の出現を目の当たりにした。そして、そこに、ちょうど都合よく真昼との再会が重なった。
タイミングが良いといえばいいのか。悪いといえばいいのか。
身を引きたいわけではない。ただ、不安で。
自分は、どこかで何かを間違えてはいないだろうかと、不安で。
でも。それでも。
「当麻。もし、そうだとしても、もうお前は後戻りは出来ないだろう?」
「…………」
以前、何かの小説で読んだ。
恋人や夫婦は、ちょっとしたきっかけで別れてしまったりすることもあるが、親友は、いつまで経っても親友のままでいられることが多いのだと。
「もしかしたら、私は、お前も伸も、出会った頃のままだったほうが良かったのではないかと思う時がある。そうであれば、お前達はいつまでも私達と同じ“仲間”という位置づけで、それこそずっと……」
「…………」
「ずっと永遠に変わらずにいられたのかもしれない」
いつまでも親友のままでいたほうが楽だったのかもしれない。
「だが、それはもう無理だ。進んでしまった関係性はもう元通りには出来ない。記憶も想いも上書き出来ない。だったら諦めて腹をくくれ」
「…………」
「そして、私に見せてくれ。進んでも大丈夫なのだという実例を」
「……征?」
ようやく顔を上げ、当麻はじっと征士の端正な顔を見つめた。

 

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