火のない煙 (6)

「珍しいな。君がここへ出向くなんて。オレに何か用事?」
中を塞ぐように扉の前に立ち、聖は当麻の訪問に困惑した表情を向けた。
「いや……あの…如月、来てないかと思って……」
「……オレも如月なんだけど?」
「ああ、えっと…聖香……妹のほう」
「聖香に何の用事?」
「…………」
鋭く切り返されて当麻はグッと言葉に詰まってしまった。
聖香が兄の所に来ているかもしれないとみた当麻の考えは当たっていたのだろうか。どうも聖の表情からは伺えない。
だが、わざと部屋の中を隠すように立っているのは、どこか不自然な気がする。となると、この部屋の中に聖香がいる可能性は高いと考えるのが妥当だ。
もし、そうだとしたら。聖香はここに逃げ込んできたということだと理解したほうがいいのだろうか。だとすれば、さっきの屋上でのことを、兄に話してしまっているかもしれない。
本当にそうだったら、自分はこの男に会わす顔がないではないか。
「…………」
「何? 黙ってちゃ分からないぞ。君はもっと雄弁なほうだと思ってたんだが違ったようだ」
「……オレは……」
何と言えばいいのか。聖香の実の兄に向かって。
さすがにうまい言葉が見つからず、躊躇を続ける当麻の耳に聖香の声が届いた。
「私、何も言ってないわよ。羽柴くん」
「…………!」
聖香の声を合図にしたかのように、聖が少し身を引いた。
当麻が隙間から覗き込むと、聖香が部屋の隅で椅子に座り、うつむいている姿が見えた。
「……如月…」
当麻の呼びかけに聖香が顔を上げた。
「……なに?」
「……そっちへ行って…いいか?」
ゆっくりと聖香の視線が当麻へ向けられる。
そして、小さく頷いたのを確認したところで、聖が完全に当麻と身体を入れ替える形で廊下へと出た。
「どうやらオレは席を外した方がよさそうだな。ちょっと出てるよ」
「ごめんなさい。兄さん」
「何かされたら、ちゃんと大声だすんだぞ」
「……なっ!」
言ったとたん聖は扉を閉じた。当麻に反論させる気はないようだ。
追いかけて自分も出て行くわけにもいかず、当麻はそのまま聖香の方へ身体を向けた。
「……あの…さ、如月」
「なに? もしかして私を探してたの?」
「……遼から、お前が部室に顔を出してないって聞いて」
「ああ、そっか……ごめんなさい」
そっけない態度で聖香は再び当麻から視線をそらした。
当麻はふだんの彼からは考えられないほど慎重に、ゆっくりと聖香のそばにやって来くると、すっとそばで膝をついた。
椅子に座っている聖香とちょうど視線の合う位置だ。
わずかに低い位置から見上げる体勢で当麻は聖香を見つめる。さすがにここまで近距離で見つめられていては視線をそらすことも出来ず、聖香もそのまま当麻を見つめ返した。
「如月」
「……なに……?」
「さっきのことは本当に悪かったと思ってる。オレはお前に酷いことをした」
「……酷いことって……キスしようとしたこと……?」
「それもある。……いや、あれに関しては、オレとしてはからかったわけでも、冗談のつもりだったわけでもないんでちょっと違うんだが……」
「……え……」
「オレ…お前に甘えてたのかもしれない」
「……甘えて…た……?」
ほんの少し意外そうに聖香が瞬きをした。
当麻が誰かに、しかも女の子相手に甘えるなどということが想像出来なくて、聖香はじっと当麻の瞳を覗き込んだ。
いつも飄々としてマイペースを崩さず、悔しいくらい自由な人に見えていたこの男でも、女に甘えたくなる時があるのだろうか。
なんだか不思議な感じがした。
「ねえ……私に甘えたりする前に、どうして毛利先輩に甘えないの?」
「それは出来ない」
「……どうして?」
「遼に聞いてないか? 伸はもうすぐいなくなるんだ」
「それって卒業するってこと?」
「そうだ。卒業して、あいつはあの家を出て行くんだ。なのに、まだオレはそれを笑って見送る準備が出来ていない」
「…………」
「オレはあんたを尊敬してる。如月は、いつも真摯で真っ直ぐで、何があってもちゃんと自分の力で立ち続けようと努力してる」
「…………」
「その強さはオレにとっての憧れだし、だから、お前の近くっていうのはオレにとってものすごく大切で、壊しちゃいけない場所なんだ。それなのに……あんなことを言ってお前を傷つけた」
「…………」
「お前でもいいなんて絶対嘘だ。どうかしてた。お前じゃなきゃいけないことはたくさんあるけど、お前でもいいなんてことはただのひとつもないはずなのに」
「……羽柴くん……」
「なんだか神聖な聖域を汚したような気分だ。本当に悪かった」
「ひとつ聞いていい?」
聖香がつぶやくように言った。
「………?」
「私のそばが聖域なんだとしたら、村瀬先生は?」
「真昼さん?」
「村瀬先生のそばも、あなたにとって神聖な場所なの?」
「……あそこは…ちょっと違う。オレもあの人も、お互いを利用してるだけだ」
「利用……?」
「あの場所はオレにとって、ただ単に都合のいい場所だ」
「…………」
「そして、それはきっと真昼さんにとっても同じだろう」
「どういう…こと?」
「真昼さんは、オレの中に親父の面影を探してるだけだ」
「……羽柴くんの…お父さん?」
「もともとあの人は親父を追いかけて研究所に来た人だしな」
確か、真昼が当麻と知り合ったのは、羽柴博士の研究所だったはずだ。
つまり、真昼が当麻に注目していたのは、本当にただ単純に羽柴博士との繋がりが欲しかったからということなのだろうか。
そして、当麻のほうも。
伸が自分のそばからいなくなる寂しさを紛らわせたくて。誰かと繋がっていたくて、その相手として今の真昼の存在が必要だったということなのだろうか。
「羽柴くん……寂しいの?」
「…………」
「……羽柴くん?」
「さすがにそれを認めたら男の沽券にかかわるだろう」
苦笑しながらそう言うと、当麻は困ったように俯いた。
目の前に当麻のうなじが見える。こんな角度から当麻を見るのは初めてかもしれない。
そんなことを考えながら、聖香はそっと手を伸ばし、当麻の頭ごと自分の胸に抱え込んだ。
「……如月?」
「なんか、いつもと立場が逆になったみたい」
「……え?」
「寂しかったら甘えていいよ。誰にも言わないから」
ふっと聖香が笑った。

 

――――――「なんで廊下に立たされてんだ? 締め出しでもくらってんのか?」
歴史資料室の扉にもたれるようにして腕を組んでいる聖の前で、通りかかった鷹取がどうしたのかと不審気な目を向けた。
「締め出しって……」
聖が苦笑する。
「違うのか?」
「ま、当たらずとも遠からずってところだけどな。今、中に羽柴くんがいてね」
「……え?」
思わず立ち止り、鷹取は聖のうしろにある扉を窺い見た。
「なんで奴が?」
「ちょっと立て込んだ話があるみたいだったから席を外させてもらったんだ。あ、ちなみに一緒にいるのは姫じゃないから」
「…………」
ちらりと鷹取が聖を窺うと、聖がわずかに肩をすくめた。
「えっと…鷹取くんだっけ? 確か、剣道部主将の…」
「元、主将だ。もう剣道は引退したから」
「そうか。そうだよな。これは失礼した」
「で、やっこさん。もしかして、ついにこんな所にまで逃げ込んできたのか?」
「まさか。単に彼の探してた相手がここに来ていたってだけだよ。でなければここへなんか来るはずないだろう」
「…………」
思わず鷹取は聖を睨みつけた。聖もそのまま鷹取の視線を受け止める。
「彼の逃げ場所にオレの所という選択肢はあり得ない。君も知ってるはずだ」
「それは、やつに対しての宣戦布告と取っていいのか?」
「そう取りたいならとってもいいが、どのみち戦ってもオレは負け戦だよ」
「自覚はしてるんだ」
「まあね」
「分かってんなら、手を引けよ」
「…………」
真っ直ぐに鷹取を見返し、聖は微かに笑った。
「そう出来るんなら、とっくにそうしてる。君がオレの立場だったら同じことを言うんじゃないのか?」
「………!?」
さすがに言葉に詰まり、鷹取は聖を睨みつけるのを止めた。
聖の立場。考えてみれば自分の今の立ち位置だって聖と似たり寄ったりなのかもしれない。
太陽から月を奪うことは本意ではないはずなのに。それでも手を引けないのは自分も同じ。
だとしたら、自分がこの男を気に入らないと感じたのは、それこそ同族嫌悪ということになる。
わずかに苦笑を浮かべ、鷹取は素直に頭を下げた。
「……悪かった。今のはオレの失言だ」
「いや、そんなことはないよ。オレもたいがいなんとかしなきゃとまずいとは思ってるんだから」
「…………」
「オレだって、姫を追い詰めるのは本望じゃない。だけど……」
「………」
「それでも…止められない」
「…………?」
鷹取が探るような目で聖を見た。
「もしかして、なんか…あった……?」
鷹取の問いかけに聖はすっと視線をそらした。
“離して……ください”
聖の頭の中に、先ほど、昼休みの図書室での事が蘇る。
抱きしめた身体が愛おしくて、つい力を込めてしまった。それが伸の望むことではないと分かっていたのに。それでも止められなかった。
“離して……ください”
思わず抱きしめてしまった腕の中で、伸はひどく苦しげに聞こえる声で、一度だけそうつぶやいた。
ただ、それでも伸は、ひとことそう言っただけで自分から離れようとはしないままだ。
腕の中には、やわらかい伸の身体がすっぽりと収まっている。
それが何だか苦しくて。
“こうしているのが嫌なら、心おきなくオレの腕を振り払って2・3発殴って出て行けばいい”
“それは……出来ません”
“…………”
“出来ません”
繰り返し。
心底苦しそうな表情で、伸はそう言ったのだ。
“……時々お前はひどく残酷なことを言うね”
自分からこの手を離すことなど、出来はしない。
それをするのに、どれほどの意思と努力が必要なのか、分かっているだろうに。
それなのに。
そんなことを言う伸が憎くて、愛おしかった。
“分かってます。自分が酷いことを言っていることは。だから、お願いします。僕を嫌ってください”
諦めろではなく、嫌って欲しい。
“僕のことなんか、嫌ってください”
嫌ってくれと言われて、はいそうですかと嫌えるならこんなに苦しむことはないだろう。
愛おしくて。憎くて。
決して自分の手に入らないことが辛くて。
でも、それ以上にどうしようもなく愛おしくて。
「そっか……あんたも困ってるんだ」
聖の表情をどうとらえたのか、鷹取がぽつりとそうつぶやいた。

 

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