火のない煙 (5)

「……何処へ行ってたの?」
当麻が教室に戻ったとたん、聖香が不機嫌そうな口調でこそりと聞いてきた。
当麻はちらりと聖香を見つめ、顎で上の方を指し示す。
「屋上?」
「まあね」
「嘘つき」
「……知ってんならわざわざ聞くなよ」
「………!!」
聖香の頬が怒りのためか一瞬紅潮したのを見て、当麻は心の中で小さく舌打ちをしながらどかりと自分の席に腰をおろした。
そのとたん、ガタっと音を立て、今度は聖香の方が立ちあがる。
「どうした、如月」
ちょうど入れ違いで教室に入って来た教師が、不思議そうに首をかしげ、立ったままの聖香を見た。聖香は教師の追求を避けるように視線を落とす。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「あ…えと…はい。そうなんです。ちょっと気分が悪くて……保健室行って来ていいですか?」
「そうか。じゃあ、誰か付いてって……」
「いえ、一人で大丈夫です」
心配そうに続ける教師の言葉を遮り、聖香はそそくさと教室を飛び出すと、そのまま消えていった。いつもの聖香らしくない態度ではあったが、それも具合が悪いせいだろうと考えたのか、教師はそのまま壇上にあがり授業を始める。
「…………」
当麻が無言で聖香が出て行った先の扉に視線を向けた。

 

――――――「……で? ここの何処が保健室なんだ? 如月」
「羽柴くんこそ、どうして来たの? 授業は?」
「オレも腹痛」
「嘘つき」
「さっきからそればっかだな。あんた」
少し肌寒い風が吹き抜ける校舎の屋上で、当麻は呆れたように肩をすくめる。
「オレ、なんかしたっけ?」
「嘘ついてるのは本当でしょ? 嘘つきを嘘つきと言って何が悪いの」
「なんでそんなに怒ってんだよ」
「怒ってないわよ」
「嘘つき」
まるで仕返しのように、当麻は聖香の口調を真似て言い返す。
グッと堪え、聖香は当麻を睨みつけた。
「如月」
「何?」
「何がそんなに気に入らない?」
「…………」
うつむいて、聖香は唇を噛みしめた。
「……あの噂は真実なの?」
「噂って、最近流れてるあの妙なやつか?」
「妙かどうかは知らないけど、本人が妙だと思ってるんなら妙な噂なんじゃない?」
「確かに」
「……で、どうなの?」
「それは何をもって真実というかによるな」
「はぐらかさないで」
「別にはぐらかしてるつもりはない。真昼さんは親父の研究所で助手をしてたことがあるのは本当だし、その時オレ達が知り合ったのも本当だ。仲も悪いということはない」
「…………」
「オレが化学準備室へ入り浸ってることも本当だ」
「じゃあ、全部真実ってことじゃない」
「そう思うんなら、そうだろうな」
「それでいいの? 羽柴くんは!?」
思わず距離を詰め、聖香は当麻を至近距離で見上げた。
「どうしてあんな噂流されっぱなしにしてるの? どうしてしょっちゅう先生の所に行くのよ?」
「……お前はオレにどうしてほしいんだよ」
「………」
聖香がうつむいた。
「如月……?」
「……か…ないで」
ほとんど聞き取れないような声で聖香はつぶやく。
「なに?」
「……行かないで」
「………どこに?」
「化学準備室。……先生の所に…なんか……行かないで……」
当麻がゆっくりと瞬きをした。
「行ってほしくない理由はなんだ?」
聖香が小さく首を振る。答える気はないようだ。当麻は困ったように前髪をくしゃりと掻きまわした。
「行ってほしくない理由その1、オレが真昼さんと懇意になるとお前にとって都合が悪くなるから」
「……え?」
驚いて聖香が顔を上げた。当麻は構わずに言葉を続ける。
「2、オレのことを好きだから」
「ちょっと……待って……」
「1に関してもう少し詳しく説明するとこうだ。オレが真昼さんと仲良くなるということは、伸との距離が開くということになる。オレと伸の距離が開くということは、遼にとってのチャンスに繋がる」
「……そんな……」
「そうなると、結果的にお前さんにとっては、あまりよろしくないことになる…と」
「そ…そんなこと考えてない!!」
「じゃあ、正解は2番か?」
「…………」
否定も肯定も出来ず、聖香は戸惑った目で当麻を見上げていた。
「オレのこと、好きなのか?」
違う。
そう言いたいのに、言葉が出ない。
思わず聖香は後退り、給水塔の壁に背を押しつけた。
当麻は聖香の逃げ道をふさぐように立ちはだかっている。
「…………」
かなりの至近距離で、当麻は聖香を見つめていた。
「……そうだな」
やがて、ぽつりと当麻がつぶやいた。
「あんたでも、いいかもしれない」
「………?」
思わず顔を上げたところに、ゆっくりと当麻の顔が近づいた。
お互いの息がかかる。
だが、あと僅かで唇が触れ合うかと思ったその瞬間、聖香が手を突き出して、当麻の動きを遮った。
細い手首。当麻がちょっと掴めばすぐにそのまま壁に押し付けることも可能だろう。
でも、当麻はその場所から動こうとしなかった。
「…………」
そして、必死に伸ばされた聖香の腕を見て、ため息をつく。
「……だよな」
すっと当麻が身を引いた。
「羽柴くん……今の、なに?」
「なにって?」
「あんたでも……ってなに?」
「…………」
「もしかして、誰でもいいっていうこと?」
「…………」
「あんまり人をバカにしないで」
「……如月……」
「バカにしないで…よ……」
そう言った聖香の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
以前やった涙を止めるおまじないは、もう効かないのだと、その時当麻は気付いた。 

 

――――――「あ、当麻、ちょうどいいところにいた。お前、如月さんどこにいるか知らないか?」
遼が廊下ですれ違いざまに当麻に声をかけてきたのは、その日の放課後のことだった。
思わず当麻の表情がギクリと強張る。
「き…如月がどうかしたのか?」
「いや、放課後になっても部室に顔見せないから、どうしたんだろうと思って。別に休むとも聞いてなかったからさ」
「…………」
屋上で別れてから、教室へ戻ったのは、聖香のほうが先だったはずだ。
時間をずらし、10分程遅れて当麻が教室に入ると、聖香は自分の席でちゃんと授業を受けていた。そして、授業が終わったとたんすぐに席を立って何処かへ消えた。
てっきり、いつものとおり新聞部の部室へ行ったのだと思っていたのに。
「……くそっ……」
小さな当麻の舌打ちに気付き、遼の表情が鋭く変化した。
「お前、なんかあったのか? 如月さんと」
当麻が一瞬しまったという顔をする。
「あったんだな! お前、何やったんだよ!」
「…………」
遼の問いかけに当麻は何も答えない。
「……ったく」
とうとう、突き飛ばすように当麻を振り払い、遼が駆けだそうとしたその瞬間、当麻は思わず遼の腕を掴んでいた。
「待て、遼」
「……なんだよ」
「如月はオレが探して連れてくるから」
「……え?」
遼の眉が怪訝そうにひそめられる。
「お前の言うとおり、オレ、あいつにちょっとまずいことをしちまったんだ。だからあいつを探してちゃんと謝りたい」
「お前、ホント何やらかしたんだ?」
「すまん。それは言えない。だが、如月はちゃんとお前の所へ連れて行くから、オレに任せてくれないか」
「…………」
「頼む」
「……分かった。じゃあ、オレは部室に行ってるから」
納得したわけではないだろう。
でも、当麻が言えないということは、今の時点では何をどうやっても聞き出すことは出来ないだろうし、当麻が連れてくると言ったのであれば、それは間違いなく連れてくるのだろう。
遼は諦めたように、掴まれていた当麻の腕をそっとはがした。
「じゃあ、頼んだからな」
「ああ」
立ち去る遼の背中を見送り、すぐに当麻は聖香のいそうな所を回り出した。
まずは屋上。
当然と言えば当然だろうが、そこには聖香はいなかった。
昼間ならまだしも、夕方が近づくと風の冷たさが身にしみる季節になってきたのだ。
わざわざこんな所に来るはずはない。
そんなことは簡単に予想出来ただろうに、それでも一番最初に来てしまったのは、この場所が自分と聖香にとっての大切な場所だったからだろうか。
遼との仲を応援してやると宣言したのもこの場所だった。
愚痴を聞いてもらったのも、聞いてやったのもこの場所だった。
落ち込んでいる聖香を慰めたのも、この場所だった。
いつの間にか、何かあるとお互いがお互いを探して此処に来ていたような気がする。
それなのに。
泣かせてしまった。
決してバカにしたつもりも、冗談を言ったつもりもなかったのだが。
それなのに。
あんなふうに泣かせてしまうなんて。
今まで感じたことのない後悔の念に苛まれつつ、当麻は屋上を後にした。
他に聖香が行きそうな場所と言えばどこだろう。
部室には行っていない。教室にも戻ってきていない。
体育館、図書室、美術室。どこもピンとこない場所だ。
まさか真昼のいる化学準備室ということはないだろうが。
「……ちょっと待て……真昼さんじゃなくって……もう一人のほうか?」
少なくとも真昼のいる所よりは確率が高いだろう。
当麻は踵を返し、真昼ではなく、聖が今回の実習の間使用を許されているはずの歴史資料室へと走った。

 

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