火のない煙 (4)

翌日の昼休み、伸は久しぶりに図書室を訪れた。
今学期伸は図書委員ではなかったためか、最近はすっかり足が遠のいていたのだが、少しだけ本の匂いに囲まれてみたくなったのだ。
図書室に最後に訪れたのは、確かクラスの図書委員に急に代理を頼まれて来た時だから、ちょうど鷹取の事故があった頃だったはず。
図書室の扉の前で、立ち止まり、伸はそっと深呼吸した。
本の匂いは好きだ。古いインクと紙の匂い。
それは、きっと家の書斎と同じ匂いだったから。
ガラリと扉を開けると、見える所には誰の姿もなく、室内はしんとしていた。
昼休みなので図書委員も待機していないようだ。
ちょうど一人になりたかった気分だったので、ホッと微かな息をもらし、伸はいつもの癖で貸出用カウンターの方へと向かいかける。
と、その時、誰もいないと思っていた棚の影から、ヒョイと人の影が飛びだした。
「あ、良かった。図書委員の人? 貸出手続きお願いしたいんだけど、いいかな?」
「………?」
振り返ると長い綺麗な髪を後ろで束ねた女性が顔をのぞかせていた。
「……村瀬…先生……?」
見間違えるはずはない。そこにいたのは教育実習生の真昼だった。
ということは、もしかして。
「真昼さんが言ってた本、あったぞ。これでいいか?」
思った通り、本棚の奥から当麻が姿を現した。
「………」
カウンターの所で固まってしまった伸を見つけ、当麻の方も歩みを止める。
「ありがと、当麻君。じゃあ、これもお願いします」
二人の表情の変化には気付かなかったようで、真昼はカウンターにどさりと数冊の本を積み上げた。
伸はぎこちない動きで、カウンターの中に入ると、積み上げられた本を手に取る。
「真昼さん、そいつ図書委員じゃないよ」
見かねて当麻が指摘すると、驚いて真昼が伸を見た。
「え? そうなの? ごめんなさい。私、てっきり……」
「かまいませんよ。前の学期は図書委員でしたし、今でもたまに手伝ってるんで貸出処理くらい代行出来ます」
「ホント? 助かるわ。ありがとう」
にこりと伸が微笑むと、真昼も安心したように息を吐き、笑顔を向けた。
その魅力的な笑顔にドキリとする。
さらりとした長い髪。少し色は抜いているようだが、パーマはかけていない。
征士が言っていたとおり、確かに綺麗な髪だ。
小さな顔に豊かな胸。細い腰。
ああ、女の人だ。
この真昼という女性は、とても魅力的な、女の人だ。
そう思うと、ほんの少し泣きそうになった。
伸は慌てて貸出カードを取ることを口実に、後ろを向いた。
とたんに背中にあたる当麻の視線にビクリとする。
「…………」
思わず振り返ると、今度は当麻がさっと視線をそらした。
伸は改めてカウンターに向き直り、貸出手続きを進めようとペンを取ると、カードへ書名の記入を始めた。
真昼は興味深そうに伸の手元を覗き込んでいる。
ふわりと良い匂いがした。それが何故か息苦しく感じてしまう。
貸出カードへの記入を終え、処理を終了させると、伸は持ちやすいように書籍をそろえてカウンターの前面に押し出した。
「じゃあ、貸出期間は二週間です」
「それよりは前に返しに来るわ。実習もあと一週間ちょっとだしね」
「あ……そっか。すいません。そうですよね」
苦笑を浮かべながらも、伸の表情は若干硬い。真昼はそんな伸をじっと見つめていたかと思うと、ふいにカウンターに身を乗り出した。
「……三年生?」
「は…はい」
「名前は?」
「も…毛利、伸と言います」
「綺麗な目をしてるのね。言われない?」
「え……いえ、別に……」
「……ねえ……もしかして、あなた、人魚姫?」
「……!?」
今度こそ確実に伸の表情が凍りついた。
「やっぱり、そうよね。どっかで見たことあると思ったのよ」
「あ……はい」
「あなたの写真見たわ。聖くんが撮ったやつ。すっごく素敵だった」
「…………」
「どれも綺麗だったけど、一番すごかったのはあの大きなパネルにしたやつよね。岩の上に座ってるの」
「あ…ありがとうございます」
「でもちょっとビックリ。まさか人魚姫が男の子だったなんて……」
「正確に言うと、彼は人魚姫じゃなく、人魚姫のスタントマンだよ」
どこから聞いていたのか、ちょうどタイミングよくガラリと扉を開けて、聖が図書室に入って来た。
伸と、そして当麻も強張った表情のまま聖の方へ顔を向ける。
真昼だけはにこやかな表情で軽く手を振っていた。
聖は、まっすぐに真昼のそばまで歩いてくると、困ったように眉をひそめた。
「こんな所で油売ってないで、早く実習日誌書かなきゃいけないんじゃなかったっけ?」
聖の言葉に真昼は小さく舌を出した。
そんな仕草もやっぱり女性らしい。そう思ったとたん、再び伸の胸がズキンと痛んだ。
「ちょっとした息抜きじゃない。ホント真面目なんだから、聖くんは」
聖くん。
そういえば聖のほうも、彼女のことをこの間、真昼と名前で呼んでいた。
いや、正確には呼びかけて躊躇し、言い直したのだ。
そのことを思い出して、なんだかショックだった。
いや、違う。本当にショックなのは、その呼び方を聞いて、ショックを受けている自分自身にだ。
「日誌はすぐ書くから。それより驚いた。あなたの愛しのお姫様って、実は美少年だったのね」
「そういう誤解を招く言い方しないでほしいな」
「だって本当にビックリしたのよ。人魚姫が男の子だったなんて思ってなかったから」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない。それにあんな綺麗な人魚姫を見てまさかそれが男の子だなんて思うはずないでしょ」
「それってオレの腕を褒めてくれてると思っていいのかな?」
「はいはいはい」
軽い調子で交わされる仲のよさそうな会話。人魚姫の話題。
聖の想いが詰まったあの写真を、この女性も見ていたのだ。
しかも展示されていたパネルだけではなく、他の写真も。ということは個人的に聖の写真を見ることが出来る立場に、真昼はいたということになる。
チクリと胸が痛んだ。
でも、それが何に対しての痛みなのか、もう伸にも分からない。
ただ、もう聞きたくなかった。見たくなかった。
聖と真昼の楽しそうな会話も。
そんな真昼に寄り添うように立っている当麻の姿も。
この場所、この空気から逃げ出したい。
「そろそろ行こうよ。真昼さん」
突然、当麻はそう言うと、カウンターに積み上げてあった本を持ち上げた。
「これ、貸出処理はもう終わってるんだよな?」
「あ、うん」
「じゃ……オレ、先に行ってるから」
ほとんど伸と目を合わせないまま、当麻はスタスタと図書室を出て行ってしまう。
「ちょっと…当麻君? 先に行くって…鍵がないと準備室開かないわよ」
慌てて真昼も追いかけるように図書室の扉を開けた。
「ごめんなさいね。じゃあ、また」
そのまま当麻を追いかけていく真昼の足音を聞きながら、伸は力が抜けたように床に座り込んだ。
「……姫?」
慌てて聖がカウンターの中に入ってくる。
「大丈夫?」
大丈夫じゃない。身体中が悲鳴を上げているみたいだ。
伸は思わず吐き気を抑えるように手を口元に添えた。
どうしよう。自己嫌悪で押しつぶされそうだ。
あと少しできっと自分は叫び出していた。止めてくれと。
お願いだから止めてくれと。
でも、何を。何を止めて欲しかったのか。
聖と真昼の楽しげな会話そのものだろうか。それとも、当麻の前で聖の口から人魚姫のことを語られることだろうか。或いは、そんな話を平気な顔で聞いている当麻の態度だろうか。
分からない。
ただ、これだけは分かる。自分が今、最低最悪なのだということだけは。
「姫? 気分悪いのか?」
「いえ…何でもないです」
「何でもないわけないだろう? いったいどうし……」
いつの間にか、伸の両手がしがみつくように聖の服の袖を掴んでいるのを見て、聖は口を閉じた。
「……姫?」
掴んだ手の先が微かに震えている。
気がつくと聖は、そんな伸の身体をそっと抱き寄せていた。
聖の腕の中でまるで怯えてでもいるかのように震えている小柄な少年。
愛しい人魚姫。
「………!」
突然伸は弾かれたように聖の手を振り払った。
伸の瞳に浮かんでいるのは、戸惑いと怖れと、そして自分自身に対しての嫌悪。
「……伸」
そのまま逃げるように立ちあがろうとした伸の腕を聖は強い力で掴み、今度は自分の意思で勢いよく自分の方へと引き寄せた。
「……!?」
倒れこむように伸の身体が聖の腕の中へと収まる。
今度こそ逃がす気はないとでもいうかのように、伸を抱きしめる聖の腕の力が強まった。

 

――――――追いついてきた真昼と一緒に化学準備室へ入り、借りてきた本を作業机の上に置くと、当麻は窓際のサッシに腰掛けて向かい側の廊下を眺めだした。
「どうしたのよ、急に飛びだして」
「別に何でもないよ。ちょっとやきもち妬いただけだとでも思ってて」
「やきもち? 誰に?」
「…………」
「聖くんと仲がいいのが気に入らないの?」
「……そうだね」
聖と誰の仲が、ということには言及せず、当麻は曖昧に言葉を濁す。
「……ったく、当麻君がそういう態度をとるから噂が下火にならないんじゃないの?」
呆れたように真昼はため息をついた。
学校中に広まっている噂は、もう当人達の耳にも入ってきてしまっている。
もちろん、どちらも噂を肯定したりはしていないが、だからといってそれを信じてくれる生徒がどの程度いるだろうか。
いや、実際には信じていても、とかく人は噂話をするという行為そのものが楽しいのであって、真実がどうであろうと、あまり関係がなかったりもするのが実際のところなのかもしれない。
「邪魔なら去るよ」
「そうは言ってないわ。手伝ってくれて感謝してるもの」
締め切った化学準備室は思いのほか狭い。
廊下の騒々しさが煩わしくて、扉を閉じてしまっていたが、これは開けておいた方がよかったのだろうか。ふと、そんなことも考えたが、今さら開放したらその方が余計に何かあったと思われそうな気がして決断に至らない。
教育実習に来た学校で、生徒の一人と噂になるなど、マイナス要素でしかないのに。
でも、不思議と真昼はそれを後悔してはいなかった。
もしかして自分は、本当にこの不思議な宇宙色の瞳をした少年に惹かれてでもいるのだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
「……何? 真昼さん」
「いえ、何でもないわ。やっぱり似てるなあと思っただけ」
「似てるって、誰に?」
「決まってるじゃない。羽柴博士に、よ」
「…………」
そんなことを言われたのは初めてだと言いたげな表情で、当麻はマジマジと真昼を見つめた。
「親父に?」
「ええ」
「何処が?」
「そういうふうに切り返すところ」
クスクスと笑いながら、真昼は思い出すように視線を上へ向けた。
「博士にも言ったことがあるのよ。息子さんと似てますねって。そしたら博士、あなたとまったく同じ反応をしたの」
「…………」
「やっぱり親子ね」
「ほとんど一緒にいたこともない親子だけどな」
やはり苦々しい。
真昼と話をするのは、少し気まずくて、少し嬉しい。
逃げるようにここに来て、そのまま入り浸っても、真昼はちゃんと受け入れてくれる。
当麻が何を避けて、何から逃げたがっているのか、深く追求することなく何も聞かないでいてくれる。
その優しさが苦々しくて、そして気まずくて、少し嬉しい。
「あ、チャイムだ」
やがて、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が鳴った。
当麻は名残惜しそうに腰を上げ、化学準備室を後にした。 

 

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