火のない煙 (3)

「そろそろ下校時刻だぞ。残ってる生徒はすみやかに…って、姫?」
鷹取と伸が二人で残っていた教室に、見回りの為訪れたのは聖だった。
「あ…聖さん」
「すいません。今帰りま……って、姫??」
二人同時に顔を上げ、次いで鷹取が素っ頓狂な声をあげた。
「お前、姫ってなんだよ? それに聖さんって、それ如月先生のことか?」
「……あ……え…と」
そう言えば、人魚姫の製作にかかわっていない人達にとっては、聖の名前はそこまで浸透しているわけではないのだ。
いちおう教室内では聖もそのことを気にして、ちゃんと自分のことは如月聖彦だと名乗っていたし、伸も周りに人がいる時は、ちゃんと先生と呼ぶようにしていたのだが、放課後で気が緩んでいたのだろう。
慌てて伸が鷹取に聖のことを説明すると、鷹取はひととおり説明を聞き終えた後、じろりと値踏みするような視線を聖に向けた。
「なるほどね。そういえば試写会の時、見かけたような気がする」
お互いを認識はしていないが、すれ違ったことは思い出したようだ。
聖も苦笑しながら、軽く頭を下げた。
「そっちも試写会にいたよな。もしかして姫の友達?」
「まあね。どっちかっていうと伊達を通しての知り合いだけど」
「伊達王子?」
「剣道部元主将、鷹取と申します」
「ああ、剣道部。そうか……」
にこりと笑って挨拶を返そうとした聖に向かって、鷹取は急に威嚇するように立ちあがった。
「で、あんたは毛利姫のなに?」
「…た、タカ!?」
慌てて伸が二人の間に割り込んだ。
「さっき言っただろう。聖さんは人魚姫の製作の手伝いをしてくれた人で……」
「それは聞いた。オレが知りたいのはそれ以外のことだ」
「……どういう意味かな?」
聖が困ったように眉をひそめた。
「彼の人魚姫をとても気に入ったんで、ついつい姫なんて呼んでしまっているが、それが気になるなら校内ではちゃんと気をつけるよ」
「…………」
聖の言葉を聞いても鷹取の厳しい表情は崩れない。
いったいどうしたのかと、伸が不安気に鷹取を見上げると、鷹取がゆっくりと聖から伸へと視線を移した。
「………?」
そして再び視線を聖へと戻す。
「なるほどね。だいたい分かった。どうりで荒れるわけだ。あのガキ」
「………え?」
伸の背筋を冷たいものが伝った。
「お前があいつに何も言えない理由もそれだろう?」
「…………」
「……ったく、どいつもこいつも」
はき捨てるようにそう言うと、鷹取はおもむろに鞄を抱え、教室から出て行ってしまった。
ガラリと大きな音をたてて扉が閉まる。
「……彼は、何者?」
しんとした教室に聖のつぶやきが漏れた。
「まいったな……」
「……なに…が…?」
「彼、今、王子と同じ眼をしてオレのことを見てた」
困ったような、悔しそうな微妙な表情で聖がため息をついた。

 

――――――「伊達はいるか?」
元主将の久しぶりの来訪に、剣道部一同の間に緊張が走った。
即座に、後片付けを行っていた下級生の一人が、すでに帰り支度を開始していた征士のもとへと伝令に走る。
さほどもしないで部室から出てきた征士は、待っていた鷹取の様子に僅かに眉をひそめた。
「先輩? どうかされたのですか?」
「どうか…とは?」
「あまり機嫌がよくないように見受けられます」
「………ちょっと、いいか?」
征士の指摘に若干苦笑を洩らしながら、鷹取はクイッと顎で一緒に来るように征士を促した。
「では、お先に失礼します」
三年生の抜けた今、部内では最高位にいるだろうくせに、相変わらず丁寧な礼をしてから、征士は鷹取の後を追った。
そして、廊下に並んで歩き出したとたん、窺うように視線を向ける。
「もしかして、当麻の噂のことですか?」
「……勘がいいな。お前にしては」
「他の理由が思い当たらなかったので」
普段、噂やゴシップの類とは距離をとっているだろう征士にしても、今回の噂だけは耳に入ってくるのだろう。
「だが、オレが知りたいのはそっちじゃない」
「……え?」
「あの聖という男、何者だ?」
「……!?」
思わず立ち止まり、征士は驚いて鷹取を見上げた。
「聖…さん……ですか?」
「あの先生も、お前達の知り合いなんだろう?」
「あ……はい」
「文化祭で展示されてた人魚姫のパネル。あの写真を撮ったのは奴だっていうのは本当なんだな」
「そうです」
「で、あの男は信頼に値する奴か?」
「値します」
意外なほど即座に征士はそう返答した。
一瞬言葉に詰まった鷹取は、それでも小さく息をはくと、僅かに肩をすくませた。
「なるほど。それは困ったことだな」
「はい。困っています」
「決着は付いているのか?」
「います」
そう言いながら、ふと征士はうつむいた。
いっそのこと。あの人が信頼に値しない人であればよかったのに。
夏休みに感じた想いが再び蘇る。
「大丈夫か。お前達の知恵袋は」
「……分かりません。現時点で明確な回答は誰にも出せないと思います」
「だろうな」
今度こそ、大きく鷹取はため息をついた。
「それに、一番困っているのは、オレ達じゃなく、あいつだろうし」
「………え」
鷹取が向けた視線の先を追い、顔を上げた征士は、その場で固まったように制止した。
中庭を挟んだ向かい側の校舎。一つだけ明かりのついた教室から出てきた一人の細身の影。
「……当麻?」
「あそこ、化学準備室だよな」
「……そう…です」
絞り出すような声で征士は答えた。

 

――――――「悪かったね。気を付けてはいたんだけど」
鷹取が立ち去った教室内で、聖は困ったようにそうつぶやいた。
「オレがいつもの調子で姫なんて呼んだから、気を悪くさせたんだろう」
「別に、そんなこと……それに聖さんが謝ることはないと思います。だいたい失礼な態度をとったのはあいつのほうじゃないですか」
「…………」
「憶測と思い込みで、勝手に誤解したのは鷹取のほうです」
「……誤解?」
聖の返しに伸は思わず口をつぐんだ。
「誤解……って?」
「…………」
伸は聖を見上げ、慌てて視線をそらした。
そうなのだ。
誤解も何も、自分達は鷹取の前で何もしていない。
しいて言えばお互いを愛称で呼んだということだけだ。でも、その程度なら誰だってやっている。鷹取だって、伸のことをたまに毛利姫と呼んでいるじゃないか。
邪なことは何もない。
何もないはずなのに。
だいたい、そもそも誤解とは何だ。何を誤解したというのだ。
それとも。
鷹取には分かってしまうのだろうか。
自分達の間にあるものは、それだけではないのだということが。
「……やっぱり断れば良かったかな」
「断るって?」
思わず伸が顔を上げると、聖は寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「今回の教育実習。本来であれば他の学校へ行くはずだったんだよ」
「そうなんですか?」
「ふつうは母校へ行くからね」
「ああ……そうです…よね」
必ずというわけではないが、教育実習には、自分の母校へ行く者が多い。だが、聖の母校は山口県にある。行きたくても行けなかったのだろう。
「それでもここには聖香もいるし、出来れば他の所と思ってたんだけど、うまくスケジュールが合わなくて。そんな時、真昼…村瀬さんがここに行くことに決まって、もう一名なら増やせるって言われたものだから」
「そうだったんですね」
では、聖が伸のいる三年生を担当し、真昼が当麻のいる二年生を担当することになったのは、二年に聖の妹である聖香がいたからなのだろう。
偶然といえば偶然なのだろうが、それにしても、この偶然は悪意に満ちてはいないだろうか。
何故、聖が近くにいる時、当麻のそばに真昼という人物が現れる羽目になったのだろう。
聖がそばにいる限り、自分は当麻に何も言えなくなるというのに。
聖のそばにいると心が安らぐ。
ずっとそばにいてほしいと思える。
でも、同時にそれはなんだかとても苦しい。
胸が苦しくて潰れそうになる。
分かっている。これは罪の意識なのだ。
”……ったく、どいつもこいつも”
はき捨てるようにそう言った鷹取の声が蘇る。
頭の中で響き渡るその声は、なかなか伸の中から消えてくれない。
いくら鷹取が勘の鋭い男だとしても、一目見ただけで見抜かれるほど、自分はまだ聖に惹かれているままなのだろうか。
心にわだかまる罪の意識が、何も言えなくしている。
どうすればいいのか分からない。
「やっぱりオレ…姫を追い詰めてるな。ごめん」
「そんなこと…ないです」
「……伸」
「ない…です」
うつむいた伸を聖がそっと引き寄せた。

 

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