火のない煙 (2)

あの羽柴が教育実習に来てる美人先生と仲良く歩いていた、という噂は次の日驚くほどの速さで広まった。
当麻のクラスメートが、真昼が当麻のことを「当麻君」と呼んだという事実を認めたことも、その噂に拍車をかける結果となった。
「……別に、重そうだったから持ってやっただけだよ」
「やっぱ、本当だったんだ」
運悪くその現場を見逃した当麻のクラスメートである鍛治が、昼休みいつものように屋上へと向かおうとしていた当麻を呼び止めたところ、当麻はだからどうしたと言わんばかりの態度でその事実を肯定した。
噂の真相に対し、半信半疑だった鍛治は、あまりにもあっさりと当麻が認めたことに少々拍子抜けしたようだった。ただ、それでも興味がないといえば嘘である。
ついつい更に追及しようと、鍛治は当麻の行く手を遮る形で前を塞ぐと、にやりと笑った。
「にしても珍しいな。お前、普段そういうことしないだろ?」
「そうだっけ?」
「少なくとも進んで親切するタイプじゃないじゃん。もしかしてお前でも相手が美人だったら態度が変わるのか?」
「そういうつもりはないが……」
「じゃあ……」
「真昼さん…じゃない……村瀬先生とは、ちょっと知り合いなんだ」
鍛治の目が大きく見開かれる。
「……真昼…さん? 今、お前、真昼さんって言った?」
「あ…いや……それは」
慌てて訂正しても、時すでに遅し。
焦る態度が、まるで照れているように見えたのも、当麻にとっては想定外の効果だったのだろう。
当麻と真昼に対する新たな噂は、更に加速する結果となってしまった。
しかも、そうとうな尾ひれをつけて。

 

――――――「……って、どう思う? 遼くん」
「どうって…それをオレに言われても」
新聞部の部室で聖香に詰め寄られ、遼は困ったように後退りして、壁に背中を押しつけた。
「当麻が先生と知り合いだったっていうのは本当のことだし、その頃の癖で名前を呼んでしまうってことも別におかしくないんじゃないのかな?」
「それだけじゃないのよ。羽柴くん、昼休みはいつも屋上に行くことが多いのに、昨日は姿を見なくて。そうしたら村瀬先生に呼ばれて化学準備室へ行ってたって言うじゃない」
「……そう、なんだ」
「先生の呼び出しなんか、いつも完全に無視してるあの羽柴くんが、村瀬先生の呼び出しだったら行くんだーって大騒ぎだったのよ」
確かに、言われてみれば珍しいことなのかもしれない。
当麻の態度に腑に落ちない部分があることも事実だ。
知り合いだったから無視出来なかったというのは分かるが、それでも、いつもの当麻なら出来る限り騒ぎを避ける方法を探したはずなのだ。
たとえ根も葉もない噂だとしても、それを伸の耳に入れたくはないだろうから。
注意力が落ちているのか。それとも、考えたくないが、実際に根も葉もあるということなのか。
或いは、わざと、なのか。
でも、もし当麻の行為が、わざとだとしたら、それはどういう意味を持っているのだろう。
「それに、羽柴くんって年上好きなのよね」
すねたような聖香の言葉に、遼は戸惑った視線を向ける。
「……え…と」
「冗談でそれを聞いた子がいたんだけど、羽柴くん、否定するでもなく、普通に頷いたのよ」
「……年上って、別にそれは先生を指してるんじゃないだろう?」
年上といえば、間違いなく伸だって年上なのだ。
「分かってるわよ、そんなこと。でも他の人達は知らないじゃない。そうしたら、誰だって思うわよ」
「思うって…何を」
「……脈ありだって」
「…………」
「絶対何かあるんだって。あの二人、ただの知り合いにしては親しすぎるって。どういうつもりなのよ。あんな噂流されて。それともみんなが言ってるように本当にあの二人、何かあるの!?」
「…………」
憤る聖香を見つめている遼の心に何故かもやもやとした何かが渦巻きだした。
「……ねえ、如月さん」
「何?」
「どうしてそんなに怒ってるんだ?」
「……え?」
聖香が驚いた顔を遼に向けた。
「どうしてって……」
「当麻が誰かと噂になったとして、それで如月さんが怒る理由が分からない」
「………!!」
「当麻と先生の間に何があったのかを知りたいなら、直接当麻に聞けばいい。それなのにどうしてオレに言うんだ?」
「それは……」
「もしかして、当麻には直接聞きたくないとか?」
「…………」
「当麻に聞いて、もし噂が本当だったとしたら……」
「ち…違う」
声を詰まらせ、聖香がうつむいた。
「違うの…そうじゃない」
なんとなく重苦しい空気が周りを漂い出す。
「ごめんなさい。遼くんにこんな話題振るべきじゃなかったね。忘れて」
やがて低くつぶやいて、聖香は部室を出て行った。
遼はそのまま部室に残る。
何故聖香が怒っていたのか。何故聖香が違うと言って謝ったのか。
遼には分からない。
ただ、それでも。
心の中に湧き上がったもやもやは、しばらく消えてくれなかった。

 

――――――「なんだかあまり耳によろしくない噂が広がってるみたいだが、大丈夫か? お前ら」
放課後の教室にわざわざ顔を出し、鷹取は帰り支度を始めていた伸の目の前の席にドカッと腰を下ろした。
「噂って?」
「しらばっくれんな」
真っ直ぐに見据えてくる鷹取の視線に、伸は諦めたように鞄に教科書を入れる手を止めた。
「噂は、ただの噂だよ」
「火のない所に煙はたたず、とも言うぜ。実際問題、あの二人が知り合いだってのはマジなんだろ?」
「そうだよ」
「どんな知り合いなんだよ」
「当麻のお父さんの研究所で、一時期、助手をしてたことがあるんだって」
「助手? ああ、そういえばやっこさんの父親って巷ではマッドサイエンティストとか呼ばれてる博士だっての本当だったんだ」
「最近はほとんど日本にいないらしいから、当麻もずっと会ってなかったんだけど、たまたま春休みに戻って来てて……」
「その時に会ってたってわけか」
「そう」
「なるほどね。出会った過程は分かった。でも、それだけじゃ分からないことがある」
「……何?」
「いくら父親の研究所でしばらく一緒にいたからって、どうして奴はあの先生を特別視してるんだ?」
「……特別視?」
そうなのだろうか。伸が窺うように視線をあげた。
「気付いてないのか?」
「……さあ。別に僕だって当麻の交友関係を全部知ってるわけじゃないし」
「だとしても……って、何? お前らもしかして喧嘩してるのか? まさかあの文化祭前のこと、まだ引きずってんじゃないだろうな」
「いつの話してるんだよ。あれは君がくれた珈琲券のおかげで仲直りしただろう」
「だよな。って、でもあん時は結局二人きりで来てくれたわけでもなかったじゃないか。デートになんないだろ」
「もともとデートとかじゃないし」
先日行われた文化祭。
鷹取が仲直りのツールとしてくれた喫茶店の珈琲券は、結局5人で分け合う形になってしまったのだ。
「しかたないだろう。秀が二人だけタダなんてずるいって騒ぎだしたから、じゃあ全員で行こうって話になっちゃって。でも君だって喜んでたよね」
「そりゃ、綺麗どころがそろってくれて、あの時間帯の集客率、かなりアップしたからな」
色々と有名である5人組。うち、中でも特に征士と伸が一緒にいるということで、見物がてら、その時だけかなりの生徒が鷹取のクラスに押し寄せたのだった。
「まあ、あれには感謝してるよ。予想外だったけど」
「嘘つけ。一緒に来ればいいなあとか内心では思ってたんだろ」
「ご明答。そこまで観察眼鋭いくせに、なんであの天才児のことだけ分かんねえんだ? お前」
「…………」
ムッとしたのか、ばつが悪かったのか、思わず沈黙した伸を見て、鷹取はふっと笑みを浮かべ、頬杖をついた。
「そんだけ好きなんだなあ……」
「馬鹿言うな」
「恋は盲目っていうじゃないか」
「それ、意味が違うし。だいたいそんなんじゃないよ。ただ……」
「ただ? 何? やっぱ、あるんじゃないか。何か」
なんとなく誘導尋問に引っ掛かったみたいになってしまい、伸は憮然とした。
「何かってわけじゃないよ。ただ、僕が来年あの家を出るっていうだけ。君も知ってることだろ」
伸の言葉に鷹取の表情がすっと引き締まった。
来年早々に伸は柳生邸を出て、正人と二人暮らしを始める。
だからと言って、伸と当麻の関係に変化があるわけではなく、まして伸と正人の間に何かがあるわけでもないだろう。そんなことは理解している。
それでも。やはり、ずっとそばにいられた今までのような状況はもうないのだと。
お互いに離れ離れでの生活が始まるのだということは事実なのだ。
そして、それはもう目前まで迫ってきている。
「……二年くらい前だったかな。当麻が突然誰ともあまり話をしなくなったことがあるんだ」
ポツリポツリと話し始める伸の言葉に鷹取は無言のまま耳を傾けた。
「お正月の直前だった。僕達…当麻以外の全員が実家へ帰ることになって、当麻一人だけが家に残ることが決まったんだ。その後すぐ」
「…………」
「秀に言わせると、独りに慣れる為の準備に入ったんだっていうことだったけど」
「…一緒に帰ろうとか誘わなかったのか?」
「誘ったよ。僕も、秀だって。でも当麻は何処へも行こうとしなかった。ただただ、独りであることに慣れる為に、自分の殻に閉じこもろうとしたんだ」
「ま、分からなくはないな。一人で過ごす正月は、さすがに厳しいものがあるから」
「……あ」
そう言えば目の前にいるこの男も、恐らくずっと一人で正月を過ごしてきたのだ。
両親を失ってから、ずっと。
「ごめん……」
「何謝ってんだよ。変な奴」
くすりと鷹取が笑った。
「ま、つまりは、現在やつはその、お前がいないことに慣れる為の準備期間に入ってしまっているってことなんだな」
こくりと伸はうなずいた。
「たぶん、そうだと思う……だから、当麻が僕以外の誰かに、拠り所を求めたとしても僕にはそれを止める権利はない」
「相手が村瀬真昼だとしても、ってか」
「…………」
村瀬真昼。廊下で見かけたことはあったが、担当の学年ではない為、伸も鷹取も話をしたことはない。
ただ、確かに美人だった。
溌剌として、活発で、でもちゃんと女性らしくて。
例年の教育実習生に比べ、二年生の中でもかなりの人気だということを聞く。
だからこそ、当麻との関係も、噂になってしまったのだろう。
それほどに魅力的な女性。
知り合いでなかったとしても、当麻が彼女を気に入った可能性は高いのかもしれない。
「だからって僕が二人の仲を妬くのは筋違いだよ」
「そうは思わないけどな……」
そう言って、うつむいた伸の髪を鷹取はくしゃりと掻きまわした。

 

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