火のない煙 (1)

「二週間という短い期間ですが、いつまでも記憶に残るような時間にしたいと思います。どうかお手柔らかに。よろしくお願いします」
教室の黒板の前に立ち、そう挨拶してにこりと笑った聖の姿に、伸は文字通り固まった。
「ひ…聖さん?」
伸の斜め前の席で、崎谷も驚いて硬直している。
先日の文化祭で顔を合わせた他の生徒たちも一様にビックリした表情で、壇上の聖と担任教師の顔を見比べていた。
季節は秋。
少し遅い、教育実習期間の始まりであった。

 

――――――「どーしたんですか、聖さん。教師になるなんて聞いてませんよ」
ホームルームでの挨拶を終えたとたん、真っ先に崎谷が教室を飛び出して、廊下を歩く聖を捕まえた。
予想はしていたのだろう。たいして驚いた風もなく振り返った聖は、さりげなく後を付いてきている伸の姿を見て、一瞬目を見開いた。
「そんなに気になる?」
「なるに決まってんでしょう」
「……姫も?」
「……!」
崎谷を通り越して向けられた視線に戸惑いつつ、伸も素直にこくりとうなづく。聖は思わず浮かんだ笑みを下げ、少し困ったような態度でポリポリと頬を掻いた。
「実は正直言うと、今回の教育実習は、単位の為と、何かあった時の保険にと思って決めたことなんだ。って、こんなこと言うと、真面目に教師目指してる人達に悪いんで内緒だけど」
「単位……危ないんですか?」
「そういうわけじゃないけどね。だから保険だって言っただろ」
考えてみれば、教員免許を取る人全員が必ず教師になるわけではない。
普通に就職を考えている学生が、免許を持っていれば潰しがきくという理由で選択することも多いと聞く。恐らく聖はそういった学生に近い立場なのだろう。
もちろん悪いことだとは思わない。
でも、まさか。という気持ちが勝るのも確かだ。
「聖さんは、まっすぐにカメラマン目指すもんだと思ってましたよ」
「そりゃ、そう出来るに越したことはないけどさ」
崎谷の言葉に聖が苦笑した。
「カメラマンの仕事っていうのは、色々と不安定だから。どこかの企業に就職っていうのとは違うし」
「ですよねー」
若干方向は異なるとはいえ、崎谷が目指す映像関係の仕事も、不安定という意味ではカメラマンと大差ないのかもしれない。
そういった点からも、崎谷が聖をかなりリスペクトしているのは事実だろう。
「ま、だからって手抜きをするつもりはないし、この2週間は、精一杯先生を務める予定。ってことで、何かあったら遠慮なく言ってくれると嬉しい。よろしくな」
「わっかりました!」
おどけて敬礼をすると崎谷はさっさと教室へと戻って行く。
なんとなくタイミングを逃し、伸がそのまま聖のそばを離れずにいると、聖は伸を探るように見つめ返してきた。
「オレが先生だと、居心地悪いかな?」
「そ…そんなことはないです。むしろ嬉しいです」
「そう、良かった」
聖がふっと笑みを浮かべる。瞳の色がとたんに優しくなった。
どうしてだろう。聖の笑顔は不思議な感じがする。
温かくて優しい笑顔なのに、少しだけ切なくも見える。
もう慣れたと思っていたのに、やはり少しだけドキリとするのは、まだ心の中に何かが残っているからなのか。
「姫も、そろそろ戻らなきゃ。チャイムが鳴るよ?」
「……あ、はい。って、そろそろ姫って呼ぶの止めてもらえませんか? 如月先生」
「おや、逆襲されてしまった」
現実に引き戻された腹いせにと、思わず口をついて出た嫌みを軽く受け流し、クスクス笑いながら聖は肩をすくめた。そして廊下にチャイムの音が響くのと同時に伸に背を向けて去っていってしまった。
初めて出会ってから二回目の出会いまでは、かれこれ二年以上もあったというのに、しかもその間はお互いの名前すら知らなかったというのに。偶然の再会から後は何かと顔を合わせる機会が多い。
嬉しいような。戸惑うような。
初恋と呼ぶには、あまりにも淡すぎる気持ちを抱え、伸は立ち去って行く聖の後ろ姿を、チャイムの音が鳴り終わるまで、ずっと見送っていた。

 

――――――「え? 伸の学年の実習生って聖さんだったんだ」
夕食時、伸が聖の教育実習のことを話すと、案の定遼が目を丸くした。
「すごい偶然だな。でも聖さんだったら、先生に向いてるかも。教えるの上手かったし」
夏の間から、それ以降も、何かと聖に写真テクニックについて教えを乞うている遼にしてみれば、聖はすでに先生か師匠の域に入っているのだろう。
「教師が最終目的じゃないみたいだけどね。でも確かに似合ってたよ、先生姿」
人当たりのいい笑顔も、耳触りのいいハスキーボイスも、まるでずっと以前からそこにいたかのような壇上での姿も。
なんだか、まるで夢のようだった。
少し、いや、かなり憧れる。
あんな先生だったらなってみたいかも。そんなふうにさえ思えてくるほどだ。
「偶然と言えば、オレ達の学年の実習生もかなりビックリだったよな、当麻」
伸のもの思いを遮るように放たれた遼の台詞に、伸は驚いて、食事を終えてソファに寝そべっている当麻を振り返った。
「ビックリって…何が?」
「…………」
当麻は何故か決まり悪そうに口をつぐんだままである。
「確かに美人だったけど、それがどうかしたのか?」
皿に残った最後の肉を頬張りながら秀が聞いてくると、遼は「それがさー」と声を多少押さえながら可笑しそうに笑った。
「オレも如月さんに聞いてビックリしたんだけど、その実習生、当麻と面識があったんだよ」
「……え?」
「村瀬真昼先生っていう女の先生なんだけど、向こうもビックリしてたって。どうしてここに当麻君がいるの?って」
真昼の口調を真似て発せられた当麻君という呼び方に、一瞬当麻がピクリと反応する。
「二年生の担当は女の人なんだ」
「そう、しかもかなりの美人」
「ハキハキしゃべるボーイッシュなタイプなんだけどさ、髪の毛は長くってそれがまた超綺麗でさ」
「確かに髪の綺麗な美しい先生だったな。授業内容も分かりやすかったし」
遼に乗っかって、秀と征士もその真昼という女の先生のことを褒めだした。
征士に綺麗と言わせるなど、それはどう低く見積もってもかなりのレベルということだろう。
「あんな美人といつ、どこで会ってたんだ? お前」
「何処だっていいだろ。別に……」
秀が詰め寄ると、当麻は少しすねたように唇を尖らせた。
すると、秀に同調して、征士までもがもう少し詳しく説明しろと、無言の圧力を当麻へ加えだす。
伸は窺うように当麻のほうへ視線を向けた。
「…………」
「……今年の春に……ちょっと会っただけだよ。別に挨拶程度しか交わしてないし、それこそ知り合いでも何でもない。まさに面識があるってだけだ」
すねた口調のまま、当麻が渋々と口を開く。
「今年の…春?」
「どういうこと?」
今年の春。自分たちの知らない所で、どうして当麻がその人と。
色々な疑問が、伸をはじめ、みんなの頭に浮かんだ。
その疑問を解消してくれたのは、遼の次の言葉である。
「村瀬先生、春休みに羽柴博士の手伝いで大阪に行ってたらしいんだよ」
「……あ」
そういうことか、と、秀がポンっと手を叩いた。
「ちょうど親父さんから手紙が来て、大阪に帰ってた時のことか」
「そういうこと」
春休み。当麻は大阪。遼は朝日連峰。征士は合宿。秀と伸は横浜。
みんながバラバラになったあの春休み。
そういえば、あれからまだほんの数ヶ月しか経っていないのだ。
「……どうして言ってくれなかったの?」
「別に伝えなくちゃいけないことでもねえだろ」
「……僕は言ったよ」
「…………」
伸の視線に当麻が目をそらす。
確かに、聖がそんなふうに伸と関わり合いになっていること、伸の近くに現れたことを知らずにいたら、自分は気分が悪いだろう。
廊下で偶然会ったとしたら。そして、その時、自分が何も伸から聞かされていなかったとしたら。
別に勘ぐっているわけではないが、それでもあまり良い気持ちにはならない。
伸もそれが分かっていたから、あえて話題に乗せたのだ。
そんなことは分かってる。
分かっているが。それでも。
「別に、何でもないと思ったから……」
言い訳する言葉が尻つぼみに小さくなっていく。
これではまるで勘ぐってくれと言わんばかりじゃないか。
昼間、驚いた顔で自分を見た真昼の小さな顔を思い出し、当麻は心の中で舌打ちした。

 

――――――「村瀬真昼と言います。年齢は、君と一番近いんじゃないかな?」
白髪混じりのおじさんが多い羽柴研究室の中で、確かに真昼は飛びぬけて若かった。
以前、特別講師として博士が大学に来た時、一回だけ授業を受けたのがきっかけで知り合い、この度、大学の春休みの間の臨時助っ人として研究所の一員に加えてもらったのだと、真昼は誇らしげに言っていた。
自分の娘と言ってもおかしくない年齢の女性を研究所に置くとは、親父も変わったなあと思いつつ、本当の息子である自分がそれを言うのもおかしいかと、あの頃、自分で自分に苦笑したことを覚えている。
勝気で、ハキハキものを言うさばさばした性格なのに、ちゃんと女性らしい部分も備えているその真昼の性格や面影は、ほんの少し、自分の母親に似ているような気がした。
それが何だか居心地悪くて、それとなく父親にそのことを聞いてみたりもしたが、博士はそんなこと考えてもみなかったと軽く笑い飛ばした。
その時、当麻はその態度で確信した。
大勢いた学生の中から、どうして彼女が助っ人に選ばれたのか。
だから、必要以上に関わらないよう努めた。出来るだけ近くにいないようにした。
にも関わらず、気が付いたら視線が追っていた。
話しかけられると、少し気まずくて、少し嬉しかった。
苦々しくて。
大学生だということもあり、もちろんドイツへは同行しないメンバーだったし、助っ人も今回限りという話だったから、もう二度と会うことはないだろうと思っていたのに。
思っていたのに。
まさか、こんな所で、こんなふうに再会するなんて。
これは神様の気まぐれなんだろうか。それとも悪戯か。
どちらにしても、あまり趣味がいいとはいえない行為ではなかろうか。
などと言って、実際神なんてものを信じているわけではないくせにと、当麻が思わずため息をつくと、すぐ後ろで足を止めた影があった。
「あら? 当麻君?」
「…………」
顔を上げなくても分かる。
今この学校で自分のことを当麻君などと呼ぶ人間は一人しかいない。
ゆっくりと後ろを振り返ると、真昼は両手に抱えきれないほどの書物を持ち、本棚の裏から顔を出していた。
「やっぱり当麻君だ。こんな所で何してるの?」
「何って……学生が図書室にいる理由はひとつだと思うが」
「確かに。これは一本取られたなあ。でも言い訳させて。なんかどうしても当麻君が学生だって思えないのよ」
「…………」
それはこっちだって同じ。
羽柴博士のもと、助手として過ごしたのはほんの数週間だったが。
それでも出会いが出会いなだけに、今のお互いの立場は、なんだかどこか、ボタンをかけ間違えているような感じがするのだ。
「そっちは、こんな所で何してんの?」
「ああ、授業の為の資料集めよ。本って1冊1冊が重いから大変なの」
「……持ってくの手伝おうか?」
「ホント? 助かるわ」
普段、先生の手伝いなど申し出たためしのない当麻だったはずなのに、その時は不思議とすんなりそんな言葉が飛びだした。
「見た目より力持ちなのね、当麻君」
「別に。普通だよ」
普段から大量の書物を抱え慣れている当麻にとって、この程度の重さは何でもない。
ただ、自分のではなく、他人の荷物を代わりに持つというのは、少し珍しいことであるのは事実。
真昼の抱えていた分厚い書物の半分以上を代わりに持ち、二人並んで廊下を歩く姿に、周りの生徒達が興味深げな目を向けてしまったのも無理からぬことだろう。
でも当麻はそんな視線をまったく気にしない様子で、そのまま今回の教育実習の期間は自由に使っていいと真昼に与えられた化学準備室へと入って行った。
「もしかして当麻君って有名人?」
ガラリと準備室の扉を閉じて、真昼が感心したような声をあげた。
「なんで?」
「だって、ここへ来るまでの間、随分たくさんの視線を感じた気がするんだけど」
「それはあんたが美人だからじゃないのか?」
「………!?」
一瞬、真昼の頬が朱に染まった。
「……あ、いや……」
そうじゃなくて、と言うのも違うだろうし、そのまま肯定するのも、どうにも照れくさい。
自分が無意識にとはいえ、あまり言うべきでない発言をしたことに気付き、当麻はくしゃりと前髪を掻きまわした。
「その癖、相変わらずなのね」
くすりと真昼が笑った。
「くせ?」
「当麻君って、困った時いつも前髪掻きまわすの。気付いてた?」
「……あ」
無意識に頭に乗せていた手を離す。
一緒にいたのは、わずかな期間だったのに、随分と見られていたんだと、少しだけくすぐったい気分になった。
「……よく、覚えてたな」
「まあね。記憶力はいいほうなの。あなたには負けるけど」
「そんな謙遜しなくていいよ。優秀じゃなきゃ、親父も助手に選んだりしないだろうし」
「……だと、いいけど」
そう言ってふわりと笑う真昼は、確かに美人だった。

 

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