火のない煙 (11)

「大丈夫か?」
「……ごめんね。まさか早退するはめになるとは思わなくって」
言いながら伸の口から軽い咳が洩れる。
あの後、保健室で伸が目を覚ましたタイミングで、当麻は伸を連れて柳生邸へと戻った。
伸は終始大丈夫だと言い続けていたが、それでもやはり熱のある身体にバスの揺れは厳しかったのか、ようやく自分の部屋にたどり着いた頃には、かなりぐったりとなってしまった状態である。
「やっぱ風邪だな。なんか口に入れてから薬飲むか?」
「そう…だね。でも、さっき保健室で解熱剤飲んじゃってるから重ねて飲まない方がいいかも。温かくして眠ってればすぐに良くなるよ」
当麻に支えられながら自室のベッドに腰掛けて伸が心配させまいと曖昧な笑みを見せる。
「気分は? 具合悪くなければなんか腹に入れた方がいいと思うんだが」
「大丈夫。不思議と気分は悪くないんだ。なんだか身体がふわふわしてる感じはするんだけど……」
「それって熱がある証拠じゃないか」
「そっか……そうだね」
くすりと伸が笑った。やはり熱の所為なのか、少しだけいつもよりふんわりとした表情に見える。もしかしたら意識もほんの少しぼんやりしているのかもしれない。
当麻がそっと額に手を当てると、伸が軽く目を閉じた。手のひらに当たる熱が少しだけ熱い。
「そうだな…じゃあ、珈琲…はアレだから、ホットミルクでも作るよ」
「ありがと」
伸が柔らかな笑みを見せる。
なんだか久しぶりにいつもの表情の伸を見ることが出来て、自然と当麻の顔にも笑みが浮かんだ。

 

――――――キッチンでミルクを温め、ついでに自分用に珈琲を入れて、当麻が伸の部屋に戻ってみると、伸はベッドの上で軽い寝息をたてていた。
「……寝てんのか?」
とりあえず机の上にマグカップを置き、当麻はベッドのふちに腰掛けた。ギシッとベッドが軋んだ音を立ててマットレスが沈んだが、伸が目覚める気配はない。
どうしよう。
このまま眠らせておいたほうがいいのか。起こしたほうが無難か。しばらく悩む。
ふつうに考えれば、眠らせておいたほうがいいのだろうと思う。ただ、問題があるとすれば伸はまだ制服のままの姿なのだ。
恐らく、当麻が作ってくるだろうホットミルクを飲んでから、ちゃんと眠るつもりで、それまで待っていようと思いつつ、とりあえず横になったとたん落ちたか。
表情に苦しそうなところはない。ただ、よく見ると額やうなじにうっすらと汗が滲んできているのが見える。人は睡眠にはいる直前直後は外気へ熱を放出するので、そのせいで汗が吹き出しているのだろう。
そうなると、やはりこれはそのままにはしないほうがいいだろう。このまま眠らせるにしても、服を着替えさせる必要がある。
「…………」
当麻はクローゼットから伸がいつも眠るときに着ているスウェットと、大きめのタオルを取りだした。そして、タオルでそっと額の汗をぬぐってみる。
柔らかいタオルに汗は吸い取られたが、額にはまだ前髪が僅かな湿気を含んだまま張り付いている。当麻は伸を起こさないように気をつけながら、そっと指で張り付いた伸の前髪を払った。
何故だろう。指が震えている。
どうやら自分はとてつもなく緊張しているようだ。
当麻は一旦伸のそばから離れ、大きく深呼吸した。
まったく、どうかしている。
こんなことは日常茶飯事、とまでは言わないが今までだって普通にあったことだ。怪我をして着替えを手伝ってもらったり手伝ってあげたり。具合が悪い奴を寝かしつけたり。もちろんこんなふうに眠っている相手の汗を拭うことだってあったはずなのに、どうしてここまで心臓がバクバクいっているのだろう。
これは、相手が伸だからなのか。それとも今現在この家の中に、自分達二人だけしかいないという事実の所為か。
シャツのボタンに手をかける。
ひとつ外す。男にしては白い伸の肌が現れる。
次いで、もうひとつ。シャツを掴む当麻の指先にまで緊張が走った。
すべてのボタンを外し終えたところで、伸の鎖骨辺りから、露わになった胸に向かってツーっと汗が伝って落ちた。慌ててその場所にタオルを押しあてる。
汗を拭いたいと思ったのか、さらけだされた胸を隠したいと思ったのか。どちらなのか自分でもよく分からない。
とたんに僅かに伸が身じろぎをした。
「………!」
緊張ではない別の何かが当麻の身体の中心を熱くする。
「ごめ……」
思わずタオルを掴んで硬直してしまった当麻を下から見上げるような形で、伸がうっすらと目を開けた。
「……あれ? 当麻……?」
一瞬不思議そうな表情を浮かべた伸は、次いで自分の部屋をぐるりと見回した。
「あ……そうか。僕、学校早退したんだっけ……?」
「…………」
そして、ボタンを外されて、露わになっている自分の上半身に気付く。
「……あ…」
「……!!」
当麻が慌てて伸のそばから飛び退いた。
伸も、はだけられたシャツの前を合わせ、真っ赤になって当麻を見上げる。
「違っ…、じゃなく、汗かいたまま寝かすわけにいかなかったから、着替えを……」
「あ、ああ、そうだよね。うん。分かってる。こっちこそごめん。寝落ちしちゃって……」
「いや、オレもちゃんと起こしてからやればよかったのに……」
「そんなの僕がちゃんと起きてなかったから悪いんだよ。当麻の所為じゃない……」
「でも、オレは……」
オレは。そのあと何を口走ろうとしたのか。
当麻は慌てて口を閉じ、押しつけるように持っていたタオルを伸に手渡した。
「と、とにかくこれで汗ふいて、ちゃんと着替えてから寝ろ」
「………」
乾いたタオルが遮っているはずなのに、お互いの熱が手を通して伝わってくるような気がした。
「じゃ、じゃあ……オレ、出てるから」
「待って、当麻」
そのまま出て行こうとした当麻を伸が引きとめた。
「もう少し、ここにいてよ」
「……え?」
伸は手を伸ばし、戸惑っている当麻の腕を捕まえ、そのままそばに引き寄せる。
促されるまま再びベッドわきに腰を下ろす形になって、当麻の心臓が再び緊張しだした。
じっと当麻を見つめる伸の目は、熱の所為か若干潤んでいるようにも見える。
衝動が突き上がってくる。
あと少しで触れそうな位置にある指が熱を持ち始めてジンとなる。
苦しい。
「悪い…伸……オレ……」
このままの状態でここにいたら、自分は何をするか分からない。
再び当麻が伸のそばから逃げるように腰を浮かせかけた。
「当麻」
すると、伸はまるで逃がす気はないといったふうに手を伸ばし、そのまま当麻の首の後ろを抱え込んだ。
「……伸…?」
「当麻……先に謝っとく。風邪うつしちゃったらごめんね」
「……え?」
ゆっくりと伸の腕が当麻を引き寄せる。そしてその唇が当麻のそれと重なった。
はじめは軽く。
次いで、深く。
舌が絡めとられる。
唾液が混ざり合う。
喉の奥で微かな音がする。
「……んっ……」
ようやく離れた唇から、透明な糸が跡を引いた。
当麻はもう衝動を抑えることはせず、はだけられたままの伸のうなじに顔をうずめる。
微かな音を立てて、伸の肩から制服のシャツが滑り落ちて行った。

 

――――――まどろみから少しずつ意識がはっきりしてくると、部屋の窓が夕日に赤く染まっているのが見えた。いつの間に夕方になっていたのだろうか。
ぼんやりとしたまま伸は視線を巡らせる。
「起きたのか?」
気付くと、当麻がベッドのわきに椅子を置き、背もたれに肘を掛けた状態で伸を見つめていた。
「当麻……? ずっとそこにいたの?」
「ああ……」
頷きながら当麻は椅子から腰を上げ、ベッドわきまで来ると、ふわりと伸の上に覆いかぶさるような形で唇を寄せた。
「こら……」
軽く触れた所で伸の手が当麻の動きを抑える。
「風邪、うつっちゃうって…」
「もう手遅れだよ」
「……え? 嘘」
慌てて伸がベッドの上に身を起こす。
「本当に?」
「本当。なんか喉の奥がいがらっぽいし、さっき咳も出始めた」
「うわ……ごめん」
「謝るなよ。オレ、今すっげえ倖せなんだから」
そう言って当麻は伸を抱きしめて今度こそ深く口づけた。
僅かな伸の抵抗はすぐに当麻の手によって遮られる。
静かな部屋の中で、伸の発した甘い吐息の音だけが微かに耳に届く。それが何物にも代えがたいほど倖せだった。
「…当麻ってば……」
困ったように伸がつぶやくと、それを遮るようにキュッと強く当麻が伸を抱きしめた。
「お前の風邪だったら、いくらでもうつされてやる」
「バカか…君は」
コツン、とお互いの額を合わせる。
「熱…は、さすがに分かんないね」
「お互い、どっちもどっちだからな」
くすりと当麻が笑った。つられて伸にも笑みが浮かぶ。
その笑顔はドキリとするほど艶っぽく見えた。
「でも、これ以上は駄目だよ。ちゃんと自分の部屋に帰って温かくして寝なきゃ。本当に風邪なんだとしても、今のうちなら軽いまま治るだろうし」
「……そうだな」
名残惜しそうに当麻は伸の身体を離し立ちあがった。
「…………」
視線が絡み合う。
「じゃ…また。ひと眠りしたら、様子見に来るよ」
「うん。ちゃんと休むんだよ」
「分かってる」
そう言って当麻がドアノブに手を掛けようとしたちょうどそのタイミング。突然部屋の扉が大きく開いた。
「伸! 具合大丈夫か?」
ノックも忘れて、遼が部屋に飛び込んできたのだ。見ると、その後ろには秀と征士も控えている。
「あ……ごめん。もしかして寝るとこだった?」
ベッドに横たわっている伸と、今まさに出て行こうとしていた当麻を交互に見て遼が困ったように眉を寄せた。
「大丈夫、今さっき起きたとこ」
にこりと伸が遼に向って微笑みかけた。
「さっきまでちょっとうとうとしてて。おかげで随分楽になったから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「そう…なんだ。オレ、伸が倒れたって聖さんから聞いて、ビックリして……」
「とりあえず先輩から預かったお前の荷物は部屋に放り込んでおいたぞ、当麻」
遼のうしろから部屋に入って来た征士は、そう言って当麻をちらりと見ると、そのまま伸のほうへと視線を戻し、伸の分であろう荷物をベッドわきの机に置いた。
「伸、腹、減ってないか?」
秀が扉の隙間からひょいっと顔を出して訊ねてくる。
「少し…すいてるかな?」
「じゃあ、うどんかなんか作ってやるよ。待ってろ」
「ありがと」
「あ、じゃあオレも手伝ってくる」
パタパタと階下へ駆け下りて行く秀の足音を追って、遼も部屋を出る。
残った征士は、再びちらりと当麻を見てから伸に目を向けた。
「かなり熱が高かったと聞いたが、もう平気なのか?」
「そう…だね。うん。ずいぶん下がったんじゃないかな?」
「そうか、ならいいが」
征士がホッと安心した息を吐く。
「……じゃあ、オレも部屋でちょっと寝てくるわ。夕飯になったら起こしてくれ」
「ちゃんと温かくして寝るんだよ」
「了解」
当麻へ投げかけた伸の言葉に征士が首をかしげる。
「……奴も具合が悪いのか?」
「当麻?」
「ああ」
「ずっとここにいてくれたから、風邪がうつったかもって、さっき」
「伸の風邪が? それは本望だろうな」
「君までそういうこと言う?」
可笑しそうに伸が笑った。それを征士が不思議そうに見つめる。
「……なに?」
「いや、具合が悪いにしては随分と穏やかな表情をしているなと思って」
「そう…かな?」
僅かに伸が首をかしげながら微笑んだ。その仕草と表情に征士の目が釘付けになる。
何故なら、その時の伸は、一瞬見惚れるほどに美しかった。

 

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