眠りの森(8)

5年振りに訪れた城下町は随分と様変わりしていた。
以前だったら路上を元気に走りまわっていたはずの子供達の姿も見えず、目につくものは覇気のない疲れた顔色をした老人や、やつれた女性。
夜光は戸惑ったように編み笠を前に傾けた。
ただでさえ自分の顔を覚えている者がいないとも限らないのに、こう人通りが少なくては目立って仕方がない。すっと人目を忍ぶように家の間の細い路地に身を寄せ、夜光はぼんやりと目の前に立つ巨大な城を見あげた。
何だろう。
思わず眉を寄せる。
子供の頃の幼い記憶と一致しないのは当たり前だとは思っていたが、あの頃この城はこれ程までに禍々しい気配を漂わせていただろうか。
城壁を縁取ってる石はどれも見事に切り出した黒光りする石だ。記憶に無いという事は、自分が此処を去った後、改修、あるいは増築したのだろうか。
昔、夜光の父がこの辺りを治めていた時も、確かにこの地方は裕福ではなかった。皆に慕われる良い領主とまではいかなかったかも知れない。だが、今のこの町の状態とは比べものにならない程、皆の顔は活気に満ちていたはずだ。それなのに。
「死んだはずの跡継ぎがこんな所でうろうろしてたら殺してくださいって言ってるようなものだよ」
「……!?」
突然、暗闇の中から聞こえた声に、夜光ははっと身を固くして腰に差した剣の柄に手をかけた。つーっと背筋に冷たいものが走る。
だが、カチャと鯉口を切る音が響いた瞬間、声の主が慌てて夜光の目の前に姿を現した。
「ちょっと待てよ。敵か味方か確認もしないで刀抜くなんて性急すぎるぞ」
「…………?」
なんと目の前にいたのは夜光より頭一つ分も低い、まだ年端もいかない少年だった。
あんぐりと口を開けて、夜光はマジマジと少年を見おろした。
小さな頭にひょろ長い手足。着物の中に鎖帷子を着込んでるということは町人の子供ではないようだ。だが、かといって武士にも見えない。
利発そうな顔に、夜の空を映したような、印象的な深い色の瞳が特徴的な少年。
「何者だ? お前は」
夜光を見つめ返す瞳がキラッと光った。子供のくせにやけに鋭い目つきをしている。
夜光は警戒心を露わにしたまま、すっと一歩身を引いた。
「何者だ? 敵か?」
「敵ではない」
まっすぐに夜光を見あげて少年が言った。
「あんたのことを役人に売り渡す気なんて毛頭ない。だから、そっちもそのあからさまな殺気を消してくれないかな?」
「…………」
「しかもこっちは丸腰なんだ。こんな子供を相手に刀抜いたなんて、あんたも後味悪くないか?」
「本当に……敵ではないのだな?」
「ああ」
無言のまま、夜光は刀を掴む手の力を緩めた。
もともと本気で刀を抜く気などなかった。用心のため一応持って行けと鋼玉に言われて仕方なしに身につけはしたが、本当に人を切らなければいけない羽目に陥る前にとりあえず逃げようと思っていたのだ。
今の自分に真剣を扱える度量はない。
夜光の身体から発せられていたピリピリした気配が収まったのを見て少年がふっと笑みを洩らした。
「さすが、物分かりがいいな。安心したよ。前みたいに猜疑心の塊だったらどうしようかと思ってたんだが、あんたは違うようだ。少しは変われたってことか?」
「…………?」
何を言ってるのだ、この少年は。
思ったことがそのまま表情に出ていたのか、夜光を見て少年がくすりと笑った。
「気味悪がる必要はないよ。オレは昔のあんたのことを知ってるってだけだから」
「知ってる? だが、私がこの街を出た頃、お前は……」
まだかなり幼かったはず。
言いかけた言葉を呑みこんで、夜光はじっと少年の瞳を見つめた。
初めて見る顔だった。記憶の何処にもない。
なのに何故だろう。ほんの少し、懐かしいような気がした。
「私達はもしかして……以前、会ってるのか?」
少年の瞳がふっと懐かしげに細められた。
「そうだな……会ってるっていえば会ってるっていうのかなぁ……信じられないかもしれないけど、オレ達はずーっと昔逢ったことがあるんだ。ずっとずっと遥か昔に」
「遥か……昔?」
そう。ずっとずっと昔。夜光として生を受けるよりもずっと前。
「そうだったのか。では挨拶の仕方が違っていたな」
「え?」
「初めましてではないということだろう? 初対面でもないのに、いきなり何者だでは、失礼に値する」
「え……いや……それは……」
「一瞬でも刀を抜きかけたことはすまなかった。心から詫びさせてもらう」
「…………」
「そして、改めて。久しぶりだな」
「…………!?」
「そうなんだろう? えっと……」
「あ……ああ、天城。天城っていうんだ」
「そうか天城か……では、天城。 久しぶりだな。私は夜光という。また、お前に逢えて嬉しい」
「……嬉…しい……?」
「ああ、お前にまた逢うことが出来て、とても嬉しいと思う」
「………………」
天城が大きく目を見開いて息を吸い込んだ。

 

――――――「征士の様子はどうだ?」
正人が征士達の部屋に入ると、秀が顔をあげ、ようと挨拶を返してきた。
「相変わらず。昨夜は一度も目を覚まさなかったぜ」
「一度もって、お前一睡もせずに見張ってたのか?」
「まさか……ちょっとは寝たよ」
言った秀の目の下には隈ができている。
一睡もというのは大袈裟だとしても、まず間違いなくほとんどまともには眠れていないのだろう。正人は呆れたようにひとつため息をついた。
「あんま無理すんなよ。っつーか自分の体力を過信するな。お前だっていちおう普通の人間だろ」
「いちおうって何だよ」
「いちおうはいちおうだよ」
秀は正人の軽口に苦笑した。正人も笑い返しながら、ストンと秀の隣に腰を降ろす。
征士は秀の言ったとおり、相変わらず眠ったままのようだった。表情はまだ比較的穏やかなので、平和な時を過ごしているのだろうか。
ただ、それもあと少しの間だろう。
あの後起こる出来事を思いだし、正人は少しだけ表情を険しくした。
「ちゃんと寝て、少しでも楽になれよ。お前が倒れちゃ話にならないからな」
「大丈夫だよオレは」
「何言ってんだ。お前、今、結構いっぱいいっぱいだろ?」
「……え?」
「昨日、いや征が眠り初めてからずっと、かなりギリギリ状態だと見たが、大丈夫か?」
「……なんで?」
「…………え?」
「……なんで、そんなこと」
分かるのか。秀は目でもう一度正人に問いかけてきた。正人は困ったように肩をすくめる。
「なんでと言われてもなぁ……」
「……勘か?」
「そう言うなら……そうだな。オレのっていうより烈火の…だけど」
「……烈火の?」
「ああ」
正人が秀と会うのは、これで2回目でしかないのだ。つまり今までの普段の秀を正人はほとんど知らない。
だから、今の秀がいつもと違うなどと思うとしたら、それはもう勘としか言いようがない。
それも、正人ではなく烈火の。正人の中にいる烈火の勘なのだ。
正人は曖昧な笑みを秀に向けた。
「にしてもお前は偉いな。何だかんだ言って、一番征のそばについてる時間長いんじゃないか?」
「……これくらいしか出来ないからな。オレ」
「これくらいしか……じゃなくて、それだけ出来るってので充分なんだよ」
「別に充分じゃねえよ」
正人の言葉を遮って秀はそう言った。
「こんなの全然充分じゃない。だって……オレは見てるだけしか出来ないんだ。いつもいつもいつも」
「…………」
「今だってそうだ。オレはこいつの額に触れることすら出来ないんだぞ。ただ見てるだけなんて、そんなもの何の役にも立ちゃしないじゃねえか」
正人は一瞬驚いたように目を見開いて秀を見た。そして、すぐに納得したような表情に戻り、くしゃりと秀の髪を掻き回した。
「……そっか。お前は……手当てをしてやりたかったんだもんな」
正人が言った。秀は思わず戸惑ったように正人を見る。
「……て……あて……?」
「そう。手当て。痛いところに手を当てる。背中をさすってやる。手を握る。額に触れて熱を測る」
「…………?」
「相手に触れることで相手の傷を癒す手当て。そういう手当がしてやりたかったんだよな。お前は。ずっと。ずーっと。」
「…………」
「結構きついよな。相手の傷口に触れての手当てが出来ないってのは」
秀がゆっくりと大きく瞬きをした。
「でも、大丈夫だよ。たぶん、きっと今の征には、それだけで充分なんだ」
「充分……?」
「ああ、きっと……な」
何が充分なのだろう。自分は本当にただ黙ってそばに居てやることしか出来ないと言うのに。
その行為の何処が充分なんだろうか。
「なあ、それも……やっぱ、烈火の記憶なのか?」
秀が探るように聞いてきた。一瞬躊躇したが、正人も静かに頷く。
「そうだな……そうだろう。オレの中で烈火や柳が……そう言ってるような気がするから」
「烈火と柳……そっか、正人ってもしかして全部思いだしてるのか? 昔のこと」
「……え……まあ。思いだすってのとはちょっと違ってるけど」
「……?」
純粋に不思議そうな顔をして秀が首を傾げた。
「違うのか? だってお前も夢に見たりして記憶が戻ったんだろう?」
「夢? ああ、そういうのとは違うな。だってオレ、言っちゃあなんだけど、2年前までは過去世とは関係ない一般人だったんだぞ」
「……あ」
「だから、思いだすってのとはちょっと違う。うまく言えないんだけど、ある日突然、分かったっていうか、知ってたっていうか……気が付いたら全部の記憶があって、そうしたら知らなかった頃の自分を思い出せなくて……」
「………………」
秀の眉間に皺が寄った。
「それ……めちゃくちゃ混乱しないか?」
「したよ。それこそパニック状態だった。だってさ、あの時までオレはただの木村正人って野郎で、他の何者でもなかった。過去の記憶も戦いの歴史も烈火の気持ちも何も知らないし、知っていなくて当然だった。それなのに……」
言葉が途切れた。
そして、正人はふと秀の顔を見つめた。正人の顔の中で黒曜石の瞳が揺れる。それは、鋼玉が覚えている烈火の瞳と瓜二つだった。
「……そ……それで?」
続きを促していいのかどうか迷いながら、それでも秀は窺うような視線を正人へ向けた。
正人は少し困ったような笑顔を向け、そして、何故か罪の告白でもするかのように低く呟いた。
「……伸に逢いたくなった」
伸に。
逢いたい。
その行為の何が後ろめたいのか。やはり秀は少し不思議そうに首を傾げた。
「伸に? ああ、伸に聞けば色々分かると思ってってことか?」
「……だったら良かったんだけどな」
「…………?」
正人が返してくる言葉の意味が秀にとってはよく分からなかった。
でも、烈火の記憶が正人の中に流れ込んできた時、正人が苦しんだのだろうということは何となく分かったような気がした。
もちろん気がするだけで、その頃の正人の状態を完全に理解することなどあり得ないのだが。
烈火の中でうごめいていた様々な記憶達。恐怖、怒り、絶望、届かない想い。いきなり、そんなものを押しつけられて、普通の人間が平気でいられるわけがない。
そんなわけがないことだけは分かる。でもきっと自分には永遠に分からない。
秀は小さくため息をついた。
そう。分からないのだ。きっと自分には。
何故なら、自分はそんな経験は持ち合わせていないから。
鋼玉の記憶も禅の記憶も、まるで自分が拒否反応を起こさないよう気を遣ってでもいるかのようにゆっくりと記憶の中に浸透してきた。
ゆっくりと少しずつ時間をかけて。
だから、正人のように突然すべてを知るなんていうことはなかった。
それに、恐らく現段階では遼を除いて自分が一番過去世を思いだしていないのだろう。
そうだ。
思いだしていないのだ。きっと。
「なあ……正人」
「ん?」
「夜光ってどういう奴だった?」
「……え?」
突然の秀の問いかけに、さすがに驚いて正人は目を見開いた。
「何? 今更。覚えてないのか? お前」
「……ああ」
正人の問いに秀は少し悔しそうに頷いた。正人は驚いた表情のまま口を閉じる。
「オレ、何でだろう。夜光のこと、あんま覚えてないんだ。そりゃある程度の記憶はあるし、当麻から聞いた話も色々あるさ。でも、何だろう……肝心な所がすっぽり抜けてるっていうか、忘れてるっていうか……」
「……そっか」
聞きながら、正人は考えを巡らすように視線を宙へと泳がせた。
「そう言われると……鋼玉って、あんまりコウにかまってなかったような気がするな。だから覚えてることが少ないのかな?」
「かまってなかった?」
「ああ、オレ達、鋼玉に剣や体術や、いろんなことを教わった。鋼玉はオレ達中では一番の年長者だったし、みんなに平等に接してたのは確かなんだけど……ただ……」
「ただ?」
「鋼玉って、よく冗談でオレ達の首絞めたり羽交い締めにしたり、髪の毛ぐちゃぐちゃに掻き回したり、そういった今で言うスキンシップが多い人だったんだけど、不思議なくらい、夜光にだけはしなかったんだ。もちろん嫌ってるとか苦手意識持ってるとか、そんな感じでは全然なかったんだけど」
「…………」
「オレが覚えている限り、一度も。そうだよ。一度もそんなふうには夜光に触れた事がなかった気がする。もちろん体術の稽古で組み手をやったりする時はちゃんと組んでるから、絶対ってわけじゃないんだけど、でも……」
「…………」
「ま、キャラ的にそういうことする相手じゃなかったって事なんだろうとオレは思ってたけど……」
そう言いながら、正人はじっと秀を見据えた。秀もなんとなく口を閉じたまま正人を見返す。
もしかしたら、鋼玉は。
お互い、一瞬の間の後、口を開きかけたその時、2人の耳に階下で電話のベルが鳴り響くのが聞こえてきた。
「…………?」
こんな時間に誰だろう。結局そのまま話を中断し、2人は階下の音に耳を澄ませた。
伸らしき声が電話口で誰かと応対しているのが途切れ途切れに聞こえ、その後、その声が階段を上る足音と共に近づいてきた。
そしてそのまま部屋のドアが開けられる。
「どう? 征士の具合は変わらず?」
受話器の保留ボタンを押しながら伸がドアから顔を覗かせた。
「ああ、どうした?」
「うん。剣道部の部長から電話なんだ。征士の無断欠席がこれで3日目だって」
「あ……」
そういえばすっかり忘れていた。征士は普段、毎日剣道部へ通っていたのだから、突然休みが続いたらこうなることは分かり切っていたはずなのに、動転していて誰も部への連絡をしていなかったのだ。
「それで……理由を本人に話させろ……と。まあ、もっともな言い分なんだけど。電話に出られない状態だなんて言ったらややこしくなりそうで……どう答えようか?」
「いいよ。オレが話す」
秀がずいっと手を出し、伸から電話の子機を奪い取った。

 

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