眠りの森(7)

「冗談……だよね?」
伸がそう聞くと、正人は静かに首を振った。
「オレはこういうことで冗談は言わない男だ。お前も知ってるだろう?」
「そりゃ……知ってるけど……でも……」
戸惑いを隠せない状態で、伸は混乱したままの表情を正人に向けた。正人は少し情けなさそうに顔をくしゃりと歪ませる。
正人はいつも明るくてお調子者で、冗談好きな男だった。
でも、伸に対し、この手の冗談を言ったことは一度もなかったはずだ。
「ごめんな。お前を困らせるつもりでこんなこと言ってるんじゃないんだ。オレだってお前の気持ちは知ってる。奴との仲を邪魔するつもりもない。でも、ちょっと駄目だ。今、かなりヤバイくらい自分が制御出来なくなってる。だから、聞くだけ聞いてくれ」
そう言って、正人は伸の腕を掴んだまま俯いた。
「オレ、お前が好きだ」
「正人……」
「本当なんだ。嘘じゃない。オレは本気だ」
「…………」
「大丈夫。だからってお前にどうこうして欲しいとか思ってるわけじゃない。何も望んでなんかいない。ただ……」
「……ただ……?」
囁くように伸が聞き返すと、正人はようやく顔をあげて伸を見た。
「お前にオレの気持ちを知って欲しかった」
「…………」
正人の言葉は確かに嘘ではないと思えた。でも、なんだか現実感が湧いてこない。それは今まで自分が正人をそういった対象として意識したことが一度もなかったからなのだろうか。でも、それは正人も同じだと、どこかで思っていた。
友人で幼馴染みで。どちらかというと兄弟のような感覚。それが一番しっくりくる。
「やっぱ、信じられないって顔だな」
「別に……そんなこと……」
「いや、そうだろう。オレだってそうだし」
「……え?」
「知ってるか? 烈火はお前のこと愛してたんだぜ」
突然出てきた烈火の名前に、伸は驚いて目を見開いた。
「それ……どういう……」
「どうもなにも、そういう意味だ」
そういって正人はやはり泣きそうに顔をくしゃりと歪ませて笑った。
「オレの中で今までと違う感情が湧いてきたのは、あの頃。オレの中に烈火が入った頃だ」
「……え?」
「だからこれは、たぶん……いや間違いなく烈火の想いなんだよ」
「…………」
「烈火の気持ちや感情がオレの中に流れ込んできたとたん、オレの意識が変化した。そう考えればすべて納得できた。いや、そう考えなきゃ納得出来ないと思えたんだ」
「……正人……」
「お前が好きだ。自分でも信じられないくらい。まさかこんな事になるなんて思ってもみなかった」
「…………」
「オレは自分自身が分からなくて戸惑って、結果、距離を置いた。そうすれば治まると思ったから」
くすりと自嘲気味に正人は笑う。
「でも、駄目だ。オレの中で烈火が暴れ出すんだ。お前に逢いたくて」
逢いたくて。
「本当だ。嘘じゃない。烈火はお前を……」
「…………」
「お前を愛してたんだ」
正人はもう一度そう言った。伸は戸惑ったように大きく首を振る。
「信じろよ、伸」
「でも……」
「ああ、お前って言う言い方だからおかしいのか。じゃあ訂正するよ。烈火は……あの人は、本気で、心の底から水凪を愛してたんだ」
烈火が水凪を?
それこそ信じられない。
伸はもう一度首を横に振った。
「違う……あの人が水凪を慕うのは、家族への愛情みたいなもので……」
掠れた声で伸は反論した。でも、その声はあまりにも弱々しくて何処へも届かない。
正人はふと慈しむように微笑んで伸を見つめた。その表情に烈火のそれが重なる。
「烈火が自分の気持ちに気付いたのは、死ぬ寸前だよ。伸」
「…………」
正人の言葉に、伸の表情が凍り付いた。
「何……言って……」
炎の中。
舞い落ちる火の粉。
忘れられないくせに、今でも思い出す度、拒否反応が返ってくる。
「気付いたんだよ。あの時、ようやく。自分がどれほど水凪を……いや、やっぱ正確に言うと水凪じゃないな……斎の姫だ。彼女を愛していたんだって事に烈火は気付いたんだ」
「…………」

やっと解った。
ああ、そうだ。
自分は少しも変わっていない。
「…………い……」
愛していました。貴女を。気が遠くなる程。
愛していました。貴女を。想いは永遠に届かなかったけれど。
「……斎の…巫女?」
「そう……」
「…………」
「ずっとずっと……それこそ産まれる前からずっと、烈火は水凪に恋をしていた。斎である水凪に。あまりにも気付くのが遅すぎたんだけど」
「…………」
「あの炎の中で、初めて気付いた。どれほど烈火が……いやオレがお前を欲していたのか」
「正人……?」
「違う……オレじゃない……」
「正人? どうした……」
「ごめん……分からない。オレ、混乱してるかも……」
正人は言いながら伸の肩口に顔を埋めると苦しげに息を吐いた。
「……ホントにごめん。お前を困らせたくなんかないんだけど……でも、どうしていいか分からない」
「…………」
「ごめん……」
「…………」
「ごめん……分かんないんだ」
「あ…謝らないでよ……正人。おかしいよ……」
正人はゆっくりと顔をあげ、泣き笑いのような表情を見せた。
「なあ……オレ、やっぱりお前の前から消えた方がいいかなぁ……?」
「……え?」
「いなくなった方が、いいのかなぁ……?」
呟くように正人はそう聞いてきた。伸は思わず激しく首を振ると正人の頭を抱きかかえた。
「そんなことない。此処にいて」
「……伸?」
「大丈夫だから、此処にいて」
何が大丈夫なのか、正直言って自分でも分からない。
でも、此処にいて欲しいと思った。
「お願いだから、此処にいて」
それは烈火に対しての感情なのか、正人に対しての感情なのか、もうよく分からなかったけど、ただ、此処にいて欲しいと思い、伸は繰り返し、そう言い続けた。

 

――――――ガキンっと木刀の交わる音が谷間にこだまし、夜光の手からはじき飛ばされた剣が空中を舞って地面にカランと転がった。
肩で息をしながら夜光が悔しそうに鋼玉を見あげると、鋼玉もかなり荒い息を吐きながら額に汗を浮かべて夜光を見返していた。
「駄目だな。どうしてもかわされてしまう。すぐに剣を叩き落とされるということは手首の力が足りないのだろうか……?」
「まあ、それもあるだろうな。お前さんは全体的に線が細いから筋肉の付き方がオレなんかとは根本的に違うんだ」
「…………」
「だが、強くなったよ。おまえも烈火も。初めて会った時からは想像出来なかったほどに」
「そうだな……烈火は強くなった」
独り言のように夜光はそう呟いた。
「烈火には護るべきものがたくさんあるから、きっと、もっともっと強くなるだろう」
「…………?」
鋼玉が眉をひそめて夜光を見た。夜光は鋼玉の表情の変化に気付かず地面に転がったままになっていた木刀を拾い上げ、微かなため息をついた。
烈火の護りたいもの。自分の周りにいる大切な人の倖せ。水凪の笑顔。
「お前さんにはないのか? 夜光」
鋼玉が聞いた。
「護りたいものはお前にはもうないのか?」
無意識のうちに夜光は東の山々を見あげ、鋼玉の問いにぽつりと答えた。
「母が死んだんだ」
「…………」
「と言ってももう5年も前のことだが」
「…………」
「分かってはいたんだ。あの時、母様に逃げろと言われた時、もう私は母に逢うことはないのだと。それなのに、心の何処かで期待をしていた。母が死んだという確証がない限り、いつか、何処かで逢えるのではないかと……そんな期待は粉々に砕け散った」
じっと夜光の言葉に耳を傾けていた鋼玉は決まり悪そうにポリポリと頭を掻いた。
「やっぱり、話したのはマズかったようだな」
「……!?」
弾かれたように夜光は振り返って鋼玉を見た。そして、しばらくじっとその顔を見つめた後、納得したかのようにひとつ頷いた。
「そうか。貴方が知ってたんだ」
「……すまなかったな」
「何故謝るんだ? 貴方は悪くなどない。悪いのはむしろ、この5年間もの間何も出来ずにいた私の方だ。確かめに行くことすら出来ない臆病者の私には、誰のことも責める資格などない」
「誰だって自分の母親の死は信じたくないもんだよ。見なくて済むなら見ない方がいい。知らなきゃ少しは楽でいられる。お前だけが臆病なんじゃないだろう」
「…………」
「すまなかったな。夜光」
そう言って鋼玉は深々と頭を下げた。
夜光の母はとても優しい人だった。奥ゆかしくて、儚げで。
幼かった夜光には、父の記憶はほとんど残っていない。思い出すのは、母と過ごした温かな暮らしだけ。
母は倖せだったのだろうか。ほんの一瞬でも倖せでいられたのだろうか。最期を見取ることも出来なかった息子のことを、どう思っていたのだろうか。
「鋼玉」
「……ん?」
「2〜3日、私が姿を消したら、烈火は怒るだろうか」
「そりゃ、怒るだろうな」
「…………」
じっと夜光を見おろし、鋼玉は諦めたようにひとつ息を吐いた。
「行くのか? 敵討ちに」
「まさか。そんな……つもりはない。それに……」
「それに?」
「もしそんなことをして私が死にでもしたら、それこそ烈火は永遠に私を許さないだろう」
「では、何をしに?」
「何だろう……ただ」
さらりと夜光の髪を風が揺らした。
「…………」
「ただ。母様に別れを言いたい」
「…………」
「あの時言えなかった別れを……言いたいのかもしれない」
「……そう……そうか」
鋼玉がゆっくりと頷いた。

 

――――――朝、遼が目を覚ましキッチンへ行くと、一足先に起きていた正人が美味しそうに伸の作った味噌汁を飲んでいるところだった。軽く挨拶を交わして席に着くと、伸は遼のために味噌汁と温かいご飯をよそってくれた。
「さんきゅ、伸」
お礼を言いながら、遼はおやっと首を傾げた。
確かいつものローテーションでいけば、今日はパン食の日だったはずだ。なのに何故。
「あ、そうか。正人が来たからだ」
普段、向こうでは和食を食べる機会が少ないだろう正人の事を考えて、伸は急遽、今朝の朝食を和食に変えたのだろう。そう尋ねると、伸は照れたように笑って頷いた。
「お前等、ホント贅沢者だなぁ……毎日こんな美味い手料理食えるなんて」
味噌汁のお代わりを注いでもらいながら、正人は目の前に盛られているほうれん草のお浸しに箸を伸ばす。
「別に僕はみんなの家政婦でもコックでもないんだけど」
「とか言いながら結局作ってんだろ? だったら同じことだよ」
ケラケラと正人が明るい声で笑った。
「そんなに向こうの食事はまずいのか?」
「そういうわけじゃないけどな。やっぱ日本人なら米を食えって思うだろ。でも、だからって向こうじゃ毎日和食なんて頼めないし。どっかに食いに行くって言っても本物の和食じゃないし、やっぱり日本で食う米が一番美味しい!」
口も箸も同時に動かして、正人は器用に食事を進める。伸は呆れた顔をしながら、それでもなんだかホッと安心したような表情を見せて正人の食事風景を眺めていた。
遼も正人に習い、前にあるほうれん草のお浸しを一口頬張る。いい具合に醤油が染みてとても美味しかった。
「昨日はよく眠れたか? 遼」
「ああ、おかげさまで」
「羽柴は?」
「あ……部屋に戻ってきたのは随分遅くだったみたいだけど……さっきはよく寝てたから……」
「だからって起こさずに一人で降りてくなよ、遼」
遼の言葉を継いで、当麻がのそっとキッチンに顔を出した。
「あ、おはよう当麻」
「おはようじゃねえよ。寝不足で頭痛い」
「寝不足なのか? なんで?」
正人がごはんを頬張ったままくるりと振り向いた。
「枕が変わると眠れないんだよ。っつーか、お前さん、昨日は時差ボケだとかほざいてなかったか? 治ったのかよ、それは」
「オレはすっかり回復したよ。伸の隣で寝たから」
「……隣?」
当麻は本気で気分悪そうにじろりと正人を睨み付けた。
「寝たのは秀のベッドだろ? 一緒の部屋だからって変な言い方するのやめろよ」
「秀のベッドは使ってないよ。結局」
「…………!?」
本当なのか。と言いたげに当麻が伸を見た。つられて遼も伸を見る。伸は困ったように曖昧に頷いた。
「何勘ぐってんだよ。変態。オレはお前と違って超合金で出来た理性を持ってんだから万が一の事なんかあるかっつーの」
「…………」
伸が正人に同調してこくりと頷く。
「ちょっと布団に潜り込んだまま話し込んじゃって、結局そのまま寝ちゃってたんだ」
「……そっか……そうだよな。積もる話もあるよな」
遼が納得したようにそう言った。当麻はまだ不審気に正人をじろりと見て、ぼそりと呟く。
「……って、それ、お前、超合金の理性をわざわざ作らなきゃ伸のそばで寝れないってことじゃねーか」
「…………」
ちらりと遼が正人を見た。一瞬の奇妙な沈黙。
「ごちそうさま。オレ、征士の様子見てくる。そろそろ秀と交代しなきゃいけないし」
カチャリと箸を置き、正人は席を立つと、そのままスタスタと二階へ上がっていった。
「……今のは何だ。伸」
当麻の問いに伸はひとつため息をついた。
「正人が言ったとおり、変な勘ぐりはやめようよ。僕達はそれこそ幼稚園の頃からしょっちゅう一緒に寝てたんだから」
「そうなのか?」
「そうだよ。僕等はただの幼馴染みなんだ……だから……」
「伸、分かってるのか? あいつは……」
「正人は正人だよ」
当麻の言葉を遮って伸はきっぱりとそう言った。
「彼は正人だ」
「……そうなのかな?」
静かに箸を置いて遼がポツリと呟くように言った。伸がギクリと表情を強ばらせる。
「今の正人は、本当に正人なのか?」
「……遼……?」
「あ、ごめん。何でもない。ごちそうさま。じゃオレ、ちょっと暗室籠もるから」
そう言って遼も正人の後を追うようにキッチンを出て行った。
伸はひとつため息をついて、テーブルの上の皿をまとめると、シンクに溜めた水の中に落とした。
僅かに水飛沫があがった。

 

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