眠りの森(4)

「はい、終わり」
ペタッと秀の口の端に絆創膏を貼ってあげると、伸はテーブルの上に出したままだった消毒薬を救急箱の中にしまった。そして、使い終わった脱脂綿の切れ端をゴミ箱へと放り投げる。
「口の中切ってるから、しばらく食べたり飲んだりしたら痛いと思うけど、我慢しな」
「ああ」
ムスッとして秀は大人しく頷いた。
一応反省はしているのだろうか、うつむいたままの秀の態度に伸は小さく息を吐くと、キッチンの椅子を引き寄せて秀のそばに腰を降ろした。
「まったく、天の岩戸じゃあるまいし、眠ってる人間のそばで大騒ぎするなんてホントに君達の気が知れない」
「別に大騒ぎじゃねえよ。だいたい天の岩戸って宴会かなんかしたんじゃなかったのか?」
「確かに。でも宴会のほうがまだ殴り合いより心臓には悪くないよね」
「…………」
伸の嫌味に秀は反論しなかった。ちょっとしたケンカであれば、日常茶飯事なのだが、今日のは少し勝手が違うのかもしれない。伸は椅子の背もたれに腕を預けたまま伺うような視線を秀に投げた。
「あまり野暮なこと聞く気はないけど、なんで当麻とケンカしたの?」
「…………」
秀は答えない。
「言いたくないならもう追求はしない。でも、感心しないな」
「分かってる。オレが悪かったんだ」
伸はこれ見よがしに大きくため息をついた。
「それはさっき聞いた。ついでに言うなら、当麻からも何度も聞いた」
秀がそっと視線だけあげて伸を見た。
「当麻のほうは、棚の角に当たったのか、顔だけじゃなく腕にも打ち身と裂傷が出来てた。まあケンカ両成敗だから、どっちがどうだとか言うつもりはないけど。あいつも何聞いても答えてくれなくてね。オレが悪いの一点張り」
「…………」
「さあ、僕はどうすればいいわけ?」
「……ごめん」
秀が頭を下げた。
「秀、あのね。僕は何も謝って欲しいわけじゃなくて……」
「でも、悪いのはオレだ。オレが言っちゃいけないことを言っちまったから」
「……言っちゃいけないこと?」
「オレ……最低だ」
「…………」
なんだか秀が今にも泣き出しそうに見えて、伸はそれ以上何も言い出せなくなり口をつぐんだ。
なんとなく持てあまし気味に、まだ開いたままだった救急箱の蓋を閉めてみる。
「伸……」
代わりに先に口を開いたのは秀のほうだった。
「正人……来るんだって?」
「え? あ、うん」
突然の話題の転換に戸惑いながら伸が頷く。
「いつ?」
「は……早ければ明日のうちに着くかもって。なんとか飛行機のチケット取れたってさっき連絡があった」
「そっか……」
ほんの少し安心したように秀は息を吐いた。なんだか不思議な感覚が伸を覆う。
「でもさ、ビックリしたよね。あの当麻が正人に戻ってこいなんて電話するなんて思わなくて」
「そうか? なんだかんだ言って烈火の力を一番認めてたのは奴だろう?」
「…………」
秀の言葉に伸の表情が僅かに引き締まった。
そうなのだ。
当麻は、正人ではなく烈火に戻ってきて欲しいと言ったのだ。当麻が欲していたのは烈火なのだ。
もしかしたら、自分が思っているより、秀も当麻も正人を烈火として認めているのかもしれない。
不思議な程、彼等の中に、正人が浸透していく。
正人の姿をした烈火が浸透していく。
「なあ、伸……」
「……何?」
秀が低い、ほとんど聞き取れないほど低い声で聞いてきた。
「もし……もしもだ……正人か烈火か、どっちかが消えちまうって言われたら、お前、どっちを取る?」
「……え……?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「何……?」
「もしどちらか片方しか残れないとしたら、お前はどっちに残って欲しい?」
「…………」
伸がゆっくりと瞬きをした。
正人か烈火か。
どちらか。
どちらを取るか。
それは、いったいどういう意味なのだろう。
伸の表情を見て、秀が自分を叱咤するかのように舌打ちした。
「悪い。オレ、また変なこと言った。忘れてくれ」
「…………」
「ホント、忘れてくれ」
低く呟き、秀がおもむろに立ちあがった。
「秀? 何処へ?」
「ちょっと頭冷やしてくる」
そう言って、秀はキッチンを出て、廊下を走り去り、そのまま外へ行ってしまった。
入れ替わりにキッチンへ顔を出した遼が不思議そうに伸に尋ねる。
「秀、何か外へ行ったみたいだけど、どうしたんだ?」
「……さあ……」
「…………?」
遼を見て気付く。
さっき、秀は正人と烈火と言った。遼ではなく正人と。
ということは、烈火というのは、戦士としての、仁の戦士としての烈火という意味ではなく、烈火という一人の個人を指していたのだろう。
それがどうい意味なのか。
思いついた真実を否定するかのように、伸は大きく頭を振った。

 

――――――「オレは烈火」
そう名乗った少年は、つややかな黒髪に、黒曜石の瞳をしていた。
名も知らぬ少女にもらった水のおかげで、少しだけ気力を取り戻した夜光は、再び西を目指して歩き出した。そして、いくつか峠を越えた先で、その少年に出逢ったのだ。
人気のない山の中、ガサリと草の動く気配に気付き、夜光は慌てて息を潜めてあたりの様子を伺った。
もしかして追っ手だろうか。
まさか、ここまで追ってくるとは考えがたいが、可能性がまったくないわけではない。最初に夜光の脳裏をかすめたのはそのことだった。
だが、近くの茂みから顔を出したのは、夜光と同じくらいの年齢の少年だった。クセのある漆黒の髪を頭のてっぺんで束ね、丈の短い着物を着ているその少年は、不思議そうな表情で地面に身を伏せている夜光を見下ろした。
手には手甲。足には脚絆。軽装ではあるがみすぼらしい感じはしない。
少なくとも夜光のいた城では見たことのない格好である。ということは追っ手ではないと考えていいのだろうか。
だが、だとしたら誰だ。
こんな山奥に、何故少年がいる?
旅支度にも見えないということは、この辺りに住んでいるということなのだろうか?
それとも、自分と同じように逃げているのか?
いや、それはないだろう。
夜光があれこれと逡巡している間に、少年は何の躊躇もなく、茂みから出てきて、夜光に近寄ってきた。
「なんだ、お前、こんなところで何をしている?」
あっけらかんとした口調でそう聞いてきた少年に、夜光は警戒しながら、ゆっくりと立ちあがった。
「誰だ、お前は。お前のような子供が何故こんな処に居る?」
「……子供? 見る限り、お前も充分子供の部類に入ってると思うが?」
くすりと少年が余裕の笑みを見せる。
「…………」
返す言葉に詰まり、夜光はじろりと少年を睨み付けた。
月明かりに照らされた少年の瞳は、黒曜石のように黒く艶めいて見える。
「何処から来た?」
少年が聞いた。
「見たところ、随分遠くから来たようだが、旅人というには荷物が何もない。何か目的があってこんな所をうろついているのか?」
「別にうろついていたわけではない。ここはただの通り道だ」
「目的地は?」
「ない」
夜光の返事に初めて少年の表情が驚いたものに変わった。
「目的地がない? じゃあ、逃げてきたのか?」
「…………」
再び夜光が言葉に詰まった。
「辻斬りや夜盗の類には見えないが……何から逃げているんだ?」
「私は逃げてなぞいない」
「嘘つけ」
呆れたように少年は肩をすくめた。
「お前のような子供が、たったひとりでこんな山の中にいる。しかも何処かへ向かうという目的地があるわけでもないとなったら、あとは誰かに追われて逃げているとしか考えようがないじゃないか。意地張るのよせよ」
「私は……誰も殺めてない。盗みもしていない」
「ああ、それはそうだろう」
あっさりと少年はそう言った。拍子抜けして夜光は思わず目を瞬かせる。
「そんな驚かなくても。お前が悪者かどうかなんて目を見りゃわかるだろう?」
「私は……」
「それとも、お前、見かけと違い極悪非道な奴だっていうのか?」
「違う! 私は……」
「だろう?」
にっこりと少年が笑った。笑うと印象が少し幼くなる。
無防備に微笑みかける少年に、夜光は戸惑って視線を逸らせた。何故だろう。直視できない。
「なあ、良かったら、お前、オレの処に来るか?」
いつの間に近づいたのか、夜光のすぐ目の前まで来て、少年がニヤッと笑った。
「……え?」
「オレの処なら、誰にも見つからない。身を隠すには絶好の場所だ」
「…………お前は……誰だ?」
夜光の問いかけに、少年は一瞬妙な顔をした。
「誰って言われても……別に、オレは……」
戸惑う少年を見て、夜光は慌てて居住まいを正した。
「ああ、そうだ。人に名を尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀だな。私は夜光。夜の光と書いて夜光と言う」
「夜の光……? それは月のことか?」
そう言って少年は眩しそうに夜光の瞳を覗き込んだ。
「どうりで、綺麗な瞳をしてると思った。そうか、お前は月か」
「…………?」
なんだか少年がとても嬉しそうなので夜光は不思議そうに首を傾げた。
「お前が月なら、オレはさしずめ太陽ということなのかな」
「太陽?」
少年は笑いながら、真っ直ぐに夜光を見返した。
「オレの名は烈火。炎という意味だ」
「炎……」
「そう。炎だ」
炎という意味の名。烈火。
それはこの少年にとても似合った名前だと、夜光は思った。

 

――――――すぐに行くと告げたその言葉通り、本当に正人が柳生邸に姿を現したのは、当麻が電話をした翌日のことだった。
時間的にはほとんど深夜と言っていい時間になってはいたので、24時間以内というわけではないが、それでも正人は考えられる限りの一番早い手段で、此処までやってきてくれたのだろう。
「……正人……」
玄関に出迎え、正人の姿を見たとたん、伸は安心してホウッと息をはいた。
「早かったね」
「ああ、ちょうど飛行機にキャンセルが出てたんでな。そのまま直行。一瞬、そのガキが裏で手を回したのかと思った」
「んなこと出来るか」
ガキと呼ばれて明らかに不満そうな表情をした当麻が廊下から正人をじろりと睨んだ。
「征は?」
「二階で眠ってる。今は秀がそばに付いてるよ」
「そうか……」
当麻の視線など無視して靴を脱ぎ、家に上がり込むと、正人は手荷物を伸に預けて二階へと向かった。
「とりあえず顔見てくる。あとはそれから」
「分かった。荷物は一旦居間へ置いておくね」
「ああ、頼む」
慣れた足取りで二階へと向かう正人を見送る伸の隣に遼が寄ってきた。
「良かったな」
「うん。やっぱり安心するね。特に何がどうってわけでもないはずなのに」
「理由はあるさ。あの人は烈火なんだから」
「…………」
思わず伸は振り返って遼を見た。
「あ、別にひがんでるとか嫌味のつもりじゃないぜ。本当にそう思ってるだけだから」
「……遼……」
「当麻だってそう思ったから正人を呼んだんだろ?」
言われて当麻はすっと遼から視線を逸らせた。そんな当麻の態度に遼が苦笑する。
正人が二階の征士の部屋に入ると、ベッドの脇に蹲っていた秀がそっと顔をあげ、立ち上がった。
「よう……」
小さく挨拶をすると、秀も少しだけ表情をやわらげて、ベッドのそばから退いた。
代わりに征士のそばまで来た正人は、じっと眠る征士を見つめ、その頬にそっと手を伸ばした。
「久しぶりだな。コウ……」
懐かしそうに、正人はそう呟いた。

 

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