眠りの森(3)

「つまり、今までの征士自身の中には、夜光はいなかったってことなのか?」
夜光と征士、そして征士の双子の兄になるはずだった征一の話を当麻から聞き終え、秀は大きくため息をついた。
「簡単に言えばそうなる。オレもお前も伸も、忘れていようが覚えていようが実際に鋼玉や水凪として生きた事実はあったんだ。だから過去を思い出すにしても、夢を見るにしても、実際に自分が生きて感じてきたことを思い出すってだけの行為ということになる。だが、征士の場合は違う。あいつは夜光じゃないんだ」
夜光じゃない。
そう言いながら当麻は唇を噛んだ。
あまりにも多い情報量に多少混乱しながら、秀はポリポリと頭を掻いた。
「よく分かんねえんだけど、でも記憶はあるんだろ? 征士は夜光のこと普通に話してたじゃねえか。お前等だって、なんかそういった話、してたろう?」
「そりゃ記憶はあるさ。夜光が全部見せてたんだから」
秀が覚えている限り、当麻がたまにポロッと洩らす過去の話に一番的確な反応を返していたのは征士だったはずだ。
だから、何となく、自分達の中で当麻の次に過去を覚えているのは征士なんだと、そんなふうに秀は思っていたのだ。
「見せてたってのは?」
「言葉通りだよ。夜光と征士は、夜光が生きてきた記憶を2人で共有してた。でもそれは征士にとっては見てただけに過ぎない。経験したわけじゃない」
「それって、そんなに違うものなのか?」
「違うさ」
床に座り込んで当麻はくしゃりと前髪を掻き揚げた。
「考えてもみろ。映画を観て、その映画の主人公に感情移入したからって、自分自身がその主人公になったりするか?」
「…………」
「しないだろ。観るって行為と、経験するって行為は、まったく別物なんだよ」
そう言われてみると分かるような、分からないような。
やはり混乱したまま秀は征士を見る。
いつもと同じような征士の寝顔。でも、なんだか、ほんの少し、ほんの少しだけ印象が違うような気がするのは、夜光が前面に出てきている所為なのだろうか。さっき、遼も無意識にそれを感じたから、だから征士じゃない気がしたなんてことを言ってしまったのだろうか。
だとしたら。
「征士に触れるなよ。また引きずり込まれるぞ」
当麻の制止の声に、征士に触れようとした秀の手がビクリと止まった。
「征士が言ってた。夜光の世界は、鏡の向こうの世界みたいだって」
「鏡の向こう……?」
「オレだって、征士のような現象は初めてだから実際どうなのかはっきり分かってるわけじゃない。だけど……」
「…………」
「征士は一卵性の双子だったはずだから、大元の光輪としての核は征士の中にもなくちゃおかしい。むしろ紅の魂に関しては、完全に征士の中にあるんじゃないかとすら思う」
「…………」
紅の名前に、僅かに反応した秀は、無言で当麻をじっと見た。
「だけど、夜光は違う。夜光としての人格も経験も、何故かそれだけで1つの形をなしてしまっていた。一番近い前世だったからなのか、夜光がそう望んだからなのか知らないが、征士と夜光は別人格だったんだ」
「…………」
「オレは、何度か夜光に会ってる。夜光自身にだ。それは征士ではなかった」
「…………」
「征士ではなかったんだ」
そう言って、当麻は深くため息をついた。
「……なあ、当麻」
ずっと黙って当麻の言葉を聞いていた秀が、ようやく口を開いた。
「じゃあ、どうなるんだ?」
「……どうなるって……?」
「このまま、征士が夜光の人生を、夜光の生き様を追体験したら、こいつはどうなるんだよ。夜光になるのか?」
「!?」
「夜光になっちまうのか?」
当麻が息を呑んだ。空気が喉に引っかかってヒュッと音を立てる。
「乗っ取られるのか? 夜光の意識に」
「まさか」
思わず後ずさりした当麻の背中がトンと壁に当たった。
「どうすんだよ……」
ぽつりと呟いた秀は、そのまま当麻に背を向け、征士に近づいた。ハッとなって当麻が顔をあげる。
「秀! 何をする気だ」
「決まってる。こいつをたたき起こすんだ」
「なっ!?」
「征士を引き戻さなきゃ。そのわけのわからねえ夜光の世界から」
慌てて当麻は秀の腕を押さえた。
「急くな! 秀! そんなことをしたらどうなるか分かってんのか!?」
「分かんねえから何かやんなきゃいけねえと思ってるんだろ! 何がいけないんだ!?」
「いいわけないだろ! そんなことをしたら夜光が完全に消滅するかもしれないだろうが!」
「……!?」
ピクリと秀の眉がつり上がった。
「何だ。それ」
「…………え……」
「お前は、征士のことより夜光の方が心配なのか?」
当麻の表情が強ばった。
「そういうことかよ」
「……秀……」
「お前はこのままの方がいいんだ」
「秀……違……」
「違わない」
「…………」
「違わない。そういうことか」
「……秀……」
当麻の表情が青ざめる。
「そういうことだよな」
朧気にしか覚えていない過去の出来事。当麻の記憶。
自分達が覚えていないそんな話を当麻は今まで夜光と話していたのだ。
そう。征士ではなく。夜光と。
「秀……!」
「お前は、征士がこうなって内心喜んでるんだ」
「…………!?」
「お前は、夜光に戻ってきて欲しいと思ってんだからな」
「……貴様!」
次の瞬間、当麻に殴り倒されて秀の身体が壁際に吹っ飛んだ。
ドタンっと大きな音がする。
「てめえ……何すんだよ!!!」
今度は、秀の拳が当麻の顔面を捕らえる。
床に叩き付けられ、低く呻いた当麻の身体の上に、振動で数冊の本がドサドサと落ちてきた。
「……どうしたんだ!?」
二階から聞こえてきた大きな音に気付いて、遼が何事かとキッチンから飛び出してくる。
「何やってんだ!? 2人とも!!」
遼の後を追うように飛び出してきた伸が、階下から大声で叫んだ。
伸の怒鳴り声に、当麻と秀の動きが止まった。
ズキズキと痛む。
お互いの拳と、頬と、背中と、そして心が。
心がズキズキと痛んで血を流している。
まだ拳を握りしめたまま、秀も当麻も無言でお互い睨み合っていると、それを遮るかのように、ベッドの上で微かに征士が声を洩らすのが聞こえた。
「……う……」
「……征……?」
ハッとなって当麻が立ち上がる。
「……れ………」
何を言っているのか聞き取ろうと征士の方に身体を寄せ、当麻は耳を澄ませた。
征士の唇が微かに動く。
「……烈火……」
征士の唇が烈火の名を呼んだ。
他の誰でもない、烈火の名を呼んだ。
当麻はギリッと奥歯を噛みしめ、そのまま部屋を飛び出した。

 

――――――「いったいどうしたんだよ? ちょっと……当麻!?」
いったい何があったのだろうと、二階へ上がろうとした伸は、突然部屋から出てきて階段を駆け下りて来た当麻に驚き、慌てて脇にどいて道をあけた。
「当麻? 何があったの?」
「伸! 今、イギリスは何時だ? 向こうとの時差は?」
「え? イ……イギリス?」
とっさに何を言われたのか分からなくて目を白黒させた伸は、驚いて当麻のあとを追った。
当麻は傍目にも分かる程、強ばった表情をしている。
「何? イギリスって……正人に電話する気?」
聞きながら頭の中で計算する。確か日本とイギリスとの時差は9時間くらいだったはず。ということは。
「いいやもう何時でも。寝てたらたたき起こしてやる」
「ちょっと……当麻!?」
言うが早いか、当麻は受話器をあげた。ダイヤル先は正人がホームステイをしている先の家の番号のようだ。以前一度聞いただけの番号のはずなのに、さすがというか何というか。
「……と……当麻……?」
かなり長いコール音の後、ようやく向こうの受話器があがる音がする。
「……正人か?」
今、時計は昼の1時を回った頃。するとイギリスは早朝4時ということになる。
計算を終え、その事実に気付いて伸は頭を抱えた。こんな非常識な時間に電話して、しかも正人当人じゃなく、向こうの家族が出たらどうするつもりなのだろう、この男は。
案の定、電話口の先から正人らしき少年の呆れたような怒鳴り声が聞こえてきた。
「お前、羽柴か!? どんだけ非常識なんだよ。てめえは。オレはともかくこっちの家にまで迷惑かける気か!?」
「いいから、大至急こっちへ戻って来い」
「…………今、何て?」
正人だけではなく、廊下の反対側で当麻を見ていた伸と、様子を見にそばまで来ていた遼までもが目を剥いた。
「ど……どうしたんだ? 当麻の奴」
遼が小声で伸に囁く。伸も分からないと言って小さく首を振った。
「……お前、ふざけてんのか?」
「ふざけてなんかない。真面目だ。戻ってこい」
「…………真面目に言ってんのか?」
「ああ」
「そっちに……つまり日本に行けと?」
「ああ」
「お前、自分が何言ってんのか分かってんのか?」
「分かってる。そっちもちょうど夏休みの最中だろう。都合はつくはずだ」
「羽柴! お前なぁ……」
「征が……征があんたを呼んでるんだよ」
「……!?」
電話の向こうで正人が息を呑んだのが分かった。
「…………征が?」
「オレじゃ駄目なんだよ。あんたじゃなきゃ駄目なんだよ。頼む。戻って来てくれ。頼む」
「…………」
「頼む……烈火……」
遼がビクッと身体を強ばらせた。通話口から正人の返事は聞こえない。
当麻は受話器を抱えたまま廊下へ倒れるように座り込んだ。
「頼むよ……戻ってきてくれ……」
「……当麻!」
伸は慌てて駆け寄り当麻の身体を支えると、無理矢理当麻の手から受話器を奪い、電話を代わった。
「もしもし、正人?」
「……あ……伸か?」
よほど驚いているのか、正人の口調も呆然としたままだ。
「ごめんね。当麻が急に……」
「いや、それより征士に何があったんだ?」
「うん。僕達にもよく分からないんだけど。急に具合が悪くなって……っていうか。どう説明したらいいんだろう」
「何でもいい。気付いたまま教えてくれ」
「うん」
少し迷い、伸は受話器を遼に渡した。遼はひとつ整えるように息を吐くと、両手で受話器を支えるように持った。
「オレもよく分からないんだけど、なんか、征士が征士じゃないように見えたんだ」
「…………」
無言で正人は遼に続きを促した。
「オレがそう言ったら、当麻と秀が血相変えて飛び出して……」
「それで、征士は今?」
「眠ってる」
当麻がポツリと言った。
「夢に引きずられるように眠ってる」
「…………」
しばらくの沈黙の後、正人は言った。
「3日……いや、2日保たせろ。善処する」
「……正人」
「すぐに帰るって、そこのバカに言っておいてくれ。伸」
そう言って、正人は電話を切った。
当麻は力つきたように壁に背を預けて、ゆっくりと息を吐き出した。

 

前へ  次へ