眠りの森(2)

バタンとけたたましい音をたてて部屋に飛び込んだ当麻と秀は、部屋の様子を見て思わず足を止め、お互いの顔を見合わせた。
「これってどういうことなんだ? 当麻」
「オレに聞くなよ」
先程、遼は確か「もうすぐ降りてくる」と言っていたはずだった。いつもだったらその言葉通り、今頃征士は身支度を整えている最中であろうと思っていたのに。
「おい、征士。何寝てんだよ。征士?」
征士は完全に二度寝の体勢に入っているようにしか見えなかった。
シーツこそ掛けていないものの、まだパジャマ代わりのTシャツを着たまま、ベッドの上で寝息を立てている。
2人は、驚いた表情のまま、眠る征士を見下ろした。
「別に起きようとしてぶっ倒れたって感じでもなさそうだよな?」
「……ああ、ただ寝ているようにしか見えないが……」
確かに胸は規則正しく上下している。気になると言えば、少し眉間に皺のよった表情が安らかな寝顔とは言い切れないという程度だ。
「おい、征士」
とりあえず、このままの状態で放っておくわけにはいかないと、秀はベッドの上に眠る征士の腕に手を触れ、揺り動かした。
「征士。起きろってば……」
その瞬間。
「……!?」
スコンっと、秀の意識が落ちた。
「秀!?」
そのまま秀は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ち、眠る征士の上に覆い被さるように倒れた。意識は完全になくなっている。
「おい! 秀!?」
慌てて駆け寄り、手を伸ばしかけた当麻は、秀の身体に触れる直前で動きを止めた。
一瞬、腕に電流が走ったような感覚がしたのだ。何だろう。これは。
「…………?」
意識のない2人の影に重なるように懐かしい青年の姿が見えたような気がして、当麻は驚いて目を見張った。
ゆらりと揺れたその姿が、ぼんやりとした輪郭からだんだんとはっきりしたものに変化していく。
淡い黄金色の髪。穏やかな、それでいて凛とした紫水晶の瞳。
「……そんな……まさか……」
大きく目を見開いて、当麻はその懐かしい彼の人の顔を凝視する。
「まさか……」
ふわりと風が吹いて、夜光の髪を揺らした。

 

――――――ようやく夜光が目を覚ました時、日はすでに山の頂上にかかるほど高く昇っていた。
まだ身体中がギシギシと痛んでおり、足などは感覚すらなくなっている。目を開けることさえも億劫で、夜光は地面に寝ころんだまま深く息を吐いた。
もしかしたら、自分はこのままこの場所で朽ちるのかもしれない。そんな考えが頭の中を過ぎった時、微かに何かの気配を感じ、夜光は慌てて目を開け、あたりを見回した。
かなり山奥であろう木の生い茂ったこんな場所に現れるものといえば、動物、山の獣だろうか。鹿などの草食系動物ならまだしも、凶暴な肉食獣だった場合、今の自分では逃げられない。
そう思って、必死で身を起こそうとした夜光の目に飛び込んできたものは、鹿でも熊でもなく、小さな赤い鞠だった。
「…………?」
転々と転がってくる小さな鞠。
呆然として、その鞠を目で追っていた夜光の耳に、今度はカサリと草の揺れる音が聞こえてきた。
今度こそ、動物だろうか。
しかし、ハッと身を固くした夜光の前に飛び出して来たのは、やはり赤い着物を着た幼い少女だった。
「…………!?」
まさかこんな所に人が居るなんて。お互いそう思ったのだろう、驚いた顔をして少女は瞳を真ん丸に見開き、立ち止まった。
夜光も言葉をなくしてその少女を見つめ返す。
黒目がちの大きな瞳。小さな鼻に桜色の唇。前髪は綺麗に眉のところで切りそろえられており、後ろ髪はちょうど背中のあたりでサラサラと風に揺れている。
おずおずと手を伸ばして、少女は足下に転がっていた鞠を拾い上げた。しゃがんだ拍子にさらりと艶やかな黒髪が肩口から流れ落ちる。
赤い鞠を手にした少女は、まるで一枚の絵のようだった。
「………………」
夜光は息を呑んで少女を見つめていた。
今まで、この世で一番美しい人は母様なのだと思っていた。優雅な身のこなしも、優しげな顔立ちも、美しい声も、天が母様に与えた素晴らしい贈り物なのだと、そう思っていた。
なのに。
目の前のこの少女の人間離れした美しさは何だ。
ああ、そうか。もしかしたら、この少女は人ではないのかも知れない。
ふと夜光はそう思った。
きっとこれは疲れが見せた幻覚なのだ。そう考えれば納得できる。いや、そうに違いない。
そんなことを考えながら、夜光は再び目を閉じた。身体が重い。喉が渇いてひりひりする。
そして、もう一度目を開けた時には、もう少女の姿は何処にもなかった。
やはり。
夜光はぼんやりと空を見あげた。
あれも妖怪、あやかしの一種なのだろうか。だとしたら、ずいぶんと美しい妖怪もいたものだ。
もう少し、見ていたかったかも知れない。
つらつらとそんなことを考えていると、再びそばの草むらがガサリと動いた。
「…………!?」
まさか。
夜光は息を呑む。
少女は妖怪でも何でもなかった。
茂みの奥から姿を現した少女は、手に鞠の代わりに水の入った竹筒を持っていた。
少しだけ警戒しながらも、少女は真っ直ぐに夜光のもとへと駆け寄り、手に持った竹筒を差し出した。
「…………?」
これは、どういうことだ。飲めというのだろうか。
夜光は確認するかのようにじっと少女の顔を見あげた。
その様子を、少女は夜光があまりに疲労しているため起きあがれないのだと思ったのか、おもむろに寝ころんだままの夜光の首の後ろに腕を差し込み、自分の膝の上へと夜光の頭を抱え込んだ。そして、そのまま水がこぼれないようにと注意を払いながら、そっと夜光の口元に竹筒の飲み口を当てた。
僅かに開けた口から、冷たい水が喉の奥へと流れ込む。それはとても美味しくて、夜光は少女の膝に頭を乗せたままゴクゴクと水を飲み干した。
初めて、生き延びたのだという実感が湧いた。
母様との約束を守れた。
ふっと夜光が少女を見あげると、少女はその漆黒の瞳で夜光をじっと見つめ返してきた。少女は夜光と目が合うと、遠慮がちに懐から手拭いを出して夜光の額に浮かんだ汗と泥を拭ってくれた。
少女の着物から、ふわりと香をたいた良い匂いがした。
もしかして、この少女は何処かの屋敷の姫君なのではないだろうか。
着ている着物もとても良い仕立てのものだし、仕草と言い、雰囲気といい、町民には見えない。
もし違うのだとしたら、それこそ狐狸妖怪の類だとしか思えない。
そんなことを考えながら、夜光はようやく少女の膝から身体を起こし、そばの木の幹にもたれかかった。少女は心配そうな表情で夜光の顔を覗き込んでくる。夜光が何とか笑顔を作り、少女に微笑みかけると、少女はようやく安心したように笑みを洩らした。
光がこぼれ落ちるような笑顔だった。
木漏れ日が眩しくて、夜光は僅かに目を細める。いや、もしかして眩しかったのは木漏れ日ではなく、少女自身だったのかもしれないが。
やがて、遠くから誰かの呼び声が聞こえてきた。もしかして、少女を捜しているのかもしれない。
少女は慌てて立ち上がると、一瞬戸惑ったような視線を夜光へ向けた。夜光はもう大丈夫だからと、無言で少女に礼を兼ねて頭を下げる。少女は声のした方向へ数歩歩き、名残惜しそうに一度だけ夜光を振り返ると、軽くお辞儀をしてそのまま茂みの向こうへ消えていった。
「姫様。何処へ行っていらしたんですか?」
「ごめんなさい。とても綺麗な子鹿が川の向こうに見えたので」
「お一人であまり遠くへお行きにならないでください」
途切れ途切れに、そんな会話が聞こえてきた。
ふうっと息を吐き、夜光は木の幹にもたれかかったまま目を閉じた。
先程までの疲労感が半減されている。水の力か、笑顔の所為か。
しばらくの間、夜光はそのまま微動だにせず、森の木々の声に耳を傾けていた。

 

――――――「…………!?」
意識を失っていたのは一瞬のことだったようで、落ちたときと同じくらい急激に秀が目を覚ました。
「……今の……なんだ?」
「秀? 大丈夫か?」
当麻自身もまだショックを押さえきれない状態なのか、多少声が震えている。秀は、ゆっくりと当麻の方へ振り返り驚いた表情のまま小さく頷いた。
「当麻……あれ、あの人、咲耶さんだっけ? あれ、マジで夜光の姫様だったんだな……」
「……え?」
当麻の眉間に皺が寄る。
「本当にそっくりだった……」
「見た……のか? 秀……」
秀が大きく頷きながら息を吐いた。
「まだ全然幼かったけど、あの姫様だ。夜光と初めて逢った時かなぁ? 全部夜光の目を通して見てるから、夜光自身の年齢がわかんねえんだけど、多分オレ達に逢うよりかなり前だと思う」
「………………」
当麻は征士に目を向けた。
いつもと変わらなく見える征士の顔に、微かに夜光の影が重なっている。心なしかさっきよりその影が濃くなっているような気がした。
「征……まさか……」
当麻がゴクリと唾を飲み込んだ。
「なあ、これって、お前が以前、記憶と鎧珠捨てた時と同じ現象が起きてるってことなのか? あん時お前、ずーっと眠ってたろ」
秀が探るように聞いてきた。
「なんか、今の征士の状態ってそれに似てないか?」
「……記憶を……追体験してる……のか?」
確かに以前、当麻は記憶を取り戻すために、鎧珠を握ってしばらくの間眠っていた期間がある。状況的にはそれに似ているとも言えるが。だがしかし。
「そんなことはあり得ない」
当麻は呟いた。
「あるはずがない」
「なんでだよ?」
秀が不思議そうに聞いた。
「確かに征士は別に記憶喪失になってたわけじゃねえから、なんでこんな現象が起こってるのかとは思うけどさ」
「そういうことじゃない」
きつい口調で当麻は秀の言葉を遮った。
「そもそもオレとこいつとでは記憶の持ち方が違ってるんだ。征士に限って、こんな……こんなことはあり得ない。あるはずがないんだ」
「どういうことだよ」
秀の表情が不審気なものに変化した。突き刺すような視線で当麻を見る。
「何言ってんのか分かんねえ。もっと分かる言葉で話せ」
「オレの場合はもともとあった記憶を思い出しただけだ。でも征士には、そのもともとの記憶自体がないんだから。こんな現象起こるわけないだろう」
「……え?」
秀の眉間に皺が寄る。
「征士は……征士は夜光の人生を経験してないんだ。見たことはあっても経験したわけじゃない。違う。」
「当麻……?」
「こいつは夜光じゃないのに……なのに……なんで……」
「当麻! いい加減にしろ! 分かるように説明しろっつってんだろ!!」
とうとう当麻の言葉を遮って秀が尖った声をあげた。そして、そのまま立ちあがると、責めるように当麻を壁へ追いつめる。
「非常事態だ。何でもいいから全部話せ」
「……秀」
「全部。何もかも全部だ。話せ」
静かに秀が声を強める。
「当麻」
「…………」
当麻は脅えたようにゆっくりと息を吐き、頭を抱え込んだ。

 

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