眠りの森(1)

月のない無気味な夜。遥か天空で雷鳴が轟いた。
不穏な空気に一人の男が傍の格子戸から天を見あげる。
「力が欲しくはないか」
突然男の脳に直接声が響いた。
「…………!?」
「わしがお前に力をやろう。この世を治められるほど強大な力を」
「……力? 強大な力……?」
「すべての者がお前の足下にひざまずく。わしと共になら、お前は神にも等しい力を手に入れることが出来る」
男がゴクリと唾を飲み込んだ。
「さあ、迷うことなど何もない。お前は選ばれた者なのだから」
男の脳裏に無気味な笑い声がこだまする。
笑い声は闇夜の中で幾重にも重なって聞こえてきた。
そして。
その夜。
…………城が落ちた。

 

――――――巨大な炎が城を覆い尽くし、夜の闇を照らす中、夜光は母親に手を引かれて走り続けていた。
心臓が止まりそうな程息苦しい。これは先程吸い込んでしまった煙の所為か、自分の限界を超えた速さで足を動かしている所為なのか。
手を引く母親の半分もない背丈。小さな足。まだ充分に幼さを残した顔には、恐怖よりも戸惑いの方が大きく映り込んでいる。
「く……苦しいよ。母様」
大きく肩を揺らしながら夜光は普段とても奥ゆかしい女性であったはずの母を見あげた。
今夜の母はいつもと様子が違う。
突然、真夜中に寝所に現れたかと思うと、何の説明もなく、母はいきなり夜光の手を引いて城外へと飛び出したのだ。
「何処へ行くの? 母様」
母の向かっている先は、どう見ても街の外。鬱蒼とした山々である。もちろん夜光は今まで一度も足を踏み入れたことなどない場所だ。
遠くで小さく鐘の音が聞こえる。
それを追うように炎が強くなって行くのが背中に感じられた。
「…………!?」
母が脅えた表情で立ち止まった。次いで何かを決心したかのように身体ごと夜光に向き直る。
「……母様?」
「夜光。これより先は一人で行きなさい」
「……え……?」
「生きて。逃げ延びるのです」
「……どういう……こと?」
「早く行きなさい! 母様の言うことがきけないのですか!?」
鋭い母の声に気圧されて夜光は条件反射的に駆けだした。
城内から大勢の兵達が飛び出してくるのが横目に見える。思わす振り向きかけた夜光の背中に母の声が飛んだ。
「振り返ってはいけません。そのまま遠くへ落ち延びなさい。そして、母様のことも父様のことも何もかも忘れるのです。いいですね。夜光!」
無言で頷き、夜光は再び駆けだした。
背中越しに母の声を聞きながら、夜光はひたすらに走り続ける。
随分走ったかと思った頃、微かに母の悲鳴が聞こえたような気がしたが、夜光はギュッと唇を噛みしめたまま走り続けた。それが母との約束だったから。
母との最後の約束だったから。
夜光は振り返らずに走り続けた。
走って走って走って。夜光は足が棒になるまで走り続けた。
城下街から森の中へ入り、そのまま母が指し示した山の奥へと突き進む。
微かに残っていた明かりもなくなり、道も見えなくなっていたが、それでも夜光は走り続けた。
ふいに夜光の目に涙が浮かぶ。
ごしごしと乱暴に手で顔をこすり、夜光はそれでも走り続けた。
もう二度と。
自分は、もう二度と母様に会うことはないだろう。不思議な程の確信だった。
夜光はギッと目の前の暗闇を睨み付けると闇に脅えることもなく再び走り出す。
一度でも立ち止まったら、もうその場から動けなくなるであろう事が分かっていたから、夜光は無理矢理足を動かし山の奥へと入って行く。
何処へ向かっているのかなど分からない。
ただ、少しでも遠くへ行くのだ。それが母との約束だから。
最後に交わした約束だから。
決して死なない。生き延びる。
今はまだ分からなくても。いつかきっと。今日の事の意味が分かるだろう。
幼い心にそう言い聞かせて、夜光は道もない山の中を進んでいった。
やがて、いくつ峠を越えたか分からないほど歩き続けた頃、ようやく夜が明けて日が昇りだした。
一晩中走り続けた為に、身体は泥のように重くなっている。
あまりの疲労感に夜光はついに足を止め地面にしゃがみこんだ。とたんにどっと疲れが押し寄せてくる。
「…………」
何とか再び立ち上がろうとした夜光は、そのまま力つきてどさりと地面に倒れ込んだ。
さすがにもう限界なのかもしれない。
そう思ったとたん、その考えに呼応するかのように、夜光の意識は遠のいていった。

 

――――――「征士? 良かった。やっと起きたんだ」
ほっとした遼の声に征士が重い瞼を持ち上げると、まぶしい光が目に飛び込んできた。
「…………?」
「もう昼過ぎだぜ。随分寝てたよな」
「……昼過ぎ?」
そういえば窓から差し込んできている日の光はかなり高い位置からの光のようだ。
征士は眩しげに目を細めて窓の外の青空を見あげた。
「いつもちゃんと起きてくるはずの征士が、なかなか起きてこないから、みんな心配してたんだぜ。熱はないみたいだから風邪じゃないだろうけど……どうしたんだ? やっぱ撮影中の疲れが残ってたのか?」
「…………」
ぼうっとしたまま征士は不思議そうな顔で遼を見あげている。
夏休み当初から関わっていた人魚姫の撮影が終わったのは、つい1週間前のことだった。
撮影終了直後は遼も体調を崩してしばらく寝込んでしまっていたのだが、征士は翌日から普段通り、まるで何もなかったかのように、毎日剣道部へ顔を出して稽古に励んでいたはずなのに。
「征士?」
今日の征士は、なんだかいつもの征士らしくない。
征士は決して低血圧ではない。いつも寝起きはスッキリとした顔をして、誰よりも早く行動を開始している。
それなのに。
こんなにぼんやりしている征士は初めて見たかも知れない。
遼は本気で心配になって、もう一度征士の額に手を当てた。
「…………!?」
突然触れられた為か、征士の表情が一瞬強ばった。パンッと音を立てて遼の手を払いのける。
「あ、ごめん」
とっさに謝り、遼は征士の目を覗き込んだ。いつも澄んでいる紫水晶の瞳は変わらない光りを放っていたが、何だか心持ちいつもと色合いが違うようにも見える。
「大丈夫か? 征士。具合悪いのか?」
征士は答えない。
「征士? 本当に、どうしたんだ?」
「……征士……?」
何度も名前を呼ばれて、何故か征士は戸惑ったような表情を見せた。
「……?」
妙な違和感を感じ、遼はもう一度ゆっくり征士の名を呼んでみる。
「征士?」
「あ……いや、すまない。心配をかけたようだな。大丈夫だ」
誤魔化すように視線を彷徨わせ、征士は確かめるように自分の頬に手を当てた。
「…………」
何かがおかしい。遼は唇を引き結んで、一歩後ろに退いた。
「ホントに大丈夫か? しんどいんだったらもうちょっと寝てろよ。みんなには言っておくから……」
「いや……大丈夫だ。烈火。もう起きる……」
「……!?」
征士の言葉に遼の身体が硬直する。はずみで動いた腕が机の上のペン立てにぶつかり鈍い音をたてた。
「……あ」
遼の表情の変化に気付き、征士が慌てたように言葉を濁した。
「あ、いや、違う。遼……」
「…………」
「遼……私は大丈夫だ。すぐに起きるから」
「…………」
「すぐに支度するので、心配しないようにと皆に伝えてくれるか?」
「わ……分かった」
少し俯いて、早口で遼は次の言葉を綴った。
「と……とにかく起きたんなら早く下に来いよ。伸が朝食温め直してくれるから。オレ、先に降りて知らせてくるな」
「……あ……ああ」
パタンと扉を閉じ、遼が走るように階段を駆け下りる音が聞こえた。
眉間に手を当て、征士が深く深くため息をついた。

 

――――――転げ落ちるかと思われるほどの勢いで階段を駆け下りた遼は、その勢いのままキッチンに飛び込んだ。
「どうしたの? 遼」
遼の慌て振りに伸が驚いて顔をあげる。遼は真っ青になって伸を見返した。
「遼?」
遼の様子に、伸が首を傾げる。
「どうかした? 征士は?」
「……あ……い……今、降りてくるって」
「そう。じゃあみそ汁温めるね」
「あ、ああ……」
「……?」
何だか遼の態度がおかしい。
伸の手伝いの為、やはりキッチン内にいた秀と当麻がお互い顔を見合わせ、同時に遼の方に振り向いた。
「……遼? お前、なんか変だぞ」
「何かあったのか? それともやっぱ征士、具合悪いのか?」
「そうじゃない……」
「そうじゃないなら、何でお前、んな妙な顔してんだよ」
「別に……何でも……何でもない……と思う」
「……と、思うだぁ?」
眉間に皺を寄せて当麻が遼に身体ごと向き直った。
「なんかはっきりしないな。何があったんだよ」
「何でもないよ。オレの気のせいだと思う」
「だから、何が気のせいなんだよ。それを言えっての」
「いや……だから……気のせいだよ。きっと」
「…………?」
イラついた表情で秀が遼に詰め寄った。
「はっきりしろよ。何があったんだ」
「別に何でもない……と思う。ただ……よく分からないんだけど……変な感じがしたんだ」
「変な?」
当麻の声が低くなった。
「何が変なんだ?」
「……分からない……分からないけど……なんだか」
「………………」
「オレの気のせいだったらいいんだけど……」
「…………遼……」
尋ねる当麻の声が更に低くなった。表情も険しさを増している。遼は観念したように軽く両手をあげて小さくため息をついた。
「たぶん、寝起きでぼうっとしてた所為だとは思うんだけど……なんか、いつもの征士じゃないような気がして……」
「……え?」
「よく分かんないけど……一瞬、征士じゃない人と話してるような気がしてさ……」
「……!?」
当麻と秀の表情から完全に余裕が消えた。
「……秀……」
「……あぁ……」
そして次の瞬間、2人は示し合わせたようにキッチンから同時に飛び出した。
そのまま、階段を駆け上がる足音が廊下に響きわたる。
「……秀!? 当麻!?」
あまりに素早い2人の動きにキッチンを飛び出すタイミングを逃したまま残された伸は、しばらく迷ったすえ、改めて遼に目を向けた。遼は半分泣きそうな目をして伸に向かって困ったような表情を作る。
「えと……どういうことか詳しく話してくれると有り難いんだけど?」
「……う……うん」
「遼?」
優しく伸が話を促しても、遼の表情からは一向に困惑が消えない。
「仕方ないな。聞き方を変えようか。征士に何か言われた? それともいつもと違う態度をとられたの?」
伸に繰り返し尋ねられ、ようやく遼は重い口を開いた。
「さっき……」
「うん」
「征士……さっき……オレのこと、烈火って……」
伸の表情がすっと引き締まる。
「烈火って呼んだんだ」
「…………」
「おかしいだろ。絶対あり得ない。征士がオレのこと、そんなふうに呼ぶなんて絶対おかしい」
「…………」
「なんか、記憶が混乱してるみたいで。オレのこともそうだけど、自分のこともよく思い出せないみたいで。だからとっさに烈火って……オレ、烈火じゃないのに、間違って烈火って呼んだんだ」
「…………」
「他にどう呼べばいいか思いつかなくて。それで、オレのこと、そう呼んだんだ」
「…………」
「そんな気がした」
どう答えていいか分からなくて、伸は思わず天井に目を向ける。
何かが、とてつもなく嫌な何かが始まる予感がした。

 

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