眠りの森(20)

トントンという包丁の音と共に、美味しそうな匂いがキッチン全体に漂っている。
伸が沸騰する前の絶妙のタイミングで味噌汁の火を止めたちょうどその時、少し寝ぼけ眼の遼がキッチンへと降りてきた。
「おはよう。良い匂いだ」
そう挨拶しながら、少し目を細めて朝の香りを堪能する。
目が赤いのは、寝不足なのか、泣いたからなのか。
「遼、ちょっとは眠ったか?」
伸に命じられて茶碗や皿を用意していた正人が手を止めて遼を振り返った。遼は微妙な表情で小さく頷く。
「ああ、少しだけ……な」
「当麻の野郎は? まだ寝てんのか?」
正人に言われて、そう言えばと遼は小首を傾げた。
「あいつ、オレの部屋にはいなかったぞ。そういえば何処で寝てるんだろう」
「部屋にいない?」
遼の部屋にはいない。征士達の部屋にももちろんいなかったし。そうなると。
「じゃあ、書斎だ。オレが起こしてくるよ」
テーブルの上に茶碗を置き、正人は軽い足取りで書斎へと向かった。
正人が去った所為で、2人きりになったキッチン。何となく声をかけそびれたままになってしまっていた伸が、ちらりと遼を見ると、遼も伸に気付いて微かに微笑みかけた。
「おはよう、伸」
「おはよう、遼」
遼を見つめる伸の瞳が微妙に変化する。
なんとなく遼の表情が大人びて見えるのも、目の色が深くなった気がするのも、きっとただの気のせいなのだ。
でも。
いつもより烈火が近くにいるように感じるのは、気のせいではない。
気のせいではないのだろう。
烈火。
「伸?」
何も言わず、じっと自分を見つめる伸の視線に戸惑って、遼が困ったように眉を寄せた。
「……伸?」
「あ、ごめん……その……大丈夫?」
「え?」
遼が更に首を傾げる。
「あ…いや……その…烈火のこと……」
「ああ、それなら大丈夫」
遼は目尻を赤く腫らしたまま、それでも伸へ笑顔を向けた。
「同調してたっていっても、オレは夜光の記憶に沿って烈火の思い出を見てきただけだから」
「そっか……そうだよ……ね」
「……でも」
言葉を切って、遼はキュッと唇を引き結んだ。
「行って良かった。本当に良かった」
「…………」
「まだまだ不十分だけど、それでもオレ、ようやく、伸やみんなが言う烈火って人が、どういう人なのか、少しだけ分かったような気がする」
烈火という人。
護りたくて、護りたくて、護りきれなかった彼の人。
思いだすだけで涙が止まらなくなるほど大切だった人。烈火。
「遼には……どんな人に見えた?」
「え? ……うーん……」
遼は思案するように目を中空へと向ける。
ふと逸らした目の端に黒曜石の瞳が見えた。
「強い人……かな」
そう言って、遼は小首を傾げる。
「いや、ちょっと違うな。強いのは強いんだけど……何だろう。もしかしたらあの人は、オレ達の中で一番戦いが似合わない人だったのかも知れないって思った」
ほんの少し驚いた目をして伸が遼を見ると、遼は戸惑ったように肩をすくめた。
戦いが似合わない人。
あれほどの強さを持っていた烈火に対してのその感想は、不思議なくらい烈火という人の核心をついているように思えた。
やはり、少なくとも遼が烈火の意志を継いだ人間であることは間違いないのだろう。
烈火が後を託すに値するだけの人間であったことは。
と、その時、ピピッと炊飯器がご飯の炊きあがった合図を送ってきた。
伸は慌てて振り返ると、軽く水で濡らしたしゃもじでお櫃の中のごはんをほぐし、空気を入れた。
ちょうどグリルの中では鮭も上手く焼き上がっている。
「伸は……さ。烈火の最期を見てるんだよな。そばにいたから」
「……そうだね」
「憶えてる? 今でも」
ご飯をほぐす伸の手が止まった。
遼はそんな伸の背中をまっすぐに見つめている。
やがて、遼がポツリと言った。
「あの時……烈火は。烈火はやってはいけないことをしたって正人が言うんだ」
「やってはいけないこと……?」
「……ああ」
自分は。
あの時、水凪の目の前で死を選んだ自分は、その行為によって水凪を傷つけた。
これ以上ないくらい酷い傷痕を付けた。
永遠に消えない傷痕。
永遠に消えない罪。
だから自分は罪人なのだ。
罪人は、この咎と一緒に、生きていくのだ、と。
「でも……仕方ないよな」
「……え?」
伸が振り返ると遼は困ったような笑顔を見せていた。
「仕方ないよ。だって、そうせずにはいられないくらい、烈火は好きだったんだから」
「…………」
「そうする以外、他に方法を思いつけないくらい、愛してたんだ」
「…………」
「だから、仕方ない。だって……だって想うことは、想い続けることは決して罪じゃない」
「…………」
「罪なんかじゃないよ」
そう言って、今度こそ、遼ははっきりと笑顔を見せた。

 

 

――――――ノックも省略して、正人が静かに書斎の扉を開けると、思ったとおり当麻は書斎のソファで眠り込んでいた。
頭のそばに何やら小難しそうな分厚い本が置いてある。寝転がって読んでいたのだろうか。
ふと見ると、パソコンの電源も入ったままのようである。
「こいつ、省エネとか考えないのか?」
呟いた正人の目がパソコン画面に吸い付くように止まった。
画面に映っているのは、海に降る星のスクリーンセーバーだ。
静かに海に降り注ぐ星の光。
「…………」
これは自作した画面なんだろうか。
降り注ぐ光を追うように正人がそっと手を伸ばし、パソコン画面に触れかけた時、後ろのソファでゴソッと人の動く気配がした。
「……何やってんだ?」
「お前を起こしに来たんだよ」
振り返りもせずに、正人は答えた。でも手は触れかけた画面の手前で止まっている。
当麻は無言でのそっと立ちあがると、脇から手を伸ばして、パソコンのEnterキーを押した。とたんにスクリーンセーバーが消え、デスクトップの画面は空の風景の壁紙に切り替わる。正人がようやく振り返って当麻に顔を向けた。
「別にパソコンは覗いてないぞ。そこまでずーずーしくはないつもりだから」
「そんなこと疑ってないよ。別に見ても構わないし。そんな目でスクリーンセーバー見られてる方が何か恥ずかしい」
「あ、やっぱりこれ、お前の自作なのか?」
「……まあな」
すねた口調で当麻はそっぽを向いた。
その表情で分かる。何故当麻がこれを作ったのか。
「こういうところ、案外素直なんだよなぁ……お前って」
「なんだそれは」
「別に。お前がガキだってことだよ」
「はぁ!?」
反撃が来る前にするりと身をかわし、正人は距離を取って真正面から当麻を見るとにやりと笑った。
「ま、今回は大人しく引いてやるけど、次は全力で行くつもりなんで、そこんとこよろしく」
「……何のことだ?」
当たり前のことだが、何を言っているのか分からず、当麻が怪訝な顔をした。
「以前、遼も言ってたみたいなんだけどさ。オレ達は長距離ランナー目指すことにしたから」
「…………」
当麻の表情が僅かに引き締まる。
「百年も経てば、烈火の罪も時効ってことだ。そうしたら……」
「…………」
「そうしたら、また同じ位置から始めよう」
「……それ、どんだけ長いスタンスで物言ってるつもりなんだ」
「おかしいか?」
「……いや、おかしくは…ない……」
いつか。
それは次の転生の時か、その次の転生の時か。それは分からないけど。
いつか。
いつの日か。
「オレ……」
ぽつりと当麻が言った。
「オレはあんたに一生敵わないと思って生きてきたんだぞ。烈火」
正人がフッと笑った。
「奇遇だな。オレもその言葉、そっくりそのまま返すよ」
「……え?」
「オレも……っつっても烈火じゃなくて柳も、ってことだけど」
「……あ……」
「柳も一生、雫兄には敵わないと思って生きてたんだ。だからお互い様」
「…………」
「あ、ってことは、今のところ、一勝一敗一引き分けってことか」
ポンッと手を打ち、正人が言った。当麻もつられて頷く。
「なるほどね……って、おい、引き分けってのは何だよ。いつのこと言ってんだ」
「んなの今に決まってんだろ」
「今ぁ? お前、何言ってんだ。今さっき今回は引くとか何とか言ってたじゃねーか」
「それとこれとは別だろーが」
「何処が別なんだよ」
「ぎゃんぎゃん騒ぐな、ガキ」
「何だとー!?」
段々と口調がヒートアップしだした時、それを見透かしたように書斎の扉が開き、伸が顔を覗かせた。
「2人とも起きたのなら、さっさとキッチンへ来るように。そろそろ征士達も降りてきそうだから。ほら、早く」
「……へーい」
やはり、この家の中で一番強いのは伸なのだろう。色々な意味で。
当麻と正人はお互い顔を見合わせて、自然と笑みを浮かべた。
「ほら、さっさとして。行くよ」
「へいへい」
スタスタとキッチンへ戻っていく伸の後を追って正人が書斎を出ようとした時、突然当麻が声をあげた。
「正人!」
「……?」
ドアノブに手をかけたまま正人が止まる。
「何?」
「あ……あのさ」
「……なんだよ?」
姿勢はそのままで正人が首だけ当麻を振り返った。
「何だよ。何かあんのか?」
「あ……いや、その……さ」
「…………?」
「あ、あんたは正人なんだからな」
「……はぁ?」
何となく必死な形相で言い切った当麻に正人が不審気な目を向ける。
「……なんだって?」
「だから、あんたは木村正人なんだ。だから……」
「…………」
「あんたは烈火じゃない。そりゃもちろん半分は烈火なんだろうけど、でも全部じゃない」
「…………」
伸がキッチンへ入っていったのを確認し、正人はようやく身体ごと当麻に向き直った。
「お前、何が言いたいんだ?」
「何がって……だから……」
ごくりと唾を飲み込み、当麻は正面から真っ直ぐに正人を見据えた。
「烈火の意志も心もあんたの中にあることは認める。でも、あんたはあんたであって、全部が烈火なわけじゃない。だから、あんたは烈火の罪を全部背負い込むことはないんだ」
「…………」
「烈火の犯した罪は烈火のものだ。だから、それを理由に身を引く必要はないとオレは思う」
「……お前、意味わかって言ってるのか?」
一瞬、言葉に詰まった当麻は、それでもすぐに、ギリッと唇を噛みしめたままコクリと頷いた。
「本当に……分かってんのか?」
「ああ、分かってる」
「……いいのか?」
「いい」
正人が挑むような目を当麻へと向けた。
「本気……なんだな?」
もう一度、今度ははっきりと当麻は頷いた。
「本気だ。それに、決めるのは伸だ。オレ達じゃない」
正人は答えず、じっと当麻を見つめていた。
「それと、オレは不戦勝も不戦敗も趣味じゃない」
ざわりと、お互いの間の空気が揺らいだ。
「……分かった。今言ったこと、後悔させてやる」
「後悔なんぞ、とうにしてるさ。あんたはオレのライバルなんだから」
そう言って当麻がくしゃりと顔を歪めると、正人は呆れたように息を吐いて、にやりと笑った。
「そうだな。オレ達はライバルだ」
ライバルだ。
過去も未来もずっと。
お互いがお互いを認め合った。唯一のライバルだ。
当麻がほっと息をついた。

 

――――――そして、ご飯も炊きあがり、味噌汁と焼き魚の朝食が出来上がった頃、ようやく二階から征士と秀、2人の足音が降りてくるのが聞こえた。
「おはよう。皆に心配をかけてしまったようだな。すまない」
そう言って、秀のあとから姿を現した征士は、以前と変わらない征士だった。
「おはよう。そして、おかえり、征士」
言いながら、遼が征士にとびきりの笑顔を向けた。

FIN.     

2012.04・22 脱稿   

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