眠りの森(19)

つぶっている瞼の向こう側が少し明るい様な気がして、伸は朝が来たことに気付いた。
でも、何だかまだ夢の中にいるみたいで、ふわふわしている。
夢の中は春。桜の花びらが舞い散る季節だった。
遥か昔。
昔の夢を見た。
桜吹雪の中で、一人の少年がじっと自分を見つめていた。
『オレは貴女を護りたい』
その少年。柳が告げた言葉は、真っ直ぐな愛の告白だったのだろう。
『何も答えないでください。何も言う必要はないですから』
返すべき言葉に戸惑っている自分に対し、少し哀しげにも見える微笑みを湛えながら、少年はそう言った。
遥か昔。そんなこともあったのだと。
ぼんやりとした意識のまま伸はゆっくりと目を開けた。
窓の外はうっすらと日が差しており、早い夏の朝を告げている。
そう言えば今何時だろう。まだ目覚ましが鳴るには早い時間だろうか。そんなことを考えながら、なにげなく伸は横にある隣のベッドに目を向けた。
「…………!」
向けた視線の先で、真正面から正人と目が合う。
驚いて2・3度瞬きをすると、正人がにっこりと笑い返してきた。
「……何やってんの。正人」
「何って?」
正人は伸の隣のベッド。正確には秀のベッドに胡座をかいて、じっとこちらに目を向けていたのだ。
状況から見て、かなり長い間、その姿勢でいたのが分かる。
「……秀は?」
昨日、そこには秀がいたはずだ。なのに。
「そろそろ征士が目覚めそうだと思ったんで交代した。遼も自分の部屋に戻ってると思うぜ」
「征士が……?」
「ああ、烈火が亡くなった所までは見たんだけどさ。やっぱり征が目を覚ます時には、そばにいたいだろうからと思って呼びに来たんだ。で、代わりに」
「あ……あぁ……だったら僕も起こしてくれればよかったのに」
というか、正人がこの部屋に戻ってきて、隣で眠っている秀を起こしたはずなのにそれに気付かなかったなんて。眠りの浅い伸にしては珍しいことだ。
「お前、よく眠ってたからさ。悪い夢見てるふうでもなかったし。戻ってくる前はちょっと心配してたんだけど」
「……え?」
「もし、同調したりして、一緒になって烈火の最期の夢なんか見てたら、起こさないとヤバイと思ってさ」
「…………」
烈火の夢を見ると涙腺が壊れて涙が止まらなくなる。
そんな話をしたのは、つい昨日のことだ。
少々バツが悪くなり、伸は正人から視線を逸らした。
「でも大丈夫そうで良かったよ。ずっと見てたけど、お前気持ちよさそうに眠れてたみたいだし。烈火の夢は見ずにすんでたんだろ?」
「あ……うん…まあ。っていうか、ずっと?」
「え?」
「ずっと見てたって……どれくらい?」
「ああ、こっちに戻ってきてからずっとだから、かれこれ一時間?」
「……なっ……!!」
思わず伸はガバッと身を起こした。
かあっと頬が火照る。いくらなんでも一時間もの間、ずっと寝顔を見られていたのか? 自分は。
「照れるなよ。今更」
「い……今更って、そりゃそうだけど」
それこそ兄弟のように育ってきたのだ。お互いの寝顔など、飽きるほど見てきている。でも、だからといって、そんなに長い間じっと寝顔を見られていたことはさすがにない。
しかも、あんなに真剣な目をして。
「正人……」
「……何?」
「……あ、いや……何でも……」
正人の目が、先程まで夢で見ていた柳のそれと重なる。
真っ直ぐな目。真っ直ぐな想い。
やはり似ているのだ。この同じ黒曜石の瞳は。
柳と、烈火と、あの真摯な眼差しの持ち主達と同じ色の瞳。
「伸」
今度は正人が伸の名を呼んだ。
「……な、何?」
「好きだよ」
「…………!!」
「あ、だからって何も言うなよ。答えは聞きたくない」
慌てて付け加えるように正人はそう言って、大きく首を振った。
「オレ、小心者だから、はっきり言われると絶対凹む。だから何も言わなくていいからな」
「……何も……?」
「ああ、何も」
そう言って正人は必要以上に大きく頷いた。
好きだ。そう告げつつも、答えはいらないと言う。
なんだかさっきの夢の続きを見ているようだった。
ふと思う。
繰り返し繰り返し、転生をする度、自分達はこうやって同じ想いを受け継いでいるのだろうか。
もし、そうなのだったら。
「僕は、君に何も言わないほうがいいの?」
そっと窺うように発せられた伸の言葉に、正人はこくりと頷いた。
「……ああ、何も言わなくていい」
愛おしげに正人の目が細められる。
「お前は、何も言わなくていいよ」
「分かった。じゃあ何も言わない。墓場まで持っていくことにするよ」
「…………」
正人が大きく目を見開き、次いで吹き出すように笑い出した。
「墓場までって……お前、例えがおかしくないか?」
言いながら正人は笑い続ける。
「やっぱ、お前って面白い。相変わらず最高だよ。さすがオレの幼馴染みだ」
「今頃気付いたの? 遅いよ」
軽く返しながら、伸も身を起こして、トンっとベッドから降りた。
「さてと、じゃあ、今日は6人分の朝食作らなきゃ。手伝って」
「了解」
敬礼の真似事をして、正人もベッドから飛び降りる。
鳴る前の目覚まし時計のスイッチを切り、伸は大きく伸びをすると颯爽と部屋のドアを開けた。

 

――――――「オレ、ここを離れようかと思ってるんだ」
「え?」
鋼玉が夜光にそう告げた日は、風が一段と強い嵐の前触れのような日だった。
「烈火が逝った。そして水凪も。これで今生でのオレ達の使命は終わったのだと思う。だったらこれ以上ここに留まる理由はオレにはない。死に場所は自分で選ぶ」
真っ直ぐに夜光を見つめ、鋼玉は言った。
風に鋼玉の髪が舞う。
烈火達の死で今生での戦いは終結した。つまり自分達の使命は次へ引き継がれる為の準備を始めたのだ。
「鋼玉……」
夜光は、鋼玉に何をどう言えばいいのか分からず、戸惑ったように名前を呼んだ。
鋼玉が去って行ってしまう。
それはつまり、今生の別れということだ。
分かっていた。鋼玉の行く先は生ではないのだということを。
鋼玉は言葉通り、死に場所を探しに行くのだと。
それだけははっきりと夜光にも分かった。
「行かないか?」
「え?」
「一緒に行かないか? オレと」
まるで、ちょっとそこまで散歩に誘うような軽い口調で鋼玉はそう聞いてきた。突然のことに夜光は答える言葉をなくす。
「どうだ?」
「わ……私は……」
この先どうなるのか分からない。
鋼玉はこのまま戦場に身を投じ、欠片の未練もなく死を迎えるつもりなのだろう。
では、自分は。
自分は、どうしたいのか。
「…………」
「冗談だよ。お前はもうしばらく天城のそばに居てやってくれ」
「鋼……玉……」
水凪が亡くなったのはつい先日のことだった。
今は少し落ち着いているとはいえ、天城の様子は、今でもかなり不安定な状態である。
「お前がそういう奴だってこと分かってて誘ったんだ。困らせて悪かった。気にするな」
そう言ってにこりと鋼玉は笑った。
「……あ……」
「じゃ、オレは行くよ。達者でな。夜光」
「鋼玉……!」
思わず呼び止めようと一歩踏み出しかけた夜光は、その場で固まったように足を止める。
夜光を誘ったのはただの気まぐれか、気の迷いか、鋼玉は一度だけ軽く手を振るとそのまま二度と振り返らずに行ってしまった。
急ぐでもなく、ゆっくりでもなく、当たり前のように去っていく鋼玉の背中を、とうとう夜光は追いかけることが出来なかった。
 

 

――――――ゆっくりと目を開けながら呟くように征士が言った。
「あの時……もう一回言ってくれれば……いや、一度でも振り返ってくれれば……それこそ、立ち止まってさえくれれば、私はあとを追ったのに」
秀も俯せていたシーツからゆっくりと顔をあげ、征士を見つめる。
「せめて、立ち止まってさえくれれば……私は……」
「…………」
「私は……お前と……」
「じゃあ、今もう一度誘ってもいいか」
そっと秀が言った。
「今度こそ、オレと行こう」
「…………」
「今度こそ」
「……秀」
「行こう。一緒に」
秀に目を向け、征士がはっきりと頷いた。
一緒に。行こう。
方角は日の昇る方角。
自分達の居場所を探して。
ずっと一緒に。また旅をしよう。
「ああ、もちろん」
「…………」
「もちろんだ。秀」
秀は嬉しそうに表情を綻ばせ、ずっと握りしめていた征士の手を離すと、そのまま征士の頬に手を伸ばし、そして触れる寸前で手を止めた。
「…………いいか?」
「……ああ」
征士が頷くと、ようやく秀は安心したように手を征士の頬に触れさせた。
許しを請うて初めて触れる。温かな頬。手の温もり。
まるで、それは一種の儀式のようで。
征士は頬に伸ばされた秀の手を包むようにそっと自分の手を重ねると、真っ直ぐに秀を見つめた。
秀はそのまま征士の瞳を覗き込むような形で近づき、そっと静かに征士の唇に己の唇を触れさせた。
ほんの一瞬。それは重なったとさえ言えないほどのキスだった。
「……あ……」
お互いの目が合う。
とたんに秀の顔が真っ赤に染まった。
「ごっ……ごめんっっっ!!!」
つかんでいた腕を振り払い、秀は首まで真っ赤にして征士の上から飛び退いた。
「ごめんっ! オレ、今……何……」
袖口で自分の唇を覆う。自分でも今、自分が何をしたのか分からないといった様子で秀はオタオタと視線を中空に彷徨わせた。
「何故謝る?」
征士が聞いた。
「私は少しも嫌ではなかった。だからお前が謝る必要はない」
「…………」
秀がゆっくりと自分の口から手を降ろした。
「……征士」
「私は嫌じゃない。秀」
はっきりともう一度征士は言った。
「嫌じゃない」
これ程に。これ程に愛おしいと思えるなんて。こんな瞬間が来るなんて。
秀はゆっくりと征士の元に戻り、ベッドの端に腰掛けた。
征士が真っ直ぐに秀を見て微笑んだ。幸せそうな笑顔だった。
秀にとって、世界で一番綺麗な笑顔がそこにあった。

 

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