眠りの森(18)

書斎の、いつもは当麻が惰眠をむさぼっているはずのソファの上で、伸はゆっくりと目を開けた。
掌にはまだ握りしめていた鋼玉の手の温かさが残っている。
あの時、自分の中の癒しの力を天城が引き出してくれたおかげで、鋼玉も夜光も大事に至らずに済んだのだ。そんなことすらすっかり忘れていた自分に伸は軽く苦笑した。
癒しの手。
この小さな手にそんな力が宿っているなんて今でも信じられない気がする。
握って開く。そして再び握って開く。
大切な何かを自分はこの掌に握り込めているのだろうか。そしてそれを大切な誰かに渡すことが出来ているのだろうか。
もう一度、握って開く。
「伸……?」
その時、カチャリと音を立てて書斎のドアが開き、当麻が驚いた顔を覗かせた。
「キッチンにも居間にもいないと思ったら、こんな所にいたのか。何やってんだよ」
「あ、当麻。おはよう」
「おは……って、え?」
時刻はすでに夕方。日が沈む頃だ。冗談を言っているわけでもなさそうな伸の口調に当麻はぽかんと口を開け、その場に立ち止まった。
「そこで、寝て……たのか?」
「うん。夢を見てたんだ」
「……夢?」
当麻の表情が曇る。
「夢って、何の? もしかして征に同調してたのか?」
慌てたように当麻が伸の元へ駆け寄った。
「大丈夫か?」
「大丈夫。別に同調してたわけじゃないし」
「そう…なのか?」
僅かにほっとした様子にはなったが、それでも当麻の表情の陰りは取れない。
「さすがにここで眠って同調は出来ないよ。まあ、若干シンクロはしてたとは思うけど」
「…………」
「僕の手が鋼玉の傷を癒してた。あれは、みんなが城から戻ってきた時……だよね」
「ああ……」
やっぱり。そんな表情で当麻は唇を噛みしめた。
水凪が鋼玉の傷を癒す。
それはつまり自分達がボロボロになって城から戻ってきた直後だ。
シンクロというのは、完全に同調してはいなくても、時間帯は同じということなのだろう。
当麻は気遣うように二階を見あげた。
「コウ……夜光はどうしてた?」
「……眠ってたよ。烈火と天城が2人を連れ帰ってからずっと、一度も目を覚ましてない」
「……そうか……」
「……何があったの? って今更僕が聞いても仕方ないんだろうけど」
夜光の姫が亡くなった直後。
あれは恐怖以外の何物でもなかった。
もし、夜光が思いだしてしまったら。
紅の、あの記憶を思いだして、あの頃と同じ状態になってしまったら。
そう思うと、どうすればいいのか分からなかった。
紅の一番酷かった頃の状態を知らない自分でさえそうだったのだ。鋼玉の精神状態は如何ばかりだったろうか。
でも、お互い相談はしなかった。出来なかった。
話すことで、何かが壊れてしまうような気がしてしまったんだ。
当麻は伸の問いに困ったように眉を寄せた。
「ごめん。土足で踏み込みすぎた。忘れて」
突然、会話を切って伸がそう言った。
「言いたくないことだってあるよね。君と夜光だけの記憶だってあるだろうし」
「いや……そうじゃない……けど」
「……けど?」
「…………」
当麻の顔を見て、伸は自嘲気味にくすりと笑った。
「ごめん。なんか僕、君に意地悪してるみたいだ」
「……え?」
「秀が、征士の所に行ったのは、共有したかったからだって、正人が言ったんだ」
「……?」
「知らないということで、理解出来ないということで、相手を傷つけるのは堪らない。だから、すべてを知るために行く。すごいと思った。でも、僕は意気地がないから出来なかったんだ。だからこんな中途半端なことしか出来ない」
何故、伸がそんなことを言い出すのか分からなくて、当麻は僅かに眉を潜めた。
伸はいったい何にこだわっているのだろう。
「僕はね、君と夜光を見るのが怖かったんだ」
当麻の疑問に伸はそんな形で答えを出した。
「怖いって……なんで?」
「知りたいと思う反面、知りたくなかったんだ。敵わないと思うのが怖くて」
「……敵わない?」
何が。
誰が誰に敵わないというのだ。
伸は当麻の視線から逃れ、小さくため息をついた。
「君達の間の絆を知れば知るほど、僕は自分の未熟さや力の足り無さを思い知る」
「…………」
「君が夜光のこと慕っているのは分かってるけど、でも、何処かでそれを認めたくない自分がいて。君が夜光のことを話すたび何だかモヤモヤして……」
「…………」
「……そんなに好きなんだなぁって思うと、何だか……」
「……伸?」
「駄目だね。もしかしたら、僕は夜光にやきもちを妬いてるのかも知れない」
「…………!」
あまりにも思いがけない言葉を聞いたような気がして、伸を見つめた体勢のまま当麻が固まった。
「……伸、お前……」
当麻の声に伸はようやくハッとして口をつぐんだ。
「あっ………い…今のは……その……ただの独り言で……だから……」
「……伸」
「何でもないから。今の忘れて。聞かなかったことに……」
「出来るわけないだろうがっ!」
叫ぶと同時に当麻は飛び込むようにソファに身体を投げ出した。起きあがりかけた姿勢のままだった伸は、そのまま文字通り当麻に押し倒される形になる。
「と…当麻っっ!」
「今の……もう一回」
「忘れろって言ったろう!」
「絶対忘れてやんねえ」
「…………」
間近でじっと見つめられ、伸が言葉に詰まった。
「ぜ……前言撤回する。今言ったことは全部嘘だから」
「…………」
刺すような目で当麻は伸を見つめている。
「嘘……」
「…じゃないだろう。それくらいは自惚れていたい」
僅かに伸の頬が染まった。
「……当麻……僕は……」
続く言葉を遮るように、当麻の唇が伸の唇を塞いだ。
「……んっ……」
当麻の腕の下で伸が身をよじる。舌を絡め取られ、ピクリと伸の身体が反応する。
「……っと……」
「…………」
「ちょ……と、当麻、待っ……」
その時。
伸がなんとか当麻の身体を押し戻そうとした瞬間、まるではかったようにけたたましい音をたてて書斎の扉が開かれた。
「伸っっ! 情けないぞ!」
正人の大声が部屋中に響き渡る。
「まっ……正人!?」
硬直したように伸と当麻の動きが止まった。
「結婚前の娘がそんなふしだらな……オレはお前をそんなふうに育てた覚えはないぞ!」
「僕だって君に育てられた覚えなんかないよっっ!」
叫び返しつつも、伸は正人が差しだした手に縋るように捕まり、当麻の身体の下から抜け出した。
そのまま当麻から逃れるように正人の後ろに回り込む。
「……ありがと。助かった」
「どういたしまして」
正人はにっこりと笑みを浮かべて伸を見た後、くるりと当麻を振り返った。
「ったく、このド変態。公衆の面前で何やってんだ」
ソファから起きあがりもせず、当麻は正人を睨み返す。
「何言ってんだ。家の中だろ、ここは。何処が公衆の面前なんだよ」
「オレが見てるってだけで立派な公衆だっつーの」
「なんだその屁理屈。訳わかんねえ。だいたい伸。お前もだ。なんでよりによって正人の後ろに逃げ込むんだよ」
「それは……」
「それに助かったってのも何だよ。嫌だったんなら、あんなこと言わずにもっと抵抗すりゃいいじゃねえかよ」
「……はぁ!?」
伸が正人の後ろから、当麻を睨み付けた。
「……抵抗なんか…出来るかっ! バカ!!!」
「…………」
「ほんっとうに……バカ!」
叫び、伸は蹴破るようにドアを開け、出ていった。
残された正人は呆れたように肩をすくめて、当麻を見おろす。
「ホント鈍感。遼が言ってたとおりだ」
「え? 遼が何って?」
「ああ、何でもない何でもない。マジ腹立ってくるんで、その話は終わり。オレ、んなことするために来たんじゃないんだから」
「って、じゃあ何しに来たんだよ」
「ああ、いちおう報告はしておこうと思ってさ。オレ達、これからコウの所……っつーか、烈火の所へ行くんで」
「……え?」
当麻は真面目な表情に戻ってソファから身体を完全に起こした。
正人は飄々とした態度で当麻を見おろしている。
「どういうことだ、それ。オレ達って……」
「オレ達ってのは、オレと遼」
「……!?」
「遼に見せてやろうと思ってさ。烈火を」
「烈火を?」
「そう。この後の夜光に同調すれば、遼も烈火のこと見られるだろう」
「なっ……!?」
当麻が絶句した。
この後。姫の死の後、本格的な戦いが始まったのだ。
そして、烈火が初めて人を殺したのも、あのすぐ後だった。
烈火が落ちない血の染みを必死になって洗い出したのも、あの後だ。
「……おい、お前、どういうことか分かってんのか?」
当麻が押し殺したような声で、正人に聞いた。
「分かってるに決まってるだろう。オレが辿った道なんだから」
「だったら……」
「遼には見る権利があるんだよ。あいつには烈火の生き様を見る権利があるんだ。だから見せる」
「…………」
「第一、これは遼が言いだしたことだ。烈火のことを知りたいって。だったら実際見に行くのが一番手っ取り早い」
「……だからって……」
「大丈夫。何かあったらオレが何とかする。だから一緒に行くんだし。っつーことで、今夜、征の見張り役はオレ達なんで、秀には退いて貰う。自分の部屋でゆっくり休めって言っておいてくれよ。当麻」
「……分かったよ……って、え?」
「……ん?」
「お前、今、オレのこと……」
当麻が驚いた目で正人を見た。正人は僅かに首を傾げ、当麻を見返している。表情に変化はない。
「何?」
正人は今、初めて当麻と。
当麻と、自分を名前のほうで呼んだ。
「……? どうかしたか?」
「……いや、何でも……ない」
「変な奴。ま、いいか。じゃあ行ってくるな」
わざとなのか、本当に気にしてないのか、気付いていないのか。
静かに出ていく正人の背中を当麻は無言で見送った。
悪い気はしなかった。むしろ、何だかくすぐったくて。
嬉しかった。

 

――――――夜。ガチャリと部屋のドアを開け、伸が自分達の部屋へ顔を出した。部屋の中には、夕食後一足先に戻ってきていた秀が、ベッドの上に寝ころんでいる。
「秀……もう寝る?」
「ああ……っつっても、目が冴えて全然眠れそうにないんだけどさ」
「そうなんだ。じゃあちょうど良かった。ホットミルク入れたんだけど、飲む?」
「え……ホットミルクって、熱いやつ?」
「熱くないホットがあるわけないだろ」
苦笑している伸の手には、大きめのマグカップがひとつ。温かそうな湯気が立ち上っていた。
ただでさえ夏の夜は暑い。なのに何故。温かい飲み物を。
ランニング姿の秀は不思議そうに首を傾げた。
「この時期に熱い飲み物ってのも何なんだけど、ホットミルク飲むとよく眠れるって言うからね。いいかと思って」
「そういうことか」
「そういうこと」
にっこり笑い、秀は伸の手からマグカップを受け取った。
「とにかく、君はそれ飲んで早めにちゃんと眠ること。寝不足続きだと体調崩すよ」
「へ〜い」
伸の言葉に秀は大人しくホットミルクを飲んだ。かなり甘めにしてあるミルクがしっとりと胃の中に染み渡る。
「どう? これで眠れそう?」
「まあな。でも、何か妙な感じなんだよな」
「妙なって……何が?」
自分のベットに腰を降ろし、伸が首を傾げた。
「いや、この部屋空けたのって昨夜だけだったはずなのに、何かすっげー久しぶりに戻ってきたって感じがしてさ」
「そりゃ、ずっと征士の所にいたからだろ」
「そっか……そうだよな。まあ、征士っつーか、夜光の所に…だけど」
「うん」
コクリとホットミルクを飲む秀を見ながら、伸は微かに息を吐いた。
夜光の事を知りたい。思いだしたい。
記憶を共有したい。
どんなに苦しくても、目を逸らさずに見ていたい。
それは、どれほどの勇気と愛情があれば耐えられることなのだろう。
「……どうだった?」
聞いているのか、呟きなのか微妙な調子で伸が口を開いた。
秀は両手でマグカップを抱え、一瞬伸を見た後、視線を下へと落とす。
「結構、キツかった……かな」
「……そう……」
「でも、後悔はしてない」
はっきりとそう言って、秀は顔をあげた。
「だって、前よりずっと、あいつのこと好きだって思えるようになったから」
「……秀……」
「って、んなこと真面目に言うと照れるな」
少しだけ頬を赤くして、秀はグシャグシャと頭を掻いた。
「秀は強いね。そして優しい」
「……え?」
「僕も強くなりたい」
秀が真っ直ぐに伸を見た。
「……強く?」
「うん……強くなりたい」
「…………」
強くなりたい。
それは口癖のように烈火が言っていた言葉だ。
「そう……だな……」
ぽつりと呟いて、秀は小さく頷いた。
夜が静かに更けていった。

 

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