眠りの森(17)

「大丈夫だよ入ってきて」
遼の声に安心して、正人は初めて暗室へと足を踏み入れた。
「ずっとここに居たのか?」
「まあな」
暗室にする前は納戸か何かだったのだろうか。そこは、こじんまりとした窓のない小さな部屋だった。
部屋の大きさといい、明かりのはいる状態といい、確かにここは暗室にするにはもってこいの環境だったようだ。
正人は感心したようにぐるりと室内を見回した。
部屋中に渡されたロープには、何枚かの写真が挟まれたまま揺れている。
でも、机の上に置かれたバッドの中は空で、現像液は入っていないようだ。
「何か作業してたのか?」
「いや、特に。急ぎの物はないから。ちょっと片づけとかしてただけ」
「そっか……」
「何もなくてもちょっと1人になりたくなったりしたら籠もるんだ。ここにいると遠慮して誰も入って来ないし」
「聖域ってことか……あ、じゃあオレ、邪魔だった?」
「いいや。構わないよ。本気で誰にも入ってきてほしくなかったら、鍵かけるし」
「そっか、そうだよな」
遼の言葉に頷きながら近くにあった椅子に腰を降ろすと、正人はようやく顔をあげ、真っ直ぐに遼を見あげた。
「遼」
「……何?」
「さっきはごめんな」
「…………」
正人が謝ることは予測していたようで、遼はキュッと唇を結んだまま小さく首を振った。
「別に謝らなくていいよ。オレの方こそ無茶なこと言っちまってごめんな」
烈火の鎧珠。
遼は懐からそれを取り出し、持てあまし気味に掌の上で転がした。
微かに光るそれは、なんだか頼りなくて所在なげな色に見えた。
「それ……さ」
しばらくじっと遼の掌の上の鎧珠を見ていた正人が低い声で呟くように言った。
「さっきの……前言撤回していいか?」
「え?」
遼の手の動きが止まる。
「それ。お前にだけ押しつけるのは、やっぱり違う気がして」
「…………」
遼の目が僅かに大きくなった。
「お前の言うとおり、オレも烈火だ。オレ達は2人共が烈火の意志を継いでいる。だから出来ればそれは、どちらか1人の物じゃなく、2人で持っているのが正しいんだと思うんだ」
「……じゃあ……」
「あ、だからって、それを2つに割るわけにもいかないし、さすがに今オレがイギリスに持って帰るわけにもいかないんで、しばらくはお前に持ってては欲しいんだけど」
慌てて目の前で手を振りながら正人が言った。
「それに此処が、その珠が本来あるべき場所だと思うから、今は受け取れないけど、でも……」
「……でも?」
「オレがこっちへ戻って来たら、その時は……」
「戻ってくるのか!?」
正人の言葉を遮って遼が叫んだ。
そのあまりの迫力に、正人はたじろいで椅子の背に手を回す。遼は正人に詰め寄るように顔を近づけた。
「いつ? 大学はこっちへ進学するってことか?」
「え……あ、まあ……実はそのつもりなんだけど……」
「てことは、少なくとも来年にはこっちに戻ってくるんだな? 正人」
「……ああ」
コクリと正人が頷くと、遼は目を輝かせて嬉しそうに笑った。
「うわぁ……そっか……戻って来るんだ。それ、伸には? 言ったのか?」
「……いや、これから……」
「早く言っちまえよ。きっと大喜びするぜ」
「…………」
ニコニコと本当に嬉しそうに笑う遼を見て、正人は呆れたように肩をすくめた。
「遼……お前、本気で素直に喜んでくれてるのな」
「え? そりゃもちろん」
「オレがこっちに戻ってくるのは嬉しい?」
「嬉しいよ」
間髪を入れずに遼は答えた。もちろん目を逸らしもしない。
遼の言葉が真実である証拠なのだろう。
正人は苦笑しつつ照れたように頭を掻いた。
「ったく、そう素直に喜ばれると、どうしていいか分からなくなるよ」
「そうか? なんで?」
遼の返しは本当に屈託がない。
「伸も他のみんなもきっと嬉しいと思うぞ?」
「さあ……少なくとも羽柴は渋い顔するんじゃないか?」
「当麻が?」
きょとんとした顔で遼は首を傾げた。
「何言ってんだよ。今回、正人を呼んだのは当麻じゃないか。なのにどうして……」
「そりゃ……だって、今回のは征……夜光の為に呼びつけたようなものだろ? 事情が違うよ」
「どう違うんだ?」
「オレが戻ってきたら、奴はきっと嫌がるよ」
「……どうして?」
「だって、オレも伸のことが好きだから」
「…………!?」
初めて、遼の表情から笑顔以外のものが飛び出した。
「何驚いてるんだよ。そんなに意外だったか?」
「いや……だって、正人と伸は幼馴染みで……」
困ったように遼は正人から目を逸らし、部屋の中を歩き回りだした。正人はそんな遼を座ったまま目で追いかける。やがて遼はポンッと掌を手で打ち、1人で納得したように頷いた。
「あ、そうか。好きは好きでも、意味が違うんだろ。だったら大丈夫だよ。当麻は誤解してるだけだろうし」
「違わないよ」
正人の言葉で遼の歩みが止まった。
「同じ。分かるだろお前も。烈火なんだから」
「…………」
ゆっくりと遼が正人を見つめた。
「遼、オレ、思うんだ。……炎は水に惹かれる性質を持ってるんじゃないかって」
「……水……に?」
「そう。一見相反するもの。炎と水。オレ達炎は、水には触れることが出来ない。触れたら消えちまうんだもんな。でも、きっとだから……」
「…………」
「だからこそ、恋い焦がれてしまうんだ」
遼が唾を飲み込んだ。鎧珠を握る拳に力がこもる。
「……烈火も?」
「烈火も」
「水……水凪を好きだった?」
「ああ、そうだよ。烈火も……柳もだ。みんなみんな。オレ達みんな揃って、あいつに惚れてんだよ」
掌の中で鎧珠が一瞬熱を帯びたように熱くなった。
「ま、そうは言っても、オレは今回は早々に戦線離脱してるんだけどな」
「戦線離脱って……どうして」
「決まってる。言っただろ。烈火が罪を犯したからだ」
正人は自嘲気味にそう言い放った。
「オレはしてはいけないことをした。人生最大の大失敗だ。だから同じ土俵に立つわけにはいかない。立っちゃいけないんだ」
「何でだよ。それはおかしい。だってそれは烈火のしたことであって、正人じゃ……」
「だから言ったろ。オレは烈火だって」
正人の真っ直ぐな眼差しに、思わず遼は口をつぐんだ。
「烈火の犯した罪は誰かが償わなきゃいけない。だとしたら、その適任者はオレだろう。やっぱり」
「…………」
「でも、別にいいんだ。オレは後悔してない」
何故なら。
烈火がその人生最大の失態を犯さなければ、自分は今、此処にはいなかったのだから。
そうしたら。
“此処にいて欲しい”
誰よりも大切な愛しい者から発せられたあの言葉を聞くことも出来なかった。
いや、それ以前に、これほど誰かを愛おしいと思う気持ちさえ知ることはなかった。
だから、もう、それだけでいい。
「あ、だからってお前まで諦める必要はないぞ、遼。お前なら頑張ればいつか逆転ホームランだって」
「無理だよ。オレはもう振られてるから」
正人の言葉を遮って、遼は笑みさえ浮かべながら言い切った。
「……振ら……れた?」
今度は正人の目が真ん丸に見開かれる。
「振られたって……伸にはっきり言われたのか? お前」
「……まあね。言われたっていうか、オレが言わせちまったのかもしれないけど」
「…………」
「やっぱり伸は当麻のことが……」
「わーーー!!!」
大きく手を振り、正人は遼の言葉を遮った。
「言うな! みなまで言うな! 心臓に悪い」
「あ……ごめん」
遼が首をすくめると、正人は大袈裟にため息をついて腕を組んだ。
「そっか……でも、それ羽柴は知ってるのか?」
「当麻が? うーん。たぶん知らないんじゃないかな? 伸がそういうことベラベラしゃべるとは思えないし」
「だよなぁ、やっぱ」
再び正人は大きくため息をついた。
「にしてもなぁ……そっか……お前、すげえな」
「すごいって何が?」
「いや……分かってても怖いだろ。そういうことはっきり聞くのって」
「そりゃそうだけど……」
「……辛くなかったのか?」
「辛かったよ。もちろん」
「苦しくないのか?」
「苦しいさ。そりゃ」
「羽柴を殴り倒したくならないか?」
「そりゃ……もちろ……」
言いかけて、遼は吹き出した。
「もちろんそうに決まってる。当麻って、あれで案外鈍感なんだ。どんなに自分が倖せか分かってない。見ててイライラするよ」
「やっぱ、そうだよなー」
「そうそう」
お互い目を見合わせて、正人と遼は笑いあった。
炎が水に惹かれるのは、もうどうしようもない真実なのだ。
出逢った瞬間から、いや出逢う前から、自分達の想いは決まっていたのだと。
たとえ永遠の片想いであっても、それだけは真実なのだと。
きっと自分達は最初から知っていたんだ。
「……でも、仕方ないかな……とも思うんだ」
ほんの少し、笑顔さえ見せながら遼が言った。
「仕方ないって?」
「だって、オレも当麻のこと好きだし。なんで伸が当麻に惹かれるのかも分かる気がするから」
「…………」
「正人もそうだったりするだろ?」
「……あ……まぁ……そう…かもな」
烈火として初めて逢った頃。やけに不思議な目の色をした子供だと思った。
大人びているというか、何というか。
そう。言うとすれば深い。
とてつもなく深い色の目をしていると思った。
でも、あの頃、その理由は最後まで分からなかった。
今なら分かる。
今の自分なら、あの目がどれほどの哀しみを堪えていたのか、記憶の重みに押し潰されそうになりながらも、どれほど必死になって生きてきた証であったのか。分かる。
「……そうだな……」
烈火の頃は知らなかったことを、今の自分は知っている。
それはきっと、自分が烈火であって烈火でない証拠なのだ。
「なんだ。簡単なことじゃんか……」
「……え?」
「ああ、何でもないよ」
自分は誰なのか。
そんなこと、誰に聞くことでもない。
自分は自分。ただ、それだけ。それが答え。
「なあ、正人。ひとつ頼みがあるんだけど」
正人の思考を遮るように、改まった口調で遼が言った。
「頼み?」
「オレに烈火のことを教えてくれないか?」
真っ直ぐに遼を見返し、正人はひとつ瞬きをした。

 

――――――「よかったー。鋼玉! 目が覚めた?」
重い瞼をあけた鋼玉の目に、水凪の新緑の若葉のような色の瞳が映った。
「……水凪……?」
「うん」
「ここは……?」
「大丈夫。里だよ。烈火と天城が2人をここまで連れ戻してくれたんだ」
「2人……」
はっとなって鋼玉は身体を起こしかけ、水凪の腕に止められた。
「駄目だよまだ動いちゃ。絶対安静で、指一本動かさせるなって言われてるんだから!」
「あ……」
「大丈夫。夜光はそこにいるから」
水凪が後ろを振り返って身体の位置をずらした。
「……夜光……」
鋼玉の隣で夜光は眠っていた。腕を伸ばせば届くほどの近い距離で。
「離しておいたら、絶対鋼玉起きあがって夜光の所に行こうとするだろうから、2人並べて寝かせておいたほうがいいだろうって。天城が」
「……天城が……?」
「うん。でも大丈夫。夜光は外傷もほとんどなかったし。ショックで意識がなくなっただけだって」
「……それも天城が……か?」
「うん、そう。でも、鋼玉。まず夜光のことより自分の心配しなきゃ。本当に大変だったんだから。ほとんど息もしてなくて、全身大火傷したみたいになってるし、刀傷も残ってて……」
「そういえば、お前が傷の手当てをしてくれたのか?」
身体中に巻かれた包帯に目を移して鋼玉が聞くと、水凪は違うと首を振った。
「実際の手当てをしたのは天城だよ。僕はこうやって手を握って祈ってただけ」
そう言って水凪は鋼玉の手を取り、自分の心臓の所に押し当てた。
すると、ほわっと水凪の手を通して、鋼玉の身体に温かな何かが流れ込んで来た。
温かくて安心する何か。
「なんか天城が、そうするだけでいいからって……」
また、天城が、か。
あの少年は本当に、まるで何もかも見透かしているようだ。と、鋼玉は小さくため息をついた。
水凪のこの力は、恐らく癒しの手だろう。だから、天城は此処に水凪を座らせた。
やはり天城は何もかも知っているのだ。
すべてを知った上で、此処にいるのだ。
「辛いだろうな……あいつも」
「……え?」
鋼玉のつぶやきが聞こえなかったのか、水凪がきょとんとした顔で首をかしげた。
「……何?」
「いいや、何でもないよ」
「じゃあ、どうする? あ、烈火達呼んでこようか?」
「いい。呼ばなくて。もう少し眠るから、お前は此処にいてくれ」
「分かった」
それ以上何も聞かず、水凪は素直に頷き、再び鋼玉の手を取って握りしめた。
その手はやはりとても温かくて、ようやく鋼玉はほっと安心した息を洩らした。

 

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