眠りの森(16)

「もう手遅れです。遅すぎました」
桜色の唇から発せられたその言葉は、夜光の耳には意味不明なものだった。
「手遅れ……?」
遅すぎた。どういうことなのだろう。
姫は哀し気とも言えるような笑みを浮かべて小さく首を振った。
「私の身体はもう汚されてしまいました。あなたとこうして会うことさえ、本当は避けなくてはならなかったのに」
「…………」
「申し訳ありません。未練です」
「…………」
汚された? 何に? どうやって?
「……まさか」
天城のそばで鋼玉が信じられないと言った口調で呟いた。その言葉の意味に気付き、天城はハッとなってもう一度夜光の前に佇む姫の姿を凝視する。
姫の姿は、先日逢ったときと寸分違わず、美しかった。
美しかった。それなのに。
その美しさの中に何か、今までと異なる何かが潜んでいるような気がした。
間近に見て気付く。
それは、もう少女ではなくなってしまった女の美しさだったのだ。
「……そんな……ことが……」
婚礼は明日だったはずだ。
婚前交渉が当たり前のようになってきている現代とは違う。この時代、しかも城主が。
しきたりに従うとすれば、まだ。まだ間に合うはずだった。
まだ、婚礼の杯は交わされていないはずだった。いや、実際まだ交わされていなかったのに。それなのに。そんなことが。
そんなことがあるというのか。
ぞくりと背筋が凍ったような気がした。
陵辱され、他人の物となってしまった姫は、もう以前のままではない。
もう、以前と同じではいられない。
「…………!」
夜光の周りを包む空気が変わった。見あげるとその悲壮な横顔の中、瞳が異様な光りを放っていた。
ザワリと空気の揺れが大きくなった。
この気持ちは何なのだろう。こみあげる吐き気と嫌悪感。そして押さえきれないほどの膨大な怒り。
嫌悪感。
誰への?
それは何に対してのものなのだろうか?
汚されてしまった姫か?
彼女を陵辱したあの男か?
城を乗っ取られ、滅んでしまった父上か?
何も出来ず逃げることしか出来なかった自分自身か?
違う。
そんなことじゃない。そんなものじゃない。
これは。
「……駄目だ……夜光……」
掠れた声で、鋼玉が呟く。
これは、あの時の。
あの時の記憶だ。
ただ、ただ吐き気がする。身体が震える。触れられただけで、背筋が凍る。
我慢が出来ない。
どうしようもない嫌悪感。
姫の身体は汚されてしまった。あの男の手で。その事が夜光の心にどす黒い染みをつける。
真っ黒な染みはどんどん広がる。吐き気と嫌悪感を伴って。
姫の目から一筋の涙が流れた。夜光はそれを正視出来ず、一瞬目をそらす。
それが運命を決めた。
以前と変わらないはずなのに、姫の姿を夜光はもう真っ直ぐに見ることが出来ない。
「お名前を……」
囁くような声で姫が言った。
「お名前を伺ってもいいでしょうか」
「…………」
まだ目をそらしたまま、夜光が僅かに顔をあげた。
「私、まだあなたのお名前すら存じ上げておりません」
「私は……や…夜光……字は、夜の光りと書き……ます」
夜光の声は最後、消えるように小さくなる。姫はほんの僅か表情を綻ばせた。
「夜光。夜の光。そうでしたか。あなたは月の使者でしたのですね」
「…………」
「ありがとう」
呟くようにそう言って、姫は懐から小さな懐剣を取りだした。
「もう少し早く、あなたに再会出来ていれば……いえ、あの時、すぐに離れたりせず、あなたと共に行っていれば、何もかもが変わっていたのかもしれません……」
「…………」
目の端に姫の持つ懐剣が映り、夜光は驚いて、ようやく姫に目を向けた。
それはもうすでに手遅れだったのだが。
「…………」
視線を戻した夜光と目が合ったその瞬間、姫は艶やかに微笑んだ。そして、そのまま夜光の目の前で、手に持った懐剣を首に当て、何の躊躇もなく手前に引いた。
「…………!?」
真っ赤な血飛沫があがり、夜光の身体に飛ぶ。
「…………!」
夜光の口が、何か言葉を綴るかのように開かれる。だがその声は決して発せられることはない。
止めろ。止めてください。
その一言がどうしても出てこない。
硬直したまま動くことも出来ない夜光から、姫はよろけるように2・3歩後退ると、手すりから下へと身を躍らせた。
「…………!!」
夜光の手が伸び、姫の手をつかもうとする。だが、一瞬遅く、姫の身体はそのまま真っ逆様に下へと落ちて行った。
「……あ……」
大丈夫だと。まだ大丈夫だと。
身体を汚されても、姫の心は元のままなのだと。
だから、一緒に。私と一緒に。
その一言が、何故言えなかった。
目をそらしたのは自分。先に姫を拒絶したのは自分。
襲い来る嫌悪感が、夜光の言葉を粉々に消し飛ばした。
「……駄目だ……」
鋼玉が身を乗り出す。
嫌悪感。あの時の記憶。身体の奥深くに突き刺さったまま抜けない楔。
永遠に消えない。
「駄目だ、紅! 思い出すな!!」
鋼玉の叫び声が響いた瞬間、辺りが白光に包まれた。
「夜光ー!!」
真っ白になった世界の中、鋼玉と天城の叫びは虚しくかき消されて消滅した。

 

――――――「…………!!」
引きつったような声をあげて秀の身体がビクンと震えた。
「……秀!?」
当麻が倒れ込む秀の身体を支えるように後ろから手を伸ばす。
「秀! 秀……大丈夫か!?」
「…………」
秀の答えはない。
「秀! しっかりしろ! 目を覚ませ!! 秀!!」
何度か繰り返し名前を呼び、身体を揺すると、秀は己の肩を掴む当麻の手を押さえるように握り返し、小さく首を振った。
「だ……」
「……秀?」
「……大……丈夫。あんま揺らすな」
「あ……悪い」
すっと腕を引くと、秀は疲れたようにベッドの端に背をもたせかけて深く息を吐いた。
「大丈夫か?」
「ああ……」
答えながらも秀の視線は俯いたままだ。
当麻は秀から少しだけ距離を取って、向き合うように座り直した。
「……当麻」
「……ん?」
秀が俯いたままの姿勢で呟くように言った。
「オレ、鋼玉の頃、けっこう過去世のこと思い出してたんだな。知ってたか?」
「……あ、ああ」
小さく当麻は頷いた。
「ちょっとキツい」
「…………」
「いや、本音を言うと、かなりキツい。まさかここまでとは思わなかった」
夜光の姫の死。
それは夜光にとってだけではなく、鋼玉にとっても重い枷となっていたのだ。
あの時、確かに鋼玉は言った。
思い出すな。紅。と。
天城は、あの瞬間、鋼玉がかなりの記憶を戻していることを知った。
そして、それがどういう意味を持つのかも。
「オレ、夜光が初めて姫のこと話してくれた時、本気で嬉しいと思ったんだ。嘘じゃない」
「…………」
「……変わったんだと。ようやく紅は変われたんだと。そう思って、嬉しかったはずなんだ。だから、何でもしてやろうと思った。夜光と姫の為に何でもしてやろうと」
「…………」
「でも、結果は最悪だった」
「…………」
「最悪だった」
もう一度秀は呟くように言った。そして、顔をくしゃりと歪ませて、当麻を見た。
「でもさ、オレの中には、その最悪の結果を喜んでいる自分がいたんだ」
「…………」
思わず当麻はゴクリと唾を飲み込んだ。
「これで、夜光は誰のものにもならないって……そう思った自分がいた。確かにいた」
「……秀……」
「最悪だ。最低だ」
言いながら、秀の目からぽろりと涙の雫がこぼれ落ちた。
「オレ、最低な奴だ」
「……違う……そんなことない」
「最低だ……」
秀の目からは次々に涙がこぼれ落ちている。
当麻は、やっと分かったような気がした。
鋼玉が何故、夜光に微妙な距離を置いていたのか。
近づきすぎず、離れすぎず、絶妙とも言える距離感で、鋼玉は夜光に接し続けた。
あれは贖罪だったのだ。間違いない。あれは自分自身を自分の手で罰していたんだ。
思い出すな。紅。
その一言で、鋼玉がどれほど夜光の記憶に気を遣っていたのか分かる。鋼玉は必死で、夜光の記憶を戻さないようにしていたんだ。自分のすべてで、夜光を護ろうとしていたんだ。
だから、鋼玉は、あの後も、決して誰にも過去のことを語ろうとしなかった。記憶を封印するかのように、何も語ろうとしなかった。
「泣くなよ……秀」
こうなることはきっと分かってた。
秀がこんなふうに泣くことを、自分はきっと知っていた。
そして、鋼玉ももしかしたら知っていたのかもしれない。自分の後に続くであろう秀という男が、何処でこんなふうに泣くことになるのか。
全部、気付いていたのかもしれない。
そんな気がした。

 

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