眠りの森(15)

夜光の姫が死ぬ。間もなく。
「そう……なんだ」
ゆっくりと階段を降り出す正人のあとに続きながら、伸は小さく息を吐いた。
「きっと今頃、オレ達はあの城へ向かっている。いや、もう城に着いた頃かもしれない」
「秀は……それを見に行ったってこと……?」
「そう……なるな」
夜光の姫の死。
そうか。夜光の姫は城の中で亡くなったのか。
なんだか他人事のような気分で伸は正人の背中に向かって相槌を打っていた。
目の端に漆黒の髪が映る。
正人の髪の毛は短いはずなのに、目の端に映るそれは、長い黒髪だ。
伸は階段の中央で立ち止まった。
「夜光の姫様って、どうして亡くなったの?」
あの時、自分は皆と一緒に城へは向かわなかった。1人だけ里に残って彼等の帰りを待っていた。
だから。
だから何も知らない。
正人が振り返り、困ったように肩をすくめた。
「実はオレもよく知らないんだ。だからさっきはかなり無責任なことを言ったのかも知れない」
「……え?」
「例の現場に関しては、オレも直接見てないんだよ」
「……見てないの?」
「ああ」
頷いた正人は、少し記憶を探るように視線を彷徨わせた。
その表情が烈火のそれと重なる。
「あの時、オレは他のみんなより一足遅れて着いたんだ。オレがようやくあの部屋に辿り着いた時にはもう姫はいなかったし、コウは気を失ってた。鋼玉はボロボロだし、天城も珍しくパニック状態で。何が何やら混乱したまま、とりあえず脱出することしか頭になかった」
「…………」
あんたは見てない。
当麻はそう言った。
つまり、直接姫の死に立ち会ったのは、天城と鋼玉、そして夜光だけだったということなのだ。
「でも、あの時の鋼玉の状態がそうとう酷かった事は事実だ。一瞬オレは里に戻るまで保たないんじゃないかとさえ思った」
「そんなに……?」
「ああ、天城も早く水凪の所へ連れ帰らないとマズいって言って……」
水凪の所へ。
一瞬考え、伸は小さく頷いた。
天城は水凪の中に残っているであろう癒しの手の力の事を言っていたのだ。
「じゃあ……どうして……?」
呟いて伸は顔をあげた。
「どうして秀は……」
そんな嫌な記憶をわざわざ見に行ったのだろう。
「そりゃ……共有したかったからじゃないのか?」
正人が答えた。
「共有……?」
「あいつさ……秀、言ってたんだ。自分は夜光のことをあまり覚えてないって」
「…………?」
「不思議なくらい、あの頃の記憶は抜け落ちたまま思いだしていないらしい。だから、それじゃ駄目だと思ったんだろ」
それでは駄目。駄目なのだ。
分からないことが辛い。理解してあげられないことに心が悲鳴をあげる。
だから知りたい。そばで全部見ていたい。何もかもを思いだしたい。
全部共有したい。記憶も知識も経験も。全部。
だから秀は。
秀は行ったのだ。
「そういう……こと……なの?」
「ああ、そうだ」
正人の目は泣きそうなほど優しげに見えた。
漆黒の。黒曜石の瞳だ。
「あいつは知りたいと思ったんだよ。夜光のこと、全部」
全部。
全部を知りたい。
「って、なんかそういう言い方すると恋の話でもしてるみたいで照れるよな」
正人はそう言って笑った。
「お前のことを全部知りたいんだ。なんて口説き文句の定番だ」
「そうだね」
正人につられて笑みを見せた伸の目から、その時、ツーっと涙がこぼれ落ちた。
「し……伸!?」
突然の伸の涙に正人が慌てる。
「どうし……」
「ごめん……」
「……え?」
俯いたまま伸はその場にしゃがみ込んだ。伸より数段下の位置にいた正人はその場で伸の顔を覗き込む。見ると、伸の目からは、更に涙が溢れてきてはこぼれ落ちていた。
「伸? どうしたんだよ急に……」
「ごめん……ちょっと……」
「…………伸?」
「駄目……止まらない……ごめんなさい……烈火」
正人が硬直した。
伸は俯いたまま正人とは目を合わそうとしない。
伸が正人に向かって烈火と呼びかけるなんて初めてのことだった。
「ごめんなさい」
「な……なんで謝るんだよ」
「わかんない……けど……ごめん…なさい……ごめん……」
伸の声は消え入るように小さくなっていく。でも涙は止まらない。
しゃくりあげる伸の姿はなんだかとても幼く見えた。
幼い。まるであの頃の水凪のようだ。
いや、違う。
のよう、ではない。
ここにいるのは水凪なのだ。あの頃の水凪本人なのだ。
正人はそんな伸の姿を見おろしたまま階段に膝をつき、伸に視線の位置を合わせた。
そして、そっと伸の頭に手をやり、くしゃりと掻き回す。
「大丈夫。お前は良い子だ」
「…………」
「良い子だよ。水凪」
「…………」
伸が顔をあげた。大粒の涙が頬を伝って床へと落ちていく。
「なんてね」
にこりと笑って、正人は着ていたTシャツの裾をたくしあげ、そのまま伸の涙を拭った。
「悪いな。ハンカチなんてしゃれたもの持ってなくて」
「…………」
ゴシゴシと伸の頬から涙のあとを拭き取り、正人はようやく安心したように笑った。
「良かった。やっと泣きやんだ」
「……正人」
「あんまビックリさせんなよ。どうしたんだ?」
伸の目を覗き込むように正人が小首を傾げた。
「ん?」
正人の視線から逃れるように伸は激しく瞬きをして、横を向いた。
「あの……ごめん。ちょっと涙腺壊れた」
「うん。それは分かってる。でもなんで?」
「……あ……」
伸は罰が悪そうに顔を歪めた。
「伸?」
「ごめん……駄目……なんだ。何故か分からないんだけど……烈火の姿を見ると……涙が止まらなくなる」
「……え?」
一瞬正人の顔から笑みが消える。
「烈火の……?」
「うん……その……さっき、君、天城って呼んだだろ。当麻のこと」
少し言いにくそうに伸は言葉を呑みこんだ。
「……そうしたら、烈火がいた」
烈火がいた。
正人が僅かに目を伏せた。
「目の前に烈火がいた。見えたんだ。烈火の姿が」
「…………」
「ああ烈火だ。烈火がいるってそう思ったら、もう……」
「…………」
「もう……駄目だった……」
「…………」
「これでも我慢したんだけどね……でも……もう限界」
「……どうして?」
ささやくように正人が聞いた。
「分からないよ。ただ……苦しくなる」
苦しい。
烈火の姿を見ると苦しい。
苦しすぎて。苦しすぎて、涙が止まらなくなる。
姿を見ただけで心が揺れる。締め付けられる。
苦しくて、息が出来ない。
そして涙が出る。止まらない。
どうしても、止まらない。
「……伸」
正人はそっと手を伸ばし、伸の柔らかな髪を梳いた。
「もしかして、烈火の夢を見るたびに、お前、こんな状態になってたのか?」
心配気に正人が聞くと、伸はさすがにそれはないと言って小さく首を振った。
「いつも……そういう時は無理矢理目を覚ますんだ。だから平気」
「…………」
「烈火の……夢を見た時は、無意識のうちに早く起きなくちゃって考えてる。いつも。それで無理矢理にでも目を開ける」
「…………」
なんてことだ。
本当に、なんてことを言うのだろう。
目の前のこの少年は。
本当に、なんと言うことを自分に告げるのだ。
「有り難う」
ポツリとつぶやいた正人の言葉に、伸が驚いたように顔をあげた。
「……え?」
「有り難う。それからごめんな」
伸が僅かに首を傾げる。
「どうして……?」
「何が有り難うかって? そりゃ、夢に見るだけで涙腺壊れるほど想ってもらえるなんて、有り難いことじゃないか」
ほんの少しおどけた口調で正人はそう言って笑った。
「だから有り難う。すげえ嬉しい」
「正人……」
「それから、ごめんな。伸」
そう言って、正人は伸の目を覗き込むようにしてくしゃりと顔を歪めた。
「ごめんな……」
「どうして……」
「…………」
「どうして謝るの? ごめんって……」
「……ああ……それは」
正人は困ったように頭を掻いた。
「それは、オレが烈火だから」
「…………」
「烈火だから……だろう」
「君は……正人だろう……?」
「ああ、それでもオレは烈火だから。2年前ならともかく、オレは今、烈火なんだ。烈火の記憶も知識も……感情も意志も此処にある」
そう言って正人は自分の胸を叩いた。
「此処に烈火はいるんだ。だから烈火が犯した罪に対して、オレはお前に謝らなきゃいけない」
「烈火が犯した……罪? それは……」
「秘密」
多少、自嘲気味ともとれるような笑みを見せて、正人は唇の上に指を立てた。
烈火の罪。
正人はそっと手を伸ばし、指先で伸の頬に触れた。
「ごめんな……伸」
お前を泣かせて。苦しませて。
もしも。もしもあの時、自分が水凪の目の前で死ぬことを選んだりしなければ、伸は泣くことはなかったのだ。
烈火を思い出す度、苦しむこともなかったはずなのだ。
烈火のしたことは、本当に人生最大の失敗だった。
誰よりも守りたかったはずの少年を、誰よりも傷つけて。
「ホント、何やってんだろうな……オレ」
「…………」
「ごめんな……」
「……謝らなくて…いいよ」
微かに笑い、伸が言った。
「謝る必要なんてない」
「でも……」
「もし君が、烈火が僕にしたことで何か負い目を感じているんだったら、そんなの気にすることはない」
「……伸」
「だって烈火がそれをしなかったら、きっと今、君は此処にいないんだよね?」
正人が一瞬息を呑んだ。
「だったら、それだけで充分」
「…………」
「僕にとっては、そっちの方が重要だ」
「…………」
「君が今、この瞬間、此処にいてくれることのほうが大事。だから、君も」
そこで言葉を切って、伸はまっすぐに正人を見た。
「あなたも僕に謝る必要なんかないよ」
大好き。烈火。
遠い昔、真っ直ぐに自分を見てそう言ってくれた水凪の笑顔を思いだした。
もしかしたら、あんなことをしなくても、この少年の心はちゃんと自分の方を向いてくれていたのかもしれない。この少年の心を捉えるために、目の前で自身の死を選ぶなど。本当に愚かな事だったのだ。
それをした所為で、烈火は永遠にこの少年を失った。
手に入れるどころか、永遠に失ったのだ。きっと。
「……伸……」
「…………?」
「……伸、オレ」
伸が微かに首を傾げる。
「……オレは……」
正人の伸ばした手が、伸の頬に触れる寸前、突然正人は弾かれたように伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「ごめんっ!」
「え?」
そして、そのまま立ち上がりかけたところでバランスを崩し、正人は後ろ向きに階段を滑り落ちた。
「うわっ……と!」
「正人!?」
慌てて伸も立ちあがる。
ほとんど一階近くまで降りてきてはいた状況だったので、正人が滑り落ちたのはほんの数段。だが、したたかに背中を打ったようで、正人は顔をしかめて身体を起こした。
「痛ってえ……」
「だ……大丈夫? 正人」
「悪い。今、ちょっと暴走しかけた」
「…………え?」
「あ、大丈夫。大丈夫だから」
誤魔化すように笑って、今度こそ正人は立ちあがった。そして、伸に背中を向け、大きく息を吸い込む。
静まれ。鼓動。オレの鼓動。
「…………」
正人は自分の胸に手を当てた。
そうだ。これは。この鼓動はオレの鼓動だ。
自分と、烈火の、2人の鼓動なんだ。
正人はもう一度、トンっと自分の胸を叩いた。

 

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