眠りの森(12)

階下へと降りていく2人の足音を聞きながら、ドアに背中を預けたまま、秀は入り口からそれ以上入ってこようとせずに鷹取の背中を見つめていた。
「ホント、よく眠ってるな……確かに眠り姫だ」
秀の視線に気が付いているのかいないのか、独り言のように鷹取が呟いた。
「で、お前は試してみたのか?」
「……何を?」
「何って決まってるだろ」
そう言って鷹取はすっと征士の頬に手を伸ばした。思わず秀が小さく声をあげて制止しようとする。
「ちょっ……待てよ!」
「冗談。マジでやったりしないよ」
秀の怒りの声を受け流し、鷹取の手はそのまま征士の頬に触れた。
「そうじゃない! 待てって! さっき言っただろうが!」
「……え?」
征士の頬に触れたまま、鷹取が不思議そうな顔で振り返った。
「あ……いや……そっか」
秀は拍子抜けしたような顔で、小さく首を振った。
「ああ、なるほど。触れたら引きずり込まれるんだっけ?」
ようやく秀が止めた本当の理由を理解して、鷹取が苦笑した。
そう。鷹取は征士に触れても意識をなくしたりしなかった。
確かに考えてみれば、鷹取は自分達とは違うのだから、同じ現象が起きるはずはない。何を焦っていたのだろう。自分は。
「…………」
秀は無言で鷹取から視線を逸らした。そんな秀を見て、鷹取が舌打ちする。
「なるほどね。つまり、それもお前達だけの特権ってわけか。そう考えると悔しいな」
「……え?」
「見ることすら許されないオレからしたら、そばにいて一緒に見てやれるだけ、お前は恵まれてんだよ。感謝しろ。自分の立ち位置に」
逸らした視線を戻し、秀が鷹取を見た。
「…………」
「さっきお前さん、言ったじゃないか。触れたら見えるんだろ。こいつの過去世が。オレなんか見たくても見られないんだぞ。可哀相に思えよ」
「……か…可哀相?」
そんなふうに考えたことはなかった。
でも、確かにそうなのだ。一緒に見る覚悟があれば、自分達は征士に触れても構わないのだ。
いや、逆に考えると、見たければ触れれば見られるということなのだ。
見ると、鷹取はそのまま眠る征士のベッドのそばに屈むようにして額の汗を拭ってやっていた。
見られるか見られないか。触れられるか触れられないか。
どちらが倖せなのか。それは当人でないと分からない。
いや、当人だからこそ分からない。
ただ、自分達がお互いに無い物ねだりをしているということだけは、何となく分かった。
「見たいのか? 過去世が」
「……ああ。叶うものならな」
「戦いだらけの悲惨な過去だぞ」
「構わないさ。こいつが味わった過去なら、知りたいと思うに充分な意味がある」
「…………」
鷹取ははっきりとした口調で断言した。迷いがないという証拠だろう。
「もちろん、知っていてもいなくても、それで何が変わるってわけじゃない。こいつの過去世を知ったからって、それでオレがこいつを見る目が変わるわけでもない。でも……知ってたほうがよりこいつの近くに寄れるのなら、出来れば見てみたい」
征士の額を拭く鷹取の手の動きを目で追いながら秀が呟くように聞いた。
「なあ……た…鷹取先輩は、征士の何処を気に入ったんだ?」
「唐突な質問だなぁ」
手を止め、鷹取が秀に向き直った。
「いいから教えてくれよ」
「そうだな。一言で言えば核かな?」
ぶっきらぼうな秀の口調に苦笑しながらも鷹取は真面目に答えた。
「かく?」
「そう。核。そのものの中心」
「…………」
「好きになる理由なんて、それこそあらゆるものがあるじゃないか。顔が好みだとか、声が良いとか、仕草が可愛いとか、優しいところが好きだとか。まあ、ぶっちゃけこいつの顔は確かに好みだが、そういうことじゃなくって……」
そこで鷹取はふと視線を落とした。
「やっぱり一番惹かれたのはこいつの中心を成すもの。こいつの存在の真ん中にある核の部分。何よりもそれが気に入った」
「…………」
「環境次第で人間の性格なんて随分変わる。幸せな人生歩んでる奴は笑顔が似合う性格になったり、辛い事ばっか経験してると影があるなあって周りに言われるようになったり。でも、人間の一番の核となる部分って、そんなのには全然影響されたりしないんだよ。何物にも変えられない。影響されない核の部分。魂って言ったらちょっと気障だけど。オレはこいつのその部分が気に入ってる。お前もそうだろう?」
「オレも?」
「違うのか?」
「あ……いや」
違わないと思う。でも正直言って考えたことはなかった。
鷹取はふっと笑みを見せると、真正面から秀を見おろした。
「じゃあ反対に質問しよう。お前さん、こいつがもし記憶喪失にでもなったとしたらどうする?」
「え?」
「全部忘れて、もちろんお前のことも全部だ。そうしたらお前はこいつを嫌いになるのか?」
「……!?」
「ならないだろう?」
「あ……当たり前じゃねえか!」
「じゃあ、それと同じだ」
「…………」
同じ。
「記憶があろうがなかろうが、それでこいつの何かが変わるわけじゃないだろう。何があってもこいつの核の部分だけは永遠に変わったりしない。変わらない」
「…………」
「透明で綺麗なままの伊達征士だ」
核の部分とは。
それは、礼の珠を受け継ぐ資格のある者、つまり分裂する前の征士と兄征一が持っていたものだろう。
恐らくそうなのだ。
紅も夜光も、征士も。
彼等の核を成す部分は何も変わらない。
何があっても、それこそ本当に何があっても、それは同じだったのに。
あれだけ酷い目に遭っても紅は透明なままだった。夜光だってそうだ。そして征士も。
透明で綺麗で凛とした、硝子細工の。
初めて護ってやりたいと心から思った、あの硝子細工の魂。中心となる核。
何も変わらない。変わるはずがない。
「つまり、過去世を見ていようが、経験していようが、征士は変わらないってこと……か?」
「え? あ、ああ。そりゃそうだろう」
「じゃあ征士は、ずーっと征士のままなんだな?」
「……? 何、当たり前のこと言ってんだ? お前は」
「…………」
自分は何を不安がっていたのだろう。
鷹取はちらりと秀を見たあと、もう一度征士へと視線を戻し、その額にかかった前髪を梳くと頬に触れた。
「大丈夫。こいつは伊達征士だ」
「…………」
「だから、それだけでいいんじゃないのか?」
鷹取が言った言葉に、初めて秀は素直に頷いた。

 

――――――「そんなに好きなのか?」
「……え?」
鋼玉の言葉に夜光は心底不思議そうな顔をした。
「好き? とは、私があの姫のことを……ということか?」
「それ以外に誰がいるんだ」
鋼玉は呆れたような顔で夜光を見おろしている。
夜光は戸惑ったように小さく首を振った。
姫の事は、確かに気にかかっていた。それこそ、初めて逢ったあの瞬間から。
朦朧とした意識の中で飲んだ冷たい水の美味しさ。そしてそれ以上に惹かれた姫の美しい姿。
流れ落ちた黒髪も、滑らかな肌も、光りがこぼれ落ちるような笑顔も。
あの瞬間から、一時たりとも忘れることはなかった。
でも、それだけだ。
あの時も、2度目に逢った時も、それが最初で最後の出逢いだと、そんなふうに思っていたから、それ以上の何の感情もなかったのだ。それが、天城の機転のおかげで、言葉を交わし、姫が困難な立場に立たされていることを知った。
知らなければ、そのままだった。でも知ってしまったら、見過ごすわけにはいかない。
いかないような気はする。
だが。ではどうすれば。
どうすればいいのか。
「……分からない」
考え込むように目を伏せて、夜光はそう答えた。
「ただ……」
「ただ?」
「ただ……救い出したいと思う。あの人が私の助けを望んでいるのなら、どんな犠牲を払ってでも救い出したいと……そう思った」
「お前なぁ……それが好きってことじゃないのか?」
呆れたように鋼玉はそう言った。夜光はやはり分からないと言った表情で僅かに首を傾げた。
「でも……そうか……」
やけにホッとしたような口調で鋼玉が息を吐いた。
「良いことだよ。とても」
「……え?」
「お前が、誰かを好きになれたのなら……それはとても良いことだ」
「……鋼玉?」
「そうか……」
ひとりで納得したように、鋼玉は何度か続けて頷いた。
「……好きな人か……」
「鋼玉、だから私は別に……」
「いいっていいって、別に心配しなくても。お前さんが、その姫を救いたいと思うんだったら、お前は自分の気持ちに素直に行動しろ。オレはいくらでも手を貸してやるから」
「……反対……しないのか?」
「しないよ」
「どうして……?」
「どうして? 無謀だからって止めろって言って欲しいのか?」
「そうではないが……」
夜光は言葉尻を濁して鋼玉を見あげた。
なんだかいつもの鋼玉と少しだけ態度が違うような気がしたのだ。
何が違うのかと聞かれれば、何も違わないと答えてしまうほどのほんの些細な違和感。
でも、何かが違う。
それは、鋼玉の本心が見えてこない不安感でもあった。
「ま、オレはお前の為だったら何でも協力してやるけど、とりあえずは烈火の機嫌直しておいた方がいいんじゃないか?」
「……え」
鋼玉の言葉に焦って、思わず夜光は振り返った。
そういえば、2人で里に戻ってきて、烈火に天城を紹介してからあと、まだまともに口を聞いていない。
「やはり……怒っているか?」
「そりゃ……な。何も言わずに消えたら怒るだろうって忠告したろ?」
そう言って鋼玉は可笑しそうににやりと笑った。
夜光が姿を消してから戻ってくるまでの間、恐らくすこぶる機嫌の悪かった烈火をずっとなだめてくれていたのだろう。
「すまない」
思わず謝った夜光の態度に、今度こそ鋼玉は声をあげて笑い出した。

 

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