握りしめた真実(6)
「谷口、やっぱり夏休みの伊豆旅行、オレ、キャンセルな」
愁がそう言うと、谷口は予想していたとはいえ、やはり落胆を隠しきれない様子でため息をついた。
「そっか……やっぱり駄目か」
「ああ、なんとかなるかと思ったんだけど、弟が入院しちゃったから、オレだけ遊びに行くのもなんか気が引けるし」
「そう言えば交通事故って訊いたけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫。まだギプスは取れないけどね」
「そっかー」
残念そうにもう一度そう言うと、谷口は、じゃ、冬のスキーには参加しろよと言い残し、去っていった。
暑い夏。黙っていても汗がふき出してくる。
首元にまとわりつく髪の毛を手で払いのけ、愁は空を見上げた。「残念だね。せっかくの友達の誘いなのに」
「森さん……!」
いつから訊いていたのか、森が後ろでにこりと愁に微笑みかけた。
「人が悪いな。いつからそこに居たんです?」
「今来たところだよ。別に立ち聞きしていたわけじゃない。そういう言われ方は心外だな」
軽く言葉を交わしながらも、やはり森を見ると少しだけ胸が痛む。
愁はもう一度、無意識に髪を掻き上げた。
「随分のびたよね、髪」
「……えっ?」
感心したように森が愁の背中まである長い髪を見た。
「さすがにその長さだと、夏は暑いだろ。なんか理由があって伸ばしてるの?」
「……理由っていう程のものはないけど……」
あいまいに愁は言葉を濁した。
そうなのだ。別にこれといった理由などない。
「じゃあ、何で切らないの?」
不思議そうに森が訊いた。
「別に……親父が切れってうるさいから、切らないだけだよ」
むすっとしてそう答えた愁を見て、森がたまらず吹き出した。
「ホント、素直じゃないな、愁は」
「…………」
「君を見てると、ジェームズディーンの映画を思い出すよ」
「何?」
「理由なき反抗ってやつ」
「全然、意味が違いますよ、それ」
森の笑い声が青空にこだました。「そうそう、3日間の旅行は無理だとしても、一晩くらいなら君を連れ出すことを師範は許してくれるかな?」
まだ笑いを引きずりながら、森が言った。
「えっ?」
「君に見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの……?」
「そう」
「…………」
愁はまじまじと森の顔を見つめた。
「愁、足腰に自信はある?」
「そりゃ、まあ。ある程度は……」
「じゃ、一晩くらいの徹夜は平気?」
「……だと……思うけど……」
「ならOKだね。師範に許可もらってくるよ」
「え!? ……ちょっ…ちょっと、森さん!?」
唖然とする愁を置いて、森はその足で若堂流道場へと向かうと、そのまま道場主、つまり愁の父親に直談判をした。
――――――「で、何処へ行くんです? オレは」
いったいどういう説得をしたのか、意外にあっさりと父親の許可がおり、いそいそと登山用のリュックを2つ用意してにっこりと笑った森を、愁は呆れた顔で見上げた。
「何処だと思う?」
一向に動じない様子で笑顔を見せる森の前にある登山用リュックの中身は、懐中電灯に磁石に雨合羽。チョコレートの包みと水筒。それに秋用のトレーナーが1枚。
「……山」
他に答えようがないといった調子で愁がぼそっと言った。
「正解。で、何処の山だと思う?」
「……そんなの解んないよ。山なんて行ったことないんだから。だいたい山なんか登って、森さん、オレに何見せたいんです?」
「君に見せたいものはね。御来光だよ」
「御来光?」
「そう。日本一高い所から見る朝日」
「…………」
愁はあんぐりと口を開けた。
「とても綺麗なんだよ。雲間から昇ってくる太陽を見るのは」
「…………」
よく解らないといった表情で、もう一度リュックに目を落とした愁が突然はっとして顔をあげた。
「森さん!!」
「ん?」
「今……日本一高い所って言った?」
「ああ、言ったよ」
「それって……もしかして……」
日本一高い場所なんて他にない。
「もしかして……富士山……?」
「大当たり」
余裕の笑みで森が答えた。そして、あれよあれよという間に出発の準備が始まり、森と愁が涼子に見送られて富士山5合目行きのバスに乗ったのは、週末の夕方だった。
「富士山っていっても半分までは車で行っちゃうんだ」
愁がバスの外を流れる景色を見ながら言った。
「まあね。高さは日本一だけど、道とかも途中までは綺麗に整備されているから、あんまり登山って感じはしないよね。本格的な登山がしたかったら剣岳とかに行ったほうがいいかも」
「…………」
地図を片手に説明する森を見て、愁は感心して頷いた。
「森さん、登山もするんだ」
「たまにね。最近はほとんどないけど、以前山岳部にいたから」
「へえーそうなんだ。趣味の幅広いんですね」
愁がそう言うと、森は何とも言えない顔で照れたように笑った。
「欲張りなだけだよ、僕は。何でもやってみないと気が済まないんだ。何もしなければ自分が何に向いているかも、何を喜びと感じるかも解らないじゃないか。興味を持ったものは何でもやってみる。そして、その中からいつか自分にとっての一番を見つけられたらいいなと思ってる」
「…………」
「僕はね、君にいろんな事を教えてあげたいんだ。いろんな所へ連れていって、いろんな物を見せてあげたい。あらゆる事に興味を持って、たくさんの経験をつんで、好きなものを増やしてあげたい」
「森さん……」
「なんてね。これじゃ、ただのお節介野郎だね」
くすりといたずらっぽく森が笑った。
――――――真夜中の登山道は、暗かったが、森がそばについていてくれるだけで、少しも恐くなかった。
少し離れて同じように登頂を目指す一団もいて、愁は結構みんな御来光を目指して富士山に来るのだという事を知った。
途中、何回か休憩を挟みながら、森と愁はゆっくりしたペースで進んでいく。
「疲れたかい?」
少し先を歩く森が振り向いて訊いてきた。
「ちょっと……でも平気。まだ歩けます」
汗を拭きながら愁が答える。
「今が辛い分、頂上に着いたときの感激はそりゃもう何とも言えないものがあるから。頑張れ」
「……うん」
一歩一歩、自分の足で頂上を目指す。
足はとても痛かったが、気分は悪くなかった。
それどころかいつもよりずっと空気が美味しく感じる。心が自然とワクワクしてくるのが解る。
最初は、どうしてこんな所へ来てるんだろう自分は、なんて思っていたのに、いつの間にか、愁はまるで自分が望んで此処へ来たような錯覚さえ覚えるほど、自分の意志で歩き出していた。
愁が力強い足取りで前を行く森に追いつくと、森が嬉しそうに微笑んだ。午前3時過ぎ。
愁はようやく富士山10合目。頂上にたどり着いた。
さすがに空気が冷たく、持ってきたトレーナーを着込むと、森が隣で腕時計を見て言った。
「あと1時間くらいで御来光だよ」
「……うん」
眼下に広がる雲海を見つめて愁が頷いた。
自分の下に雲がある。
なんだかとても不思議な感じがした。
地上は遙か遠く。
此処は日本の中で一番宇宙に近い場所なのだ。
「こんなに広いなんてちっとも知らなかった。」
じっと下を見下ろす愁を見て、森がそっと頷いた。
「……広いだろ、すごく」
「…………」
何処までも続く果てのない空。
それに比べて、何て小さな自分だろう。
愁はふと視線を落として、自分の小さな両手を見つめた。
「人ってさ、生まれてきた時、こう、手を握りしめて生まれて来るって知ってる?」
「……手を?」
森が愁の目の前で軽く手を握ってみせた。
「そう。赤ん坊はその手の中に、希望や夢や自分自身の真実を握りしめて生まれて来るんだ」
「…………」
「そして、その手を開いた時に飛んでいってしまった夢を追いかける事が、その赤ん坊の人生なんだってさ」
「……夢……?」
「愁もきっと、今、飛んでいってしまった夢を追いかけてる最中のはずなんだ。だから、いつかきっと愁自身の夢をもう一度その手に握りしめなきゃ」
森がそっと愁の手を取り、その両手を包み込むように握らせた。
「ほら、これが君の真実」
「…………」
「なんちゃって。これ、昔読んだ本の受け売りなんだけど。ちょっと気障だったかな?」
そう言って森は笑った。
「……ちょっとじゃなくて、かなり、の間違いでしょ」
「こいつ……!」
くしゃりと愁の髪を掻き回した森の手は、とても大きくて暖かかった。
暖かくて優しくて。
少しだけ胸が痛んだ。「あ……!!」
雲間から微かに光が射し、愁は小さく声をあげて立ち上がった。
一筋の光が徐々に大きくなっていき、雲を薔薇色に染めていく。
「いよいよだな」
森が愁の肩をポンっと叩いた。
「…………」
広がる雲の一部がどんどん明るくなっていき、やがて中から太陽が顔を覗かせる。
「…………!!」
今まで何度か朝日が昇るのを見たことはあったのに、そんなもの全部消し飛んでしまう程の衝撃を愁はうけた。
綺麗、と言うのが正しいのか。
神々しい、と言うのが正しいのか。
言葉では言い表せない感動が此処にある。
その光は、いつも見ていた太陽の光とは似ても似つかないものだった。
何処までも澄んだ光の粒子が、雲と解け合って見事なコントラストを描いている。
空と雲と大地と解け合った光。
柔らかな光の洪水。
じっと朝日を見つめる愁の目頭が熱くなった。
「……愁……?」
「……オレ……こんな綺麗なもの、初めて見た」
「……うん」
太陽の光がこんなに綺麗だなんて知らなかった。
綺麗な景色を見ると泣きたくなるなんて、ちっとも知らなかった。
きっと、自分が知らない事はまだまだたくさんあるんだ。
知らなきゃいけない事もたくさんあるんだ。
時間はまだある。
これから知らない事を探していこう。
いろんなものを見よう。いろんな世界を感じ取ろう。
いつか、自分自身の真実をこの手に握りしめるまで。「森さん」
「ん?」
「今度、オレに医学の事、教えて下さい。勉強したいんです」
愁が隣の森を見上げてはっきりと言った。
「この間、森さんに借りた本、読みました。隅から隅まで。…………健が事故に遭った時、オレ、あいつを助けたいって思ったんだ。その為に何をすればいいか必死で考えて、胸がドキドキして、掌が熱くなった。……オレにとって、やっぱり健は大切な弟で、かけがえのない弟で……絶対嫌いになんかなれない」
「…………」
「オレ、健にお礼言われて、すごく嬉しかった。あいつのあんな顔が見れるなら……オレ……」
「……うん」
「まだ、はっきりと医者になりたいとか思ってるわけじゃないけど、今はそれがオレのやりたい事なんだ。オレ、これからもっといろんな事を知って、いろんな事を好きになる」
「うん」
「空手もね。オレ、きっと空手自体は嫌いじゃない。そう思う。でも、今、親父の跡を継ぐ気はない。オレの空手は親父のものとは違う。だからオレは親父の空手を引き継ぐわけにはいかないんだ。オレはオレの目指す空手を別に見つける。少なくとも1人はオレの空手を好きだと言ってくれる人がいるから。だからオレはその人の為に、空手は辞めない」
「……その人って……?」
不思議そうに訊いてきた森を見て、愁がいたずらっぽく笑った。
「そう言えば森さん、今回の富士山行き、姉さんが随分口添えしてくれたみたいだけど、いつの間にそんなに仲良くなったんです?」
「…………!!!」
「なんか、随分前から姉さん、このこと知ってたみたいだったし、そういう話、してたんですか?」
「……いや……その……」
突然の話題の転換におもわず森がたじろいだ。
「そうそう、この間、オレ偶然見かけたんですけどね。お二人が仲良く街中を歩いているの」
「…………」
「姉さんとつき合ってるなんて、オレ、ちっとも知らなかったよ、森さん」
「……見…見かけたんなら……声かけてくれればよかったのに……」
「何言ってんだよ。オレ、そんな野暮じゃないよ」
真っ赤になって焦りながら、額に浮かんだ汗を拭く森の様子を見て、愁が声をたてて笑った。少しだけ、胸が痛い。
きっとこの胸の痛みは、ずっとずっと続いていくのだろう。
彼女が血を分けた肉親である限り。
自分は、この消えない痛みを胸に抱いて、これからもずっと生きていくのだから。眩しい太陽の光が、愁の顔を照らしていた。