握りしめた真実(5)

耳をつんざくような急ブレーキの耳障りな音が愁の耳に届いたのは、梅雨の最中、雨がようやくあがったやけに蒸し暑い日だった。
「…………!?」
通りを歩いていた人々が何事かと振り向き、あっという間に野次馬達の人だかりが出来る。
そのまま通り過ぎるのもはばかられて、愁が人だかりの方へ駆け寄ろうとした時、1人の少年が人混みの中に乱暴に入り込もうとしているのが見えた。
「…………?」
浅黒い肌にたてがみのような髪をした少年。
「日向くん?」
愁が驚いて立ち止まった時、その少年のよく響く声が辺りに響いた。
「若島津!!」
「…………!?」
「若島津! しっかりしろ!!」
愁の背中を冷たい汗が伝った。
「健!?」
まさか、健が?
真っ青になって愁は人混みの中に割り込んだ。
「すいません。通してください。」
なんとか人をかき分けて顔をだすと、歩道に乗り上げたトラックのそばに、健が倒れているのが見えた。
「…………!!」
背筋が凍り付く。
「しっかりしろ!! 若島津!!」
健のそばにしゃがみ込み、小次郎が必死に健の名前を呼んでいる。
「健!!」
慌てて駆け寄った愁を小次郎が驚いた顔で見上げた。
「日向君、健は?」
「……あ……」
「下手に健の身体に触ったら駄目だよ。動かしたりしてないだろうね」
「あ……してません」
「よし」
肩を押さえて倒れている健のそばにしゃがみ込み、愁は血と泥で汚れた健の顔を覗き込んだ。
「救急車は? 呼んだ?」
「い…今、呼んで……」
慌てて立ち上がると、小次郎が近くの公衆電話に走った。
「……くっ…」
痛みに顔をしかめた健の額に汗が滲んでいる。
どうやら微かに意識はあるらしい。
「健、大丈夫か? 何処が痛む?」
愁の声に反応して、健がうっすらと目を開けた。
「しゅう…にい……?」
「もう大丈夫だ。オレが絶対助けてやるから」
愁の力強い言い方に安心したのか、健の表情がふっと和らいだ。
「愁兄……オレ……」
「何も心配するな。大丈夫だから」
「…………」
「しかりしろよ、健。今、日向君は救急車を呼びに行ってるけど、すぐ戻ってくるから」
「……うん……」
「何処が一番痛い? 胸か? 足か? 吐き気とかはないか?」
「……うん……」
健を励まし続けながら、愁は健の顔の泥を落としてやり、にこりと微笑みかけた。
不安がらせてはいけない。
こういう時、どうすればいいのだったろう。
とりあえず、意識はある。呼吸も安定しているという事は、内蔵の損傷はさほど心配しなくても大丈夫なのだろうか。ショックで顔色はかなり悪かったが、吐き気はなさそうだ。
愁は健の様子に気をくばりながら、声をかけ続けた。
「……愁兄…足……足の感覚がないんだ……」
痛みの所為で朦朧とした意識のまま健が言った。
「足……?」
言われて健の足を見た愁は、はっとした。
ズボンの上からでよく解らなかったが、なんだか変な方向に足が曲がっている。
「…………」
まさか。
愁の顔色がさっと変わった。
骨折?
骨折したときの処置の仕方は?
不安をかき消すように激しく頭を振り、愁はわざと明るい表情を作った。
「大丈夫。なんともなってない。ちょっと強く打ってしびれてるだけだよ」
「……ホント……?」
「ああ。」
頷きながら愁は肩に掛けていた鞄を開け、中を探りだした。
確か、こういうときの処置の仕方は。
がさがさと手を突っ込み、中をかき回していた愁が、一本の折り畳み傘を取り出してほっと息をついた。
「健、ちょっと痛いかもしれないけど、我慢しろよ」
「…………」
折れた部分が動かないよう、細心の注意を払いながら、愁は傘を副木にして健の足にあてると着ていたシャツの袖を引き裂いた。
包帯の代わりにシャツでぐるぐる巻きにし足を固定すると、やはり少し痛むのか、健が顔をしかめ、ぎゅっと目をつぶった。
骨折の時の処置。無理に動かさず、足を固定する。出血があったら止血をする。止血の方法は。
愁の頭の中に、昨夜読んだ本の文章が一斉に浮かんできた。
「愁兄……」
「何だ? 痛むのか?」
「……犬……」
「…………?」
健がぎゅっと愁の服の裾を掴んだ。
「犬……犬は……?」
「犬?」
「犬は無事だ。若島津」
ちょうど電話ボックスから戻ってきた小次郎が言った。
「よかった……」
微かに健が笑った。
ようやく足を完全に固定し終えた時、遠くで救急車のサイレンが聞こえてきた。
「……!」
こっちへ向かってくる救急車の車体を見て、愁は地面に座り込んだ。
「もう大丈夫だ。健・・・もう大丈夫だよ」
「…………」
健が頷いた。

「大丈夫か? 君」
慣れた様子で健を救急車に乗せた後、1人の救急隊員がまだ座り込んでいる愁のもとへ駆け寄った。
「君は……あの少年の…」
「あ、兄です」
「そうか、なら一緒に乗って行きなさい」
「はい……」
頷いて立ち上がろうとした愁が、そのままよろけて再び地面にへたり込んだ。
「……? ……どうした?」
「あ……あの……安心したら、ちょっと…腰が抜けて……」
「…………」
救急隊員が笑いながら愁に手を差し出した。
「さ、つかまりなさい」
「…………」
「よく頑張ったね。お兄ちゃん」
優しい笑顔が愁の胸にしみこんだ。

 

――――――病院に着き、健が治療室に入った後、家に連絡をとった愁は、すぐ病院に駆けつけると言った両親と涼子を待って、廊下を行き交う看護婦や医者達の姿を眺めながら、待合室のベンチにぐったりと疲れたように座り込んでいた。
一緒に付いてきてくれていた小次郎は、健の無事を確かめた後、涼子達が到着する少し前に、帰って行った。
医者が真っ青になって駆けつけてきた両親に、健の怪我の具合を説明する。
一番酷いのは右足の骨折。少し肩を打っていたが、あとは問題なし。命に別状はなく、骨折も複雑骨折ではなかったようで、2ヶ月もすれば完治するだろうとの事である。
ほっと安堵の吐息をもらす父親の表情を見て、愁もようやく安心して、待合室のベンチで壁にもたれた。
そのとたん、極度の緊張から解放された所為か、いきなり眠気が襲ってくる。
しばらく眠っていていいわよ、との涼子の言葉に甘え、愁はそのまま眠りについた。

「愁」
どれくらい時間がたったのか、涼子に軽く肩を叩かれて愁はようやく待合室で目を覚ました。
「姉さん……?」
「愁、健の目が覚めたんだって。あなたを呼んでるわ」
そっと涼子が言った。
「解った」
軽く頭を振り、意識をはっきりさせると、愁は立ち上がり、健の病室へと向かった。

「健、気分はどうだ?」
「愁兄!!」
ドアを開けると、健がいつもの人なつっこい笑顔で愁の方を振り向いた。
「お、案外顔色いいじゃないか。もう、痛みとかないのか?」
「うん、今は麻酔が効いてるからあんまり痛くないんだ。でも……」
「…………?」
「愁兄の嘘つき」
「えっ?」
健がじろりと愁の顔を睨み付けた。
「オレの足、なんともないって言ったじゃないか」
「……あ…」
あの時、そういえばとっさにそんな事を言ったような。
愁がばつの悪そうな顔をすると、健が急に笑いだした。
「嘘だよ。オレがガックリこないように、わざと言ってくれたんだろ」
「…………」
「ありがと、愁兄」
「…………」
「さっきお医者さんにも言われたんだ。愁兄にちゃんとお礼言っておきなさいって。愁兄の応急処置がよかったから、オレの足そんなに酷くならずにすんだんだって」
「……えっ?」
「立派な主治医がついてるんだねってさ」
「…………」
健が嬉しそうに話すのを、愁は黙って聞いていた。
あの時は必死で。何をすればいいのか、どうすればいいのか必死で考えて。
自分は健を救えたのだ。自分の処置は正しかったのだ。
じんわりと愁の胸が熱くなった。
「……愁兄さ、オレに魔法かけたろ」
「魔法?」
突然の健の台詞に、愁は目を丸くして弟を見下ろした。
「だってさ、愁兄が大丈夫だって言う度、なんか痛いのが消えていくような気がした」
「…………」
「愁兄が来てくれて、オレ、すごい安心したんだ。ありがと」
「…………」
全幅の信頼を込めて、健は愁を見る。
なんだかくすぐったくなって、愁は照れ隠しに頭を掻いた。

「ねえ、愁兄。犬、どうなったか知ってる?」
健が少しだけ顔をくもらせて訊いてきた。
「犬? ああ、お前が助けた犬なら、日向君がちゃんと飼い主に返しに行ったよ」
「本当?」
「ああ」
健がほっと息を吐いた。
「それにしても、子犬を助けて、自分が代わりに怪我するなんて、結構お前も殊勝なとこがあるんだな」
愁がからかうように笑った。
「笑うなよ。あん時はとっさに飛び出しちゃっただけで・・・・だってさ、オレが飛び出さなかったら、きっとあの人が行ってた」
「あの人?」
「日向さんだよ。ああ見えてあの人、かなり動物好きだから。平気で無茶するんだ。無鉄砲だし、考えなしだし……」
「無鉄砲はお前も同じだろ。結局はお前が事故ったんだから」
「日向さんは、今怪我なんかしたら、大変なんだ。それを自分で解ってないんだよ」
「…………」
「あの人ん家は、親父さんいないし、日向さんの存在が家を支えてるんだ。それに、せっかくチームも強くなってきたのに、キャプテンが抜けたら、明和FCだって大変じゃないか」
「…………」
「それに、オレなら受け身もとれるから、大丈夫かな……って……」
「お前、それは自分の力を買いかぶりすぎだろ」
「まあ、そうだったんだけど……」
言いながらしゅんとなる健を見て、愁はくすりと笑った。
考えてみれば、健の反射神経の良さのおかげで、さほど酷い事故にならずに済んだのは確かだろう。
それにしても、健にとって、それほど日向小次郎という少年の存在は大きな位置を占めているのだ。
「ねえ、愁兄、日向さんは?」
健がふと病室内を探るように見回した。
「日向君はお前の無事を確かめてから、家に帰ったよ。本当は目が覚めるまでここに残るって言ってたんだけど、さすがに夜遅くなっちゃったからね。その代わり、明日の朝、新聞配達の途中に必ず寄るって言ってた」
「そう……」
ぽつりとつぶやき、健はうつむいた。
「健?」
「あの……さ……日向さん、怒ってなかった?」
「…………?」
「オレがドジふんだって、怒ってなかった?」
「……健。ひとつ言い忘れてた事があるんだが」
「……えっ?」
「実は、その日向君から伝言をことづかっていてね。今から言うから、心して聞くように」
「愁兄?」
すうっと息を吸い込み、姿勢を正して、愁は正面から健を見下ろした。
「…………」

「いいか!若島津!!」
「……!?」
「お前がいなくったって、オレ達は必ず全国大会の切符を手に入れてみせる。だから、お前は何も気にせず、治療に専念しろ! ……そして、もし間に合ったら、全国大会決勝に来い! そん時はオレに力を貸してくれ。いつでも、お前の場所を空けて待ってるからな……ってさ」
呆然と自分を見上げる健の顔を見て、愁がにこりと笑った。
「いい子じゃないか、日向君。本当にお前の身体のこと、心配してたぞ」
グランドを駆け回っている雄々しい姿からは想像できないほど優し気な目をして、小次郎は眠っている健を見ると、名残惜しそうに去っていった。
「みんながお前の復活を待ってるんだ。頑張って早く良くならなきゃな」
「うん。うん」
健が大きく頷いた。
健には、待っていてくれる人がいる。自分を必要としてくれる仲間がいる。
やはり、少し羨ましいと思ってしまい、愁は僅かに苦笑した。

「なあ、健」
「…………?」
「お前、将来はプロのサッカー選手目指してるのか?」
なんとなく訊きたくなって、愁はいつも心の中にあった疑問を健に投げかけた。
自分と違い、はっきりとやりたいことを告げる健。
きっと健は真っ白な画用紙を前に、悩むことなんてないのだろう。
「……オレ、よく解んない」
意外にも健はそう言った。
「サッカー好きだし、ずっと続けていきたいけど、これで食ってくとか、プロになるとかは考えた事ないんだ。ただ……」
「…………」
「誰にも譲りたくない場所がある」
「…………場所?」
「うん。試合の時なんかさ、オレはずっとゴールポストのそばにいるし、あの人はFWだから相手チームのゴールの前にいるし、すごいお互いの距離って遠いんだけどさ。なんか、あの人をすごく近くに感じる瞬間がある」
「…………」
「オレが敵チームのシュートを防いで、フィールド中央めがけてボールをキックするだろ。あの人はセンターラインの付近で待ってて、オレのキックしたボールを軽く胸でワントラップして足下に落とすんだ。そして、ちらっとオレを見てそのまま背を向けてドリブルを開始する。あとはもうゴール目指して一直線。敵のDFなんか全部蹴散らして強引にシュートを決める。ネットを突き破るんじゃないかと思うほどの強烈なシュートが決まり、あの人のそばに沢木達が駆け寄っていく。オレはその時、あの人からは一番遠い所で、それをじっと見てるんだ。そしたら日向さん、やっぱりちらっとだけオレを見る。ほんの一瞬、オレと日向さんの目が合うんだ。……どれだけ離れてても、間に何人人がいようが関係ない。間違いなく、その時あの人が見てるのはオレなんだ」
「…………」
「そんな時、オレ、此処に居ることができてよかったって思うんだ。この位置はオレのものだ。誰にも渡したくないって」
「…………」
「そこにオレの夢があるんだ」
「…………」
誰にも渡したくない場所。自分のいるべき位置。
つかむ夢。手を伸ばしてつかむ、夢。
何かが、ふっと愁の心の中をよぎったが、それが何か確かめようとする前に消えてしまった。
ただ、少しだけ心が軽くなった気がした。

 

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