握りしめた真実(4)
ある日の午後、愁は少しだけ余裕のある時間を利用し、ぶらぶらと街を歩いていた。
いつもは図書館で涼みがてら、もうすぐ始まる期末試験の為の勉強をするのだが、今日はあいにく図書館は休館日である。
暑苦しい家に帰る気は更々なくて、愁は学生鞄を小脇に抱えたまま、ふらりと一軒のスポーツショップへと入って行った。
ちょうど買い換え時だったサポーターをひとつ手にとった愁が、何気なく顔をあげると、店の窓の外を一組の恋人同士らしい影が通り過ぎていくのが見えた。
「…………!」
一度手にしたサポーターを急いで棚に戻し、愁はそのまま店の外へと飛びだした。
キョロキョロと辺りを見回した愁の目に、先程のカップルの姿が写る。
「……やっぱり……」
優し気な顔立ちをした背の高い青年と、長い黒髪の女性。
見間違えるはずなどない。
それは、森と涼子の姿だった。
「…………」
別に、何でもない事のはずだ。
森さんはいい人だし、涼子が好きになっても何の不思議もない。
何でもない。何でもない。
そう繰り返しながらも、愁はしばらくの間、その場所を動けなかった。幼い頃からずっと優しかった姉は、一番年が近い事もあって、よく愁の面倒をみてくれた。
きつい稽古の為、すりむいた腕に薬を塗ってくれるのも、いつも涼子の役目だった。
父親と喧嘩した時、嫌なことがあって落ち込んだ時、いつも涼子がそばにいてくれた。
試験でいい点をとっても、少しも誉めてくれない父親の代わりに、涼子はいつもよく頑張ったご褒美にと、愁の為にクッキーを焼いてくれた。ずっと、そんな関係が続くのだと、思っていた。
愁がやっと小学生になった時、姉のランドセルはもう使い古されて色あせていた。
愁が学生服の首のきつさにようやく慣れた頃、姉は高校受験を控えて勉強していた。
いつまでたっても追いつけない姉の姿は、逆に、いつまでたっても変わらないだけの距離を保っていて、同じだけの距離を保っていて。
そう言えば、自分はいつの間に涼子の身長を追い抜いてしまっていたのだろう。
昔、見上げなければ見えなかった涼子の顔が、いつの間にか、こんなに近くなり、気が付けば愁は涼子を見下ろすようになっていた。
それが、何故か哀しかった。
――――――「愁!! 何をぼーっとしている! 真面目にやらんと怪我をするぞ!」
怒鳴り声と共に、父親の拳が飛んできた。
「…………!!」
したたかに壁に叩きつけられ、激しく咳き込みながら、愁はじろりと父親の険しい顔を睨み付けた。
「まったく。最近のお前達は何だ。健といい、お前といい、真面目に空手をやる気がないのか?」
口の端に滲んだ血をふき取り、愁は苛ついた目をして乱暴な口調で言った。
「何言ってんだよ。親父が勝手にやらせてるんだろ。オレは別に好きで空手をやってるんじゃない」
「何だと」
「健がサッカーに夢中で、苛ついてんのは解るけど、オレに八つ当たりするのはお門違いだって言ってんだよ!」
父親の握りしめた拳に血管が浮き出る。
「……どういう意味だ」
「意味も何も、別に隠すことなんてない。父さんが本当に空手をやらせたいのはオレじゃなくて健だろ。あいつを自分の後継者として育てたいんだろ。……だったら直接健に言えよ!あいつに空手をやらせればいいじゃないか!……なのに、オレまでキープしときたいなんて……何で、そんな事が出来るんだよ!?オレは親父の操り人形じゃない!!オレにだってやりたい事くらい他にあるんだ!!!」
一気にまくし立てて、愁はキッとなって父親の厳つい顔を睨み付けた。
周りで門下生達が、事の成り行きを固唾をのんで見守っている。
「……じゃあ訊くが、愁、お前のやりたい事とは何だ」
「…………」
愁の目が僅かに見開かれた。
「お前は何がやりたいんだ?」
「……オレは……」
遠巻きにして自分達を見ている集団の中に、森の姿を見つけ、愁はさっと目をそらした。
「…………オレは……」
「何もないんだろう。ただ、私に反抗したくて口から出任せを言っているだけじゃないか。幼稚園児と同じだな」
「違う……違う! ……違う!! ……オレは……」
壁に手をついて、愁はヨロヨロと立ち上がった。
やりたい事。なりたいもの。
自分の夢。
真っ白な画用紙。
何色のクレヨンを持てばいいのかさえ解らなかった。
でも。
でも。
「……何だっていい…親父の目指す空手以外なら……何だって……」
口の中で低くつぶやき、愁は道場を飛びだした。
「追わんでいい!」
後を追いかけようとした走りだした門下生の1人を怒鳴りつけ、父親は深くため息をついた。
「まったく……馬鹿息子共が……」
――――――道着のまま、家の廊下を走り抜けていく愁を見つけ、涼子が驚いて声をかけた。
「愁!?」
涼子の声に、愁の足が止まる。
ゆっくりと振り向くと、涼子は心配気に愁の顔を覗き込んできた。
「どうしたの? 愁」
以前は自分の方が見上げていたはずの涼子の顔は、少し上向き加減に愁を見つめている。
「……姉さん……」
いつだって自分に一番近いところにいてくれた姉。
いつもそばにいると思っていたのに。
愁の頭の中に、昼間、森と一緒にいた涼子の姿が浮かんだ。
今まで見たことのない、涼子の表情。
自分の知らない笑顔を、涼子は森へ向けていた。
「…………」
姉の一番近くにいるのは、もう自分ではない。
「愁?」
自分ではないのだ。
愁はおもわず手を伸ばし、涼子をその腕に抱きしめた。
「……愁?」
驚いて涼子が愁の腕の中で身をよじる。
はっとして抱きしめていた腕を離し、愁はそのまま家の外へと駆けだした。
「愁!?」
振り返りもせず駆けていく愁の後ろ姿を、涼子は呆然と見送った。
――――――何をやってる。何をやってるんだ自分は。
めちゃくちゃに角を曲がり坂道を駆け上がって愁は走った。
心臓がばくばくと音を立てる。
「…………!!!」
足下の草に足を取られ、おもいっきりすっころんで、愁はようやく走るのをやめた。
口の中に苦い土の香りが広がる。
転んだ時擦りむいたのか、ズキズキと腕が痛んだが、一向に構わず、愁はそのまま土手の堤防に仰向けに寝転がり空を見上げた。なりたいもの。欲しいもの。
何もかもがこの手からこぼれ落ちていくような気がした。
いくらすくい上げても手の中には残らない。
砂のように愁の想いは何処へも行き場がなくなって、風に吹かれて散り散りに飛んでいってしまう。
なるものはずっと前から決まっていたと思っていたのに、自分は決して、それにはなれないだろう。
父親の目指す力強い拳は自分にはない。
自分自身で壊して、粉々に砕いて、もう、すがるものすらない。
何もない。「愁……」
小さく自分を呼ぶ声が聞こえた。
「……愁……?」
振り返らなくても、声の主が誰だか解る。
「……どうして、此処が解ったの? 姉さん」
「あなた、落ち込むと必ず此処に来るでしょう」
涼子がそっと言った。
あれ程めちゃくちゃに走ったと思っていたのに、愁がたどり着いたのは、いつも来る河川敷の土手。
ずっと前、父親と喧嘩して飛びだした時も、此処に来た。
あの時も涼子が迎えに来てくれたのだ。『姉さんは強い男が好きなの?』
あの時、そう訊いたのが、つい昨日の事のように思える。
「姉さん……ごめん…オレ、強い男になれない」
「…………」
寝転がったままの愁の隣に、涼子が腰を降ろした。
「私ね……愁。あなたと姉弟で良かったって思ってる」
「…………」
「恋人も、夫婦も、別れてしまえばただの他人だけど、姉弟はいつまでたっても姉弟でいられるでしょ。だって、血が繋がっているんですもの」
「…………」
「私、あなたと姉弟でいられて本当に良かったって思ってる」
「姉さん……」
見上げた涼子の瞳は、昔と少しも変わっていなかった。
ずっと、変わらない瞳で、愁を見つめてくれていた。
「それにね。私、愁の空手が一番好きだな」
「……えっ?」
にこりと笑って涼子が言った。
「父さん達は何て言ってるのか知らないけど、私は愁の空手が一番好き。だって、すごく綺麗なんだもの」
「…………」
「綺麗っていうのは、空手を形容する言葉じゃないのかもしれないけど、私には、愁の空手が一番素敵に見える」
「……でも、父さんは、オレの空手は実戦では通用しないから駄目だって言うよ」
「そんなことないわよ」
涼子が驚いた顔で言った。
「実戦で役に立たないなんて、そんなの実際やってみないと解らないじゃない」
「…………?」
愁が身体を起こし、隣に座る涼子を見ると、涼子はいたずらっぽく笑いながら、顔を向けた。
「そうね……たとえばね。私が誰か悪い人達に絡まれてるとしてよ。そんな現場に居合わせたら、愁、もちろん私を守るために本気で戦ってくれるでしょ」
「…………」
「その時のあなたはきっと、誰にも負けない程強いの。絶対気迫が足りないなんて言わせない」
「…………」
「ね?」
にこりと涼子が笑った。
「……いいの……?」
「…………え?」
「オレが……姉さんを守って、いいの?」
「……? …何? それ。どういう事?」
「…………」
きっともうすぐ涼子を守るのは自分の役目ではなくなる。
でも、今は。
少なくとも今は、自分は涼子を守れる、一番近いところにいていいのだろうか。
大切な姉を、この手で守っていいのだろうか。「さ、帰ろうか」
スカートについた土を払いながら、涼子が立ち上がった。
「姉さん」
歩き出した涼子の背中に、愁が声をかける。
「……何?」
「……オレ……」
「…………?」
「オレ、姉さんが好きだよ」
おもいつめた表情でそう言った愁を見て、涼子がふわりと笑った。
「私も愁のこと大好きよ」
「…………」
涼子の言葉をかみしめるように、一度きつく瞳を閉じて、愁は立ち上がった。
頭上で気の早い一番星が輝いていた。
――――――「愁兄、父さんと喧嘩したの?」
家に帰ると、健が心配気な顔をして玄関に飛びだしてきた。
「……誰かに、なんか言われたのか?」
愁がそう訊ねると、健は小さく首を振った。
「ううん。別に、誰も…………ただ……」
「…………?」
「愁兄があんなふうに父さんと喧嘩するの初めて見たって、門下生のみんなが言ってた」
「…………」
「愁兄って、オレと違ってめったに父さんと喧嘩とかしないから……オレ、なんかオレばっかり好きなことやって、愁兄に迷惑かけてるのかなあって思って……だから……」
「…………」
伺うように健は愁を見上げた。
「健、サッカー好きか?」
「……えっ?」
「サッカー好きなんだろ」
「……うん」
コクリと健が頷いた。
「だったら、別に遠慮なんかしなくていいよ、お前は」
「…………」
「好きな事があるって、すごいことなんだぞ。頑張れ」
「…………愁兄……」
ポンポンと健の頭を軽く叩き、愁は家の中へと入って行った。