握りしめた真実(3)

「なあ、若師匠。夏休み、なんか予定ある?」
学校からの帰り道、突然谷口が愁にそう訊いてきた。
「夏休み?」
「そう。実はさ、何人かで今年の夏、伊豆へ旅行しようって計画があるんだけど、ひとくち乗らないか?」
「…………」
「絶対楽しいと思うぜ。予定では3泊4日くらいで、オレの兄貴が友人連れて引率してくれるから安心だし。どうかな?」
「……わかんないな。親父が何て言うか……」
愁がそうつぶやくと、谷口はとたんに残念そうに顔を歪めた。
「そっか。夏休みっていったら、若島津ん家いろいろあるんだっけ」
「うーん。うちの道場でもいくつか参加する大会があるし、あと昇段試験と新しい門下生の募集の時期が重なっちまってなんか大変そうなんだ。一応訊いてはみるけど、あんまり期待しないでくれ」
「ほんと大変だな。でも好きでやってるんだろ」
「……え?」
足を止めて愁はおもわず隣の谷口のそばかすだらけの顔を見た。
「……好き…?」
「…? ………だってそうだろ。若師匠、子供の頃からずっと空手一筋って感じじゃないか。そこまで打ち込めるものがあるなんて羨ましいかぎりだよ。オレなんか何にもないもんな」
うーんと伸びをして谷口は空を見上げた。
「お前、小学校の頃、パイロットになりたいとか言ってなかったか?」
「言ったよ。でも、その為に別に何かしてるわけじゃないし。夢だよ夢。そんなものは…………でもさ、オレ、親父みたいにサラリーマンになる気ないし、高校は工業系行こうかって思ってる」
「…………」
「なりたいものはたくさんあるよ。パイロット然り、エンジニア然り。色々ね。夢はでっかくってやつ」
そう言って谷口は笑った。
「じゃ、親父さんが許可してくれる事、祈ってるよ。また明日な」
軽く手を振り、谷口は河川敷の土手を斜めに突っ切って駆けていく。
1人残されて愁は小さくため息をついた。

好きなもの…か。
自分は空手を好きなのだろうか。
あまりにも空手をする事が当たり前で、好きも嫌いもなく、そんな事を考えた事などなかった。
好きなことイコールやってみたいこと。
少なくとも愁にとって空手はやってみたい事ではなかった。
ただ、負けたくなかった。
「…………」

「ナイス!若島津!!」
甲高い声が土手の下の方から聞こえてきた。
「……?」
なんだろうと思い、愁が土手の下に広がるグランドを見下ろすと、黒っぽいユニフォームを着た小学生達の集団がサッカーの練習をしているのが目に写った。
グランドを取り囲んでいる金網に小さく『明和FC』の文字を見つけ、愁はああ、とひとつ頷く。
「そっか。健のいるチームの練習グランドだっけ。此処……」
よく見ると、黒いユニフォームに混じって1人だけ黄色いユニフォームを着た少年がいる。
少し長めのボサボサの髪に帽子をかぶり、ゴール前に立っているその姿は、まぎれもなく弟健の姿だった。
『オレのやりたいのはサッカーなんだ!』
健にはやりたい事がある。なりたいものがあるんだ。
毎日毎日、泥だらけになってグランドを駆け回る健は本当に楽しそうだった。

 

――――――「お前、ずっとサッカーを続ける気なのか?」
あまりにも空手を顧みようとしない健に向かって父親がそう訊いていた。
「当たり前だろ。オレは父さんの言いなりになる気はないよ」
恐い物など何もないような様子で健はそう答える。
それでも少しは良心の呵責を覚えるのか、雨の為、練習が休みになった日等ではあったが、ごくたまに健は道場に顔をだした。
健が道場に顔をだした日は、一段と稽古が厳しくなる。
そんな時、ほとんどつきっきりで父親は健に稽古をつけた。

「いい眼をしているな。君の弟は」
いつだったか、森が健を見てそう言った。
確かそれは、森がこの道場に来て初めて健が空手の稽古をするのを見た時だった。
隙のない構え。
小さな身体から発せられる凄まじいまでの気迫。攻撃的なその拳。
左半身の構えから、上体を一挙に回転させ、右奥足の後ろ蹴りの体勢にはいる。
相手が受け身をとろうと構えるタイミングをほんの半時ずらして健の細い足が相手のみぞおちを直撃する。
見事に決まった蹴りに、周りから感嘆のため息がもれた。
何故か直視できなくて、愁はすっと健から視線をそらせた。
心の中に嫌な感情が湧いてくる
どろどろした、どす黒い、よく解らない感情。
愁は何かを振り払うように、激しく頭を振った。

 

――――――「久しぶり! 愁」
ちょうど道場へ向かう途中なのだろう、肩に道着を背負った森が、河川敷の土手を歩く愁を見つけ、駆け寄って来た。
「森さん」
「今、学校帰りかい?」
「ええ。森さんこそ、お久しぶりです」
ここ2週間程、森は大学の研究課題の為に、道場に顔をだしていなかった。
なんとなく寂しげな様子の姉の姿を思い出し、愁はちらりと森の優しげな顔を見上げた。
「大学の方は一段落ついたんですか?」
「ああ、何とかね。又、今日から宜しくな」
「はい」
頷いた愁の横を風が通り抜け、長い髪がふわりと舞った。
「健坊は相変わらずサッカー漬けの毎日みたいだな」
眼下のグランドを見下ろして森が言った。
「ええ、またここんとこ道場に顔ださなくなって、親父がイライラしてるのが解ります」
「そっか……残念だな」
「……えっ?」
「結構、好きなんだな。健坊が空手やってる姿見てるの」
「…………」
愁はグランドを見下ろしている森の横顔をまじまじと見つめた。
遠く微かに、子供達の歓声が聞こえてくる。
ユニフォームの袖を肩までまくり上げた、浅黒い肌の少年が、相手DFの少年を蹴散らしてシュートを決める。
どっと大きな歓声がわき、ユニフォームの上に赤いゼッケンを着けた少年達が周りに集まってきた。
「ナイスシュート!日向さん!!」
どうやら紅白試合をしているようだ。
健は、小次郎のいる場所と反対側のゴール前に立ち、何かを叫んでいた。
嬉しそうな健の笑顔。
微かに愁の胸が痛んだ。

「……森さんも、健の空手、好きなんですか?」
「…………」
まるで独り言のように愁が言った。
「そうですよね。あいつには空手の才能があるんだから。オレなんかよりずっと」
森が振り返って、じっと愁を見た。
「みんなそうだよ。誰もかれも、あいつの才能を認めてる。気付いてないのはあいつだけだ。あいつが本気で空手をやったら、きっと誰も敵わない程の力を持てる」
「……愁?」
「健が本気だせば、オレなんかすぐお払い箱だよ」
「…………」
愁が暑苦しそうに髪を掻き上げた。
グランドから聞こえる歓声は、ずっと途切れずに続いている。
「森さんだって、そう思ったでしょ」
「……君は…」
「…………」
「君は、空手が好きなんだと思っていたよ」
ぽつりと森が言った。
「家を継ぐとか、道場主の息子だからとか、そういうんじゃなく、単純に空手が好きなんだと思ってたけど、それは僕の思い違いだったのかい?」
「好きも嫌いもない。オレ、気が付いたらずっと空手やってたから。それが当たり前なんだと思ってて・・・・好きになる暇もなかった……ただ……」
「ただ?」
「……最近、思ったのは、オレの空手は父さんの目指すものとは違うんだろうなって」
「…………」

父親はよく愁の空手を見て、こう批評した。
お前の拳には、殺気が足りん。
型が正確なのと、基本が出来ているのは認めるが、それだけでは実戦では役にたたん。
何故、もっと思い切って相手を攻撃しない。
気迫が足りん!勝ちたいという気がないのか、お前には!

そうじゃない。
勝ちたい気持ちがないわけではない。
でも。
「だめなんだ、オレ。あと一歩を踏み込んで拳を繰り出せないらしい。親父が言うには、オレは真の武道家じゃないんだって」
「…………」
「だけど、健は違う。あいつの空手は前へ前へ繰り出す拳だ。退くことなど考えない。ひたすら前に向かってる。攻撃的で、力強くて、恐怖心などかけらもない」
柔軟な足腰と膝のバネ。
パワーのある突きと、相手に体勢を整える暇を与えないスピードのある連続攻撃。鋭い蹴り。
「この間、あいつと組み手をやって、オレ、はっきり解ったんだ。健には才能がある。あいつの空手は親父そのものだ。オレなんかとは全然違う。……健は誰よりも濃く親父の血をひいていて、きっと親父もそれを感じてる。」
「…………」
「健が本気で空手をやる気なら、親父は健を後継者に選ぶだろう。その方がいい。だって、あいつの方が若堂流を継ぐに相応しい力を持ってるんだから…………」
「…………」
「……でも……そうなったら……?」
「…………」
「……そうなったら……オレは? ……オレの今までは?」
「…………」
「オレの15年間は何処へいくんだ?」

何もない。
空手以外、何もなかった自分から、突然空手がなくなってしまったら?
好きでやってたわけじゃない。
でも、本当にそれしかなかったのだから。今まで。

それなのに、健は、有り余る程の才能を持ちながら、平気で別のものが好きだと言う。

「君は、弟のことを嫌っているのか?」
はっとして愁が森を見た。
「……オレ……」
「…………」
「オレは……」
弟を、健を嫌ってる?
この頃感じる、この嫌な感情はその所為なのだろうか。
愁はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……解らない……オレ…健の事…………嫌いなのかな?」
「…………」

今はいい。
体格も違う。力も違う。背だって自分の方が高い。
今なら、本気でやっても負けることはないだろう。
でも、来年は?再来年は?
いつまで自分は、健に負けずにいられるだろう。

恐らく、自分が負ける日はそう遠くない。
その時、自分は?
自分の手には、何が残る?

「オレ、負けたくない」
つぶやくように愁が言った。
「オレ、負けたくないんだ」

 

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