握りしめた真実(2)

「彼の名前は森圭一。一週間前にこの近くに越してきたそうだ。以前も別の道場で色々と経験をつんだようで、かなりの実力者だ。宜しく頼むな」
そういって紹介されたのは、すらりとした身長にバランス良く筋肉のついた優しげな顔立ちの青年だった。
一見すると空手などとは縁のなさそうな穏やかな表情から繰り出される拳は、想像以上に鋭く、愁は驚いて、その青年のしなやかな動きを見つめた。
ひとつひとつの動きに無駄なものが一切ない。
確かに、その青年の実力はかなりのものなのだろう。
道場の門下生のほとんどが、彼の動きに注目した。

「やあ、はじめまして。君が愁君だね」
じっと自分を見ている愁に気付き、森が愁のもとへとやって来た。
「え……あ……何でオレの名前?」
「有名だよ。若堂流の小さな空手家、愁と健坊って」
「…………あっ」
考えてみれば当たり前だ。自分はここの道場主の息子なのだ。
愁は真っ赤になってうつむいた。
「今日は、弟君はいないのかい?」
可笑しそうに肩を震わせながら、森は愁の真っ赤になった顔を覗き込んだ。
「……あいつは、しばらく来ませんよ」
「えっ?」
恥ずかしさのため、わざとぶっきらぼうな口調で愁が答えた。

昨日、約束の一週間が終わり、また健はサッカーへと戻っていった。
この一週間で考えを変えるだろうとでも期待していたのか、健が何の未練もなさそうな晴れ晴れとした顔でグランドへ向かうのを、父親は苦虫を噛みつぶしたような顔で見送っていた。
この一週間、ブランクなど感じさせない健の空手には、愁だけでなく、周りの門下生達も驚いていた。
以前にもまして鋭くスピードを増した拳や蹴り。
そして、なにより相手の呼吸を読むのが上手くなった。
僅かな体重の移動や視線。それだけで健は相手の攻撃を読みとった。
サッカーをして得た思わぬ副産物といったところか。
PKを止める時の、極限まで張りつめた緊張感。
ボールを蹴る瞬間の相手の僅かな動きを感じ取り、右へ蹴るのか左へ蹴るのか判断して飛ぶ。
考える間などない。感覚で解るのだ。
その所為か、父親も今度は健がサッカーに戻るのを、思ったほどには反対しなかった。
サッカーも空手にプラスになるのなら少しぐらいやらせてやっても良いだろう。
父親の考えが解り、愁は複雑な心境で、グランドへ向かう健の背中を見つめた。

「健は、今サッカーに夢中だから、ほとんど道場へ顔だしません。先週はずっと来てたんだけど、もう約束も果たしたし、しばらくは来ないんじゃないかなあ」
「へえ、サッカーね」
森が興味深そうに言った。
「いいね。やりたい事がいっぱいあって」
「…………」
何かがチクリと胸に突き刺さり、愁は横目でちらりと森を見上げたが、森は気付くふうもなく、笑顔で周りの門下生達に挨拶を返していた。

何だろう。この感情は。
先週、ずっと目の端に映っていた小さな弟の姿が見えないことに愁は妙な違和感を覚えていた。
自分は何を気にしているのだろう。
門下生の1人に声をかけられ、愁は自然と始まった2人一組の組み手の稽古に没頭しだした。

 

――――――「わぁー!!」
「大丈夫か!?」
事件が起きたのは、それからしばらく後の事。
いつものような実戦さながらの組み手の稽古を続けていた時、1人の門下生が見切りを誤って真正面から相手の蹴りを喰らい、壁へと激突した。
運悪く少し弱っていた木造の壁板の一部が、衝撃の為、派手な音をたてて割れ、突き出た釘の先が腕をかすめたのか、辺りに鮮血が飛び散った。
「…………!!」
したたかに打ち付けた肩を押さえ、うめき声を上げる門下生斉藤の周りに、あっという間に人垣が出来る。
愁が何とか様子を見ようと、人垣のそばに駆けつけた時、後ろから鋭い声が飛んだ。
「そのままにしていろ!下手に動かすなよ!!」
そう言って、その声の人物は人垣をかき分け、斉藤のそばに駆け寄った。
「……森…さん?」
周りの人垣を押しのけ、しゃがみ込んだ森は、斉藤の腫れ上がった肩を見てさっと振り向き、背伸びをして覗き込んでいた愁に向かって叫んだ。
「愁君!すぐ応急手当用の医療キットを取ってこい!あと、副木になりそうな物と、縛る布。包帯があればありったけ持ってきてくれ!!」
「あ…はい!」
勢いに押され、素直に返事をして、愁は急ぎ道場を飛びだした。
隣の小部屋に常備してある救急箱と転がっていた短めの木刀、山程の包帯を抱え、一目散に道場へと引き返した愁は、まだうめき声を上げている斉藤のそばに、トンと救急箱を置いた。
「…ちょっと、痛むが我慢しろよ。」
小声で斉藤にそう囁き、森はがしっと腫れ上がった斉藤の肩と腕を掴み、引っ張った。
「…………!!!!」
余程の痛みなのだろう、斉藤の額から汗が噴き出した。
歯を食いしばって痛みに耐えながら、ぐったりとなってしまった斉藤の腕に副木を当て、固定すると、森は慣れた手つきで包帯を巻きだした。
「とりあえずはずれた肩はもとに戻ったから、もう大丈夫だ。よく我慢したな」
愁は、呆然と包帯を巻く森の器用な手つきを見ていた。
「愁君。そっちの腕の傷は見た目程、酷くない。消毒して包帯を巻いてやってくれ」
「……あ、はい…」
「私がやるわ」
いつのまに来ていたのか、姉の涼子が愁のそばに跪き、代わりに救急箱を開けた。
「姉さん……」
騒ぎを聞きつけ、道場を覗きに来た涼子は、一瞬で状況を判断したのだろう。慣れた様子で傷口の消毒を始めた。
ふと、愁が顔をあげると、森が包帯を巻いていた手を止め、驚いた顔をしてじっと涼子を見つめていた。
「はい。これで大丈夫。あと、何かする事はあるかしら」
包帯を巻き終え、涼子が顔をあげた。
「…………あ……じゃあ、その……えっと、救急車を呼んでいただけますか?」
「先程、電話しておきました。」
「あ…そうですか。ありがとうございます。じゃあ……えっと、患部を冷やしたいので、氷か何かありましたら、お願いしたいのですが……」
「解りました」
さっきまでの手際の良さとあまりにも違いすぎる態度で、しどろもどろになって言う森の様子を見て、くすくすと笑いながら、涼子は頷いた。
「すぐ、取ってきますね」
まだくすくすと笑いながら、すっと立ち上がり、涼子は救急箱とあまった包帯を手に道場から姿を消した。
「愁君……あの人は……?」
「姉ですよ。涼子姉さん」
「涼子さんっていうのか……」
もう、姿など見えないのに、森はずっと涼子が去っていった道場の入り口を見続けていた。
「森…さん?」
ぼうっとしている森に愁が声をかけると、森ははっとして道場の入り口から視線をそらし、照れたように笑った。
「いいね、愁君。あんな綺麗なお姉さんがいて」
「はあ……」
身内という贔屓目を別にしても、涼子は確かに美人だった。
烏の濡れ羽色の漆黒の髪と、対照的な白い肌。卵形の輪郭に澄んだ大きな瞳。
少々古風なその顔立ちは、いつも微笑みを絶やさず、優しげだった。
身内を誉められて、悪い気はしない。
なのに、何故か少しだけ、心の中がもやもやした。
「…………」
どうしてだろう。
愁は気付かれないように、もう一度そっと森の横顔を伺った。

 

――――――夏。連日うだるような暑さが続き、愁はいくら拭っても流れ落ちてくる汗に辟易しながら、いつものように近所の図書館へ逃げ込んだ。
「はぁー涼しい……」
冷たい空気を胸一杯に吸い込み、愁は大きく伸びをする。
若島津家にはクーラーというものがない。
父親がそういった電化製品を嫌う為なのだが、“夏は暑いのが当たり前なんだ。これくらいで根を上げてどうする。たるんでる証拠だ。”等と平気で言う父親の言葉に、今の少年達が納得できるわけもなく、これだから昭和一桁生まれは…とこれみよがしな嫌みさえ言ってみるのだが、父親には何の効力もなかったようで、結局、今年の夏もクーラーの購入予定はなかった。
「……ったく、あのくそ親父」
本人を目の前にしては決して言えない文句をぶつぶつと口の中でつぶやきながら、愁はゆっくりと図書館の本棚の間を徘徊した。
特に読みたい本があって此処に来ているわけではないので、愁は文庫本の棚から、歴史書の棚、スポーツ関連書、果ては絵本や雑誌の棚まで、くまなく見て回った。
そうやってぶらぶら館内を歩き回ってたまに目にとまった本をパラパラとめくってみる。
幼い頃、涼子が読んで聞かせてくれた絵本や、学校で読むように指定された本。
もうすぐ来る夏休みの課題になるという噂の本でも探そうかと、ふと、顔をあげた愁の目に、一冊の本のタイトルが飛び込んできた。
「スポーツ障害と医学……?」
棚の上の方にあったその本を取り出すと、愁はしげしげと表紙に描かれている人体の筋肉組織の絵を眺めた。
「なになに…? 肩鎖関節の捻挫と亜脱臼……?」
目次を開き、愁はこの間の森の応急処置の鮮やかな手際を思い出しながら、本の中身に目を落とした。
「…関節を安定化している……肩鎖靱帯と烏口鎖靱帯が断裂し…………鎖骨の外側端のバネ状化を……」
普段の保健の授業などでは決して教わることはないだろう筋肉組織の名称や各部位の働き。聞いたこともないような名前の病気や症状の例。
初めて見る単語ばかりで、ほとんど内容など理解できないくせに、何故か愁はその場に座り込んで、いつの間にかその本を読みふけっていた。

余程集中して読んでいたのか、突然肩を叩かれるまで、愁は時間も忘れてじっとその場に座り込んでいた。
「そんな所に座ってないで、勉強するなら机の所に行けば?愁君」
「……えっ?」
声をかけられ、はっとして顔をあげると、森が可笑しそうに愁の持っている本を覗き込んでいた。
「も……森さん?!」
「こんな所で逢うとはね。意外と文学少年だったのかと思ったら……何? 期末試験の勉強でもしてるの?」
「いや…………その……別に……」
「…………?」
愁の持っている本のタイトルに目をやり、森がおやっと首をかしげた。
「試験勉強にしては変わった本読んでるね」
「…いや…だから、別に、期末の為じゃなくって…………」
背中に本を隠して、愁は慌てて立ち上がった。
「ちょっと……その……興味があって……」
「興味? 医学に?」
「…………あの……」
何故かいたずらを見つかった子供のように焦った態度で愁はうつむいた。
こんな本、読んだってどうなるわけでもないのに。
うつむいた愁を見て、森は何かを感じたのか、肩に背負った鞄の中から一冊の本を取りだした。
「よかったら、これ読んでみる? そっちの本よりは解りやすいと思うよ」
「…………えっ?」
愁は驚いて森を見た。
「君が本気で医学に興味を持っているなら、きっとためになる」
「これ……森さんの本……?」
「そ、僕が初めて買った医学書。図解入りでかなり解りやすく書いてあるから」
「……森さんて……もしかして……」
「医者の卵だよ。来年には大学病院で研修が始まる予定」
にこりと笑って森が言った。
「そうだったんだ。どうりでこの間……」
「ああ、あの時ね。なんか実習で習った事、そのままやったんだけど、内心ヒヤヒヤしてたんだ。大事に至らなくてよかったよ、本当」
「…………」
だから、あの時あれ程手つきが鮮やかだったんだ。
考えてみれば、あの処置の仕方が素人のわけはない。
「すごいですね。森さん」
「…………?」
「医者になる勉強もして、空手もやって……やりたい事が沢山あるんだ」
「……君は?」
森がそっと言った。
「君にだってやりたい事は沢山あるだろう」
「…………」
「まだ、中3だろ。やりたい事やなりたい物は沢山あるんじゃないか?」
愁がはっとして顔をあげた。
「…………オレは……」

なりたいもの。
愁の頭の中に、いつかの真っ白な画用紙が浮かんだ。
結局何も描けないまま提出してしまった将来の夢。
なりたいもの。
なるものじゃなくて、なりたいもの。
「…………」
愁はそっと森から受け取った本の表紙を指でなぞった。
「じゃあ、質問を変えよう。好きなものならあるだろう。愁」
「……?」
「ほら、これ」
そう言って森は愁の手の中の本を指さした。
「興味あるって言ったよね。つまり好きだって事。興味がある=(イコール)好きなこと=(イコール)やってみたいこと。」
「……!」
「ほら、愁がやってみたい事、ひとつ出来たろ」
「…………」
やってみたい事。なりたいもの。なりたいもの。
愁は大事な宝物を抱えるように、ぎゅっとその本を抱きしめた。

 

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