握りしめた真実(1)

愁君はいいお兄ちゃんね。
いつ頃からだろう、周りの大人達にそう言われだしたのは。
勉強熱心で、家の道場にも真面目に通い、稽古に励む。
弟や妹の面倒見も良く、さすがに幼い頃から厳格な父親のもとで空手道場若堂流の後継者として育てられてきた奴は違うね、と周りの友人達は口をそろえて若島津愁の事をそう言った。

「若島津、お前、見たか? この間の中間試験の発表」
「いや、まだだけど」
「なんで見に行かないんだよ。またお前の名前張り出されてあったぞ」
気のない返事をかえす愁に、クラスメート達は信じられないといった顔で告げに来る。
毎回、成績優秀者は試験の後、廊下にその名前が張り出される。
あれだけ毎日道場で稽古していて、特に塾通いなどもしていないのに、愁は必ずといって良い程、上位成績者として名前があがる。
引っ張られるようにして廊下へ連れ出された愁は、人だかりのしている掲示板を面倒くさそうに見上げた。

若島津愁。
中学3年生にしては、かなり高い方だろうすらりとのびた身長に、背中まである長い髪。
身長と不釣り合いな細い体型の彼は、ぱっと見には空手どころか、スポーツになど縁のない少年のように見える。
よくそんな女みたいな顔で空手なんかやるよな。信じられない。
愁を初めて見た者は、よくそういう反応を示した。
「さすがだね。若師匠。高得点をとる秘訣ってあるのか?」
無邪気な顔で聞いてきた友人の谷口に、愁は少しむっとして答えた。
「オレは若師匠じゃない」
「何言ってんだよ。どうせそのうち、そう呼ばれるようになるんだろ。若堂流後継者君」
「…………」
解っているのだ。別に彼は悪気があって言っているわけではない。
むしろ、このような友人を持てたことを誇りに思っている。そんな口調で谷口は嬉しそうに笑いかけてくる。
「秘訣なんてないよ。授業聞いていれば解るだろ」
「わかんないから、聞いてんだよ。もう……」
口をとがらす谷口を見て、苦笑しながら愁はその場を離れた。

愁は、別に特に勉強が好きなわけではない。
それどころか、がむしゃらにガリ勉をしている奴らを見ると、何故そこまで必死になるのか解らないとさえ思う。
ただ、負けたくない。
「…………」
自分の考えに、愁はふと足を止めた。
負けたくない。
誰に?
誰に負けたくないんだろう、オレは。
そのまま愁は、学校の屋上へと向かう階段を上っていった。

物心着いた頃から、愁は空手をやっていた。
まだ赤ん坊だった愁を腕に抱え、父親はよく道場へ行った。
道場の隅に座らされ、愁は何時間も父親やその弟子達の稽古を見学させられた。
ああ、自分もこういう事をするんだ。
それはもう、予感でも何でもない。
最初から組まれている人生なのだ。
反抗する心もないままに、愁はそれが当たり前なのだと思っていた。

 

――――――「さあ、将来の夢を描いてみましょう」
小学校1年生の時、優しい顔立ちの担任の女の先生がそう言った。
「自分が将来なりたいものについて何でも良いから描いてみてね」
真っ白な画用紙を前に、愁はとまどったような顔をして先生を見た。
「どうしたの? 愁君?」
愁の視線に気付き、先生が愁の机のそばにやってきた。
「何でもいいのよ。なりたいもの。愁君が大人になって、やりたい事を描けばいいの」
「やりたい事……?」
「ええ、パイロットでも、野球の選手でも何でも」
「…………」
周りを見ると、みんな手に手に色々なクレヨンを持ち、飛行機の絵や野球選手の絵を描いている。
女の子達の描いているあれは花屋の店員の絵だろうか。マイクを持って歌っているアイドルの絵だろうか。
「さ、愁君は何になってみたい?」
優しく先生が訊いてくる。
愁はもう一度、真っ白な画用紙に視線を落とした。
なりたいもの……?
なるものなら決まってる。
でも、なりたいもの……?
父親の跡を継ぐのが当たり前で、それ以外何もなくて。
自分の望むものを目指す等、そんな事を考えたことは一度だってなかった。
愁の目にふいに涙が滲んできた。
そうなのだ。他の子達は、将来なりたいものがあるんだ。
みんながみんな、父親の跡を継ぐわけではない。
自分のなりたいものを目指し、その為に努力して。
自分は?
「愁君……?」
先生が心配気に顔を覗き込んできたので、愁は乱暴に目を拭い、涙を振り払った。
「愁ん家は空手やってるから、愁は空手家になるんだよな」
隣でサッカー選手の絵を描いていた少年が言った。
「…………!」
「そうだったわね。愁君家って道場なのよね。じゃあ、愁君はお父さんの跡を継ぐのかしら」
「…………」
何故だろう。先生が笑顔で言うと、胸がズキンと痛んだ。

 

――――――「ふー……」
屋上のフェンスにもたれて愁は大きくため息をついた。
どうしてあんな小学校の頃の事を思い出してしまったのだろう。
長くのびた髪を鬱陶しそうに掻き上げ、愁は空を見上げた。
雲一つない晴れ渡った空。校庭からは昼休みの生徒達の騒ぎ声が聞こえてくる。
なりたいもの。
なるであろうもの。
「成績なんか良くなったって、あのくそ親父は別に嬉しくなんかないんだ。どうせ」
空手さえ強くなればいい。
まるで、そう信じ込んでいるように父親は愁に空手以外の事をさせなかった。
クラブ活動も学校行事も何もかも。空手の妨げになる事は何一つとしてやらせようとしなかった。

 

――――――「それだけあなたに期待してるのよ」
いつだったか、姉の涼子がそう言った時があった。
「若島津家の長男として、立派になって欲しいのよ。父さんは」
「別に好きで長男に生まれたわけじゃない」
「愁……」
愁はキッとなって、涼子の優し気な顔を見上げた。
「大体、立派になるって何だよ。空手が強くなれば立派な人間になったって言えるのかよ」
涼子は哀しそうに愁を見つめたまま、黙っていた。
「姉さんはずるいよ。オレがガキで父さんに敵わない事知ってるから、そうやって父さんの味方をするんだ」
「別に私は父さんの味方をしてる訳じゃないわ」
「してるだろ。今だって、父さんに言われてオレを連れ戻しに来たんだろ」
「…………」
その時、愁は父親と喧嘩して、家を飛び出してきていたのだ。
振り返りもせず、自分が家を飛び出すのを、黙って見逃した父親の大きな背中。
どうせ行く所など決まっている。放っておけ。頭が冷えた頃、連れ戻しに行けばいい。
無言で父親はそう言っているようだった。
そうなのだ。
いつだって、自分は父親の手の中で踊っている猿なのだ。
結局は家に戻るしかできない自分が悔しくて、愁はきつく唇を噛んだ。
「……愁は…強くならなくちゃね」
「…………」
「もっと、もっと、強くならなきゃ」
静かに涼子がそう言った。
「強く?……それは、空手がって事?」
「いいえ」
涼子は微かに首を振った。
「そうじゃないわ。愁」
「……姉さんは、強い男が好きなの?」
「…………え?」
唐突な問いかけに、涼子が顔を上げ、愁を見た。
「答えてよ。姉さんは強い男が好きなの?」
真剣な顔で問うてくる愁に、涼子は困ったように曖昧な微笑みを浮かべた。
「姉さんが望むんなら、オレ、強くなる。」
「…………」
「いつか、父さんより強くなる。」
「…………」
「だから……」

だから……?
そのあと、自分は何を言おうとしていたのだろう。

結局、愁も涼子もそのあとの言葉を続けることはなく、黙って家路についた。
それはまだ、見上げなければならない程、涼子が大きかった頃。
隣を歩く涼子の肩までしかない自分の身長が悔しくて仕方なかった頃。
微かな石鹸の香りに胸が痛かった頃。
そんな、昔の思い出。

 

――――――「めずらしいな、健坊」
ふてくされた態度で道場に現れた少年を見て、門下生の1人が声をかけた。
「……!?」
おもわず組み手をしていた手を止めて、愁はその少年を振り返る。
「……健…」
若島津健。今年小学校6年生になる愁の弟である健は、ぼさぼさの髪の間に見え隠れしている印象的な目で、近寄ってきた門下生を見上げた。
「随分ご無沙汰だったな、健坊。また、空手に戻る気になったのか?」
からかうようなその言葉に周りがどっと沸く。
小さな身体からは考えられない程の鋭い拳と、すばしこい動き。母親譲りの綺麗な目に、肩まで伸びたさらさらの髪。きちんと櫛をいれればかなり可愛いだろうに、わざとぼさぼさにして生意気な口調で喋る健は、少し前までこの道場の門下生達皆の良い弟分であった。
「別に戻ってきたわけじゃないよ。賭に負けたから仕方なく来たんだ」
口を尖らせて健が言った。
「賭?」
「何の賭だ?」
いつの間にか周りに集まって来ていた門下生達が口々に訊いてくる。
「この間の試合。1点でも失点したら一週間道場に通えって、父さんが」
「試合って……ああ、サッカーか。なんだ点入れられちまったのか? 健坊」
むすっとして健が頷くのが、人垣の間から見えた。
ここ最近、健はすっかりサッカーに夢中で、ほとんど道場に顔をだしていなかった。
なんでもすごく気になる奴ができたとかで、最初はそいつのPKを止めるまでは絶対あきらめないんだとか何とか言って、父親と大喧嘩しながらもサッカーボール片手に遅くまでグランドで泥まみれになっていた。
今では他の奴なら、3本に2本はPKも軽く止められるようになり、例の少年からも調子が良ければ5本に1本は止められるまでになっている。
すっかりチームの中心選手となった健は、正GKのポジションを得て、試合にも出るようになった。
父親は事あるごとに健にサッカーをあきらめさせようとしたが、どんな説得も効力をなさず、健はあいかわらず学校帰り、道場ではなくグランドへ走っていった。

健が父親と賭をしたという試合は、恐らく先日の日曜日の試合だろう。
昼過ぎから降りだした雨の中、ぬかるんだグランドで試合開始の笛が鳴った。
危なげなくゴールを護る健の瞳は生き生きとしていて、傘を差しながら応援に行っていた愁と涼子は初めて見る弟の表情に驚いたものだった。
健の護るゴールネットが揺れたのは、後半も終了間際の時間帯。
敵チームのキーパーを除く10人が一斉にゴール目指して突っ込んできた。最後にせめて1点。1点だけなんとしても奪うのだ。
泥しぶきを跳ね上げ、敵も味方も解らない程のゴール前の混戦状態。
誰が敵で誰が味方なのか、どれが足で、どれがボールなのか解らない程、ぐちゃぐちゃになった状態の一瞬の隙間。
空白の時間。
誰かの足がボールに当たり、たいして勢いもないまま、てんてんとボールがゴールに向かって転がった。
「…………あっ!!」
上手い具合にゴール右隅に転がっていくボールに追いつこうと、健は泥の中、必死で腕を伸ばし地面を蹴った。
あと、5cm届かなかった。
「…………!!」
敵チームの選手が抱き合って歓声をあげる中、健は呆然と泥にまみれたボールを見つめていた。

「あれは仕方なかったわよ。健ちゃんでなくても止められた人なんかいないわよ。運が悪かったのよ」
涼子の慰めの言葉にも一向に耳を貸さず、健はその日、夕食もとらずに部屋に引きこもったきり出てこなかった。

「残念だったな、健坊。でも、試合には勝ったんだろ」
「当たり前だ。うちには日向さんがいるんだから負けるわけない。8対1で勝ったよ」
「なんだ、圧勝じゃないか」
ポンポンと健の肩を叩き、門下生が言った。
「日向って、あの日向さん家の色の黒いガキだろ。この間、おでん屋の屋台を手伝ってるの見かけたぜ」
「ああ、確か小次郎って言ったっけ」
健を囲んでの門下生達の声が明るく響く。
皆、少しでも健を元気づけようとしているのだ。
少し離れた場所からその光景をじっと見つめていた愁の頭の中に、あの雨の試合の中、一際輝いていた浅黒い肌の少年の姿が思い出された。
たてがみのような髪と鋭い瞳で、グランド中を走り回っていた少年。
確か8点中、7点は彼が入れた得点だったはずだ。
失点の後、なかなか立ち上がろうとしなかった健に手を差し延べていたその少年の姿を思い出し、愁は納得したように頷いた。
きっと彼が、健が気になる奴と言っていた少年の事なのだ。

「健、来いよ。組み手の相手をしてやる」
「愁兄……!」
会話が一段落ついた頃を見計らって愁が声をかけると、健は人なつっこい笑顔で走り寄ってきた。
「久しぶりだから、軽く…な」
「うん」
まだ、愁より頭二つ分程低い身長で、健はいつものように左半身に拳を構える。
しばらく空手から離れていたというのに、健の構えからはぎこちなさ等かけらも感じられない。
あるのは燃えるような闘志。
こういう時はつくづく思う。健は父親の血を濃く受け継いでいるのだ。
繰り出す拳も、攻撃的なそのスタイルも、誰が見ても健の空手は父親に瓜二つだった。
「…………」
じりっとすり足で半歩前に行き、愁も同じ左半身に構えた。
軽いフットワークで前後に身体を揺らし、間合いを計りながら、健の鋭い瞳が愁の隙を伺っていた。
「はっ…!!」
繰り出された正拳を軽く愁が受け流すと、間髪を入れずに健の蹴りがうなりをあげて飛んでくる。
鋭い前蹴りの動きに併せて、僅かに左足を退きながら、愁が右手で外へと払い流す。とたんに健はそのまま回り込み、一瞬背中を見せたかと思うと、一挙に反転し、同時にものすごいスピードの後ろ蹴りが愁の脇腹に飛んできた。
「…………!!」
おもわず背中を冷たい汗が伝う。
とっさに送り足で下がりながら、慌てて掌底で、かけるように受けると、健の体勢が僅かに崩れた。
一瞬の隙をつき、放たれた愁の後ろ回し蹴りが健の顔面へヒットする。
「…………!!」
「しまった……!!」
つい、本気で蹴りを入れてしまった。
愁が焦って駆け寄ると、健は少し口の中を切ったらしく、僅かに滲んできた血を乱暴に拭い、勢い良く立ち上がった。
「まだまだ!!」
この、少しも衰えない闘志。それどころか先程より更に増した気迫。
愁がおもわずゴクリと唾を飲み込んだ時、道場の入り口から鋭い声が飛んだ。
「それまで!!」
「……親父……?」
入り口で腕を組んで仁王立ちしていた愁と健の父親である、この道場の主は、不機嫌そうな表情のまま、ずかずかと2人の間に割って入ってきた。
「どうだ、健。しばらくさぼっているから、そういう目に遭うんだ」
「…………!!」
健がキッとなって父親を睨み付けた。
「空手も中途半端。サッカーも中途半端とは情けないな、健」
「親父、何言ってるんだよ……健は……」
「愁、お前は黙っていろ」
「…………!!」
父親に一喝されておもわず愁は口をつぐんだ。
「勘違いするなよ、父さん」
健がじろりと父親を睨み付けながら言った。
「…………」
「約束だから、一週間は顔だしてやる。でも、忘れんなよ。オレがやりたいのはサッカーなんだ!!」
「…………!!」

オレがやりたいのはサッカーなんだ!!

まるで心臓をわしづかみにされたような気がして、愁は呆然とその場に立ちつくした。
何故か心が痛かった。
痛くて痛くて仕方なかった。

 

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